第二章「停滞」(二)
一九四三年十一月二日 呉
冬宮殿講和会議から一ヶ月後。
その年の十一月の辞令を受け取ったその日と帰宅の適った翌日、金城次郎は辞令を目の前にして首を傾けどうしだった。
彼の行為は、辞令を受け取った柱島の司令部から自宅に帰っても続き、今も御膳の前で浴衣を着崩して首を傾げていた。
その様が面白いのか、金城家の次女の和子が御膳の向かい側で鏡に映した方向で金城の真似をしている。
幼稚園に通いだしたばかりで、飾り気のないおかっぱ頭の髪型すら愛らしく思えてくる。
しばらくして娘の仕草に気付いた金城は、娘と顔を合わせると首の傾斜を徐々に大きくする。
最後には、バランスを崩した娘がコロリと転がった。
その後ひとしきり二人で笑うと、自分の膝の上に転がるように乗ってきた娘を抱えながらも、やっぱり怪訝な顔を続けていた。
「パパ、今日はどんなお遊びしてるの?」
娘が首をぐっと上向けて問いかけてきた。
「うん? 遊びじゃなくて、たぶん良いことがあったんだ」
「いいこと?」
「……ああ、良いことだ。和子にも近いうちにお菓子や玩具を買ってやれるぞ」
一度目の生返事のあと、満面に笑みを浮かべて娘に答えを返した。
娘は金城の言葉ずいぶんなはしゃぎようで、あれこれと無邪気な注文を付けてくる。
数年前なら難しい注文もあったが、今ではそれほど苦労せずに買うこともできるだろう。
(なにしろ昇進に加えて出世街道だからな)
しばらくそうして娘と二人じゃれ合っていたのだが、そこに二人の人影が台所から入ってくる。
「もう夕飯ですよ。パパも和子と同じように遊んでばかりいないでください」
「ママ、パパがおもちゃ買ってくれるって」
「ホント? じゃあ、私はお洋服が欲しいな」
会話に金城の妻の美智子と長女で高等女学校通いの明子が加わり、なお一層賑やかになる。
そして騒ぎを聞きつけた長男で国民学校高等科の治、初等科の正が加わって、金城家勢揃いだ。
家はこの時代の一般的な一戸建て。
海軍中佐の住まいとしても相応のものだった。
小さな庭付きの土地に部屋が五つと台所、家風呂があるのが少しばかり贅沢なぐらいだ。
部屋のすべても畳敷きで、お洒落で颯爽とした海軍士官の家というよりは、ごくありきたりな中流層の佇まいだ。
少佐に昇進してから十一年を数えるので、今少し贅沢な暮らしもできるのだが、子供の将来の教育のための貯蓄に努めているのが原因だった。
しかし子供の数も多いというほどでもなく、身なりも妻と夫は和装、子供達は制服や洋服。
賑やかな家なので、隣組がなければ海軍将校の家と言われて疑う者もいただろう。
傍目には、この時代の日本人が求める、慎ましくも幸せな一家の縮図のような家だった。
金城と妻が望んで作り上げた小世界だが、職場での彼を知る者が家に来ると少なからず金城との違和感を感じるのも無理ないほど普通だった。
そんな金城家だが、今日は家長の金城自身が決めた数少ない取り決めを果たす日となった。
彼が首を傾げていた原因の影響だ。
全員が食卓につき、今まさに妻の美智子と長女の明子がお櫃とお鍋から麦入りの御飯と味噌汁を入れようとした時、家長らしいと本人が思っている咳払いを行った。
金城は、軍事機密に触れない限り、自らの事はすべて話すようにしているのだった。
家族全員が、居住まいを正すまで少し待ってから口を開いた。
妻の側では、先ほどまで一緒に遊んでいた一番下の和子までがきちんと正座している。
「ああ、そのパパはな、本日付けで大佐に昇進した。任地も主にこの辺りになるだろうから、帰る事も多いと思う。あと美智子さん、お給金が出て家に余裕が出たら子供達に何か買ってあげなさい。・・・以上」
子供たちが、家長の最後の言葉に一番反応した。
口々に、あれが欲しい、これを買ってくれとせがむので、食事が始まるのにたっぷり五分はかかってしまった。
もっとも、金城自身仕事以外で時間にはいい加減な方なので、海軍将校らしい口うるささはない。
そしてその夜。妻と二人きりになった金城は、夫婦の寝室でゆったりとした時間を過ごしていた。
「改めて、昇進おめでとうございます」
やや古びた鏡台の前で夜の身繕いを整えた妻の美智子が、向きを変えると三つ指を立てんばかりの丁寧さでお辞儀をした。
非常に潔い仕草なので、年齢以上の若さを感じる事の多い一瞬だった。
妻を見ながら今日は一戦及ぼうかと思いつつも、まずは話を優先した。
家族の言葉に返すのは、彼の内心では義務のようなものがあった。
「うん、正直四十五で大佐になれるとは思わなかった。何しろ俺はヤマトンチュウじゃないからな。ハンモックナンバー様々だ」
「めったな事をおっしゃるものではありません。沖縄は立派に日本本土ではありませんか」
「うん。ああ、それはともかく、これからは今よりも少しはいい生活がさせてやれると思う。今回は、昇進の他にも望外な役職も頂いたのでな。順調に役職がこなせたのなら、提督も夢じゃない」
「と、申しますと」
美智子が小首を傾げるように問いかける。
軍隊の事に疎いというほどではないが、機密に関する事が多いので滅多に聞いてこない。
しかし今日は、金城の陽気さに当てられたようだ。
「うん、聯合艦隊の先任参謀を拝命した。ただ、なぜこれほどの職を頂けたのか、いまだに分からん」
美智子は夫の独白のような会話が始まった事を理解した。
うん、うんと頷くように話し始めると、外では話せないことを彼女だけにはうち明けた。
「うん、先任参謀と言えば、司令長官の懐刀ともなりうる役職だ。海軍の作戦立案を任させる事もある。ああ、そうだ。役職の事は他の方に話しても構わない。どうせ公報に載るからな」
「そうですか、重ねておめでとうございます。どなたかのお口添えがあったのかも知れませんわね」
美智子は、若くして結婚した時と同じような慎ましやかさを示して夫の話を促す。
「そう、口添えがあったらしいんだ。ホラ、ロシアの講和会議で一緒に行った井上閣下がいただろ。閣下は、帰国後すぐの内閣改造の折りに海軍省次官に就任されて、海軍大臣の山本五十六閣下に私が適任者の一人と候補に挙げてくだすったそうだ」
美智子が再び小首を傾げた。
「言ってなかったかな。私はロシアに在任中、井上閣下から何度もお説教をいただいた。てっきり無能者の烙印を押されて嫌われていると思ってた。世の中分からんもんだ」
「次郎さんの思われようとは違うご判断をなさったのでしょう。けど、首を傾げている割には嬉しそうなので、少し面白うございます」
俺の顔がか? そう言っていつものニヤリとした笑みを浮かべた。
主に女性受けの悪い男臭い笑い方なのだが、妻がその独特の笑い方を好いていること金城も知っていた。
金城が妻美智子と出会ったのは、この時代にありがちな見合いや近所の幼なじみではなく、金城が少尉任官後、妻が高等女学校時代の出会いに遡る。
現代では何でもない恋愛結婚なのだが、当時は大恋愛と言われて周りからも騒がれた。
そして金城が中尉に任官した年に身ごもらせてしまい、早々と夫婦になった。
軍人仲間から「早撃ち」だの散々な言われようだったが、「すねかじり」ともあだ名されたように、俸給が低いうちは彼の実家からかなりの仕送りを貰っていた。
金城は、家も先行投資ぐらいに思っているさ、と臆面もなく言い切ったので軍内部での受けもあまり良くなかった。
海軍将校の一般では、大尉でようやく所帯を持てるかどうかの俸給をもらえるようになるからだ。
もっとも、金城が妻に操を立て遊びにもあまり金を使わないので手ひどい批判にまでは至らず、むしろ平均以上の細君を若くして持った事へのやっかみの方が多いほどだった。
家も砂糖を商う沖縄ではそれなりの中産階級。
次男坊の物好きが海軍将校になったというのが一般的な風評だった。
もちろん郷里では海軍将校様として相応の尊敬を受けてはいるが、人々の内心の奥底は何もそこまで国に尽くさなくてもと思われている。
しかし彼は、列島四島周辺に住む日本人から見れば異端で、成績では恩賜の短剣組一歩手前だったのに、出世街道からは少しばかり外れていた。
昇進も海軍大学での成績を考慮すると遅い方だった。
有名な同期には親独派で有名な神重徳がいて、向こうがライバル視しているという噂もあったが、彼の方が数年先をいっているはずだった。
それが今回は、大佐昇進だけでも金城にとっては驚きなのに、先任参謀とはという気持ちが強かった。
しかし、妻の控えめな笑顔を見、子供らの無邪気な顔を思い浮かべると、まあ良いかと思い直し、そのまましばし現世から離れることにした。
そして翌朝。
心身共に充実させた金城は、週末には戻れると思うという言葉を残すと、意気揚々と職場へと向かった。
海軍大佐にして先任参謀なのだから、海軍公用車でのお出迎えでもいいのだが、金城は歩き回る癖があって、今日も柱島への船着き場まで家から歩いてきた。
そして桟橋にいた司令部所属のランチでしばし揺られてたどり着く先が、現聯合艦隊旗艦軍艦「武蔵」になる。
もっとも、ランチからは参謀長の福留繁中将と同船になり、しばし雑談しつつの同行となった。
「どうかね、新らしい階級章に少しは馴染んだかね」
「はい、福留参謀長。しかし先任参謀という職は私にはいささかサイズの大きな服に思えます」
「ハハハ」金城の冗談に儀礼的に笑った福留は、笑い終えるとかなり真剣な眼差しになった。
声もかなり小さく、周りをはばかるという風が強い。
同乗者が周囲にいないというのにだ。
「いいかね金城先任参謀、これは他言無用に頼むが、今回の先任参謀人事は海軍省がかなり無理を押したそうだ。何でも部内では、先任参謀には君と同期の神重徳を推す声が強かった」
「当然でしょう。あいつは海軍大学主席で、日本海でもウラジオ突撃で活躍していますし、頭も切れます」
「それに親独派、いや危険なほどの親ヒトラー派だ」
福留が瞳で刺すように言葉を継ぎ足して続けた。
「いっぽう海軍上層部は、近衛首相の宥和政策を望むという援護射撃もあって協調派で占められた。海軍大臣が軍神とまであがめられた山本五十六閣下とあっては、誰も文句は言えないしな」
「その人事の結果、どこにも属さない私が参謀に選ばれたと」
「早合点するものではない。古賀長官のお話では、山本大臣や井上次官も君を買っておられるそうだ。井上次官に気に入られるとは大したもんだな。いや、本当に素直に感心させていただくよ」
出世街道まっしぐらの福留だが、内面も常識と良識を多く抱えているようだ。
エリート特有の雰囲気はあるが、逆にエリートらしい素直さを金城は言葉の端に感じた。
ならばと金城は切り出した。
「井上閣下には、サンクトペテルブルクでお小言をいただいてばかりでした」
金城は、頭をかきつつ苦笑いで返してみた。
案の定福留が可笑しそうに話しに乗ってくる。
「他の随員から見れば、馬の耳や蛙の面に何とやらという風に見えたというぞ」
「いやまあ、井上次官によらず叱責には馴れています。それに、井上次官のお言葉は大変参考になりました。もっとも、講和会議では結局役には立ちませんでしたから、怒られ損だったかもしれません」
「とは思っていないらしいぞ、井上次官は。自分同様言いたいことをズケズケ言う硬骨なところもあると、誉めておられたそうだ」
「ズケズケ言うというのは、正しい評価です。全権だった松岡さんからも何度か睨まれた覚えがあります」
「まあ、なればこそ二人の目にも止まったのだろう」
福留は話を続ける。
だが、海軍省の二人はともかく、なぜか福留も金城に好意的なようだった。
確かに福留は、山本大臣の参謀も務めた事はあったが、特に協調派でも親独派でもなかったはずだ。
徹頭徹尾、聯合艦隊の伝統を背負って立つ戦術戦略の神様。
だからこそ、古賀峯一 連合艦隊司令長官に三顧の礼を尽くされて再び参謀長に就任したのだ。
その点不思議に思った金城は、「武蔵」の舷側も近づいて来たので単刀直入に質問を発してしまった。
魔が差したと言われる事の多い彼の癖のようなものであり、今回も同様だった。
「閣下、失礼でなければお聞きしたいのですが」
何かね、そう問い返した福留は、今のところ好意的な表情を崩していない。
「はい、私と閣下の直接の面識は今回の人事で初めてのはずです。ですが、閣下は何かにつけてお声をかけてくださいます。嬉しくも有りがたくもあるのですが、お心の一端なりともお聞かせ願えないでしょうか。私個人としては、初対面に近い人から好意を受けたのは妻以外は希でして」
言葉の最後は、自然とニヤリとした笑みを浮かべてしまう。
これで誤解する人間も多く、ぬけぬけと言って来る事もあって変人呼ばわりされる事も多い。
福留も最初は瞳が小さくなるほど驚いたので、金城は内心シマッタと思った。
だが福留は噴き出すように一笑してから肩をポンポンと叩いた。
「まあ、そのうち話そう。それまでに君の方から私の好意を得る要素を見つけていて欲しいものだ。しかし、私も君を買っている。その事は忘れないでくれ」
金城は、福留と二人で司令部の会議場として使われている長官公室に入った。
客船建造を手がけてきた長崎造船所の手による艦だけに、調度の質は高く鋼鉄の壁でなければ十分ホテルの小会議場で通用しただろう。
中には、古賀長官以外の多くがすでに揃っており、ランチに人が少なかったのも得心がいった。
そして二人が腰掛けて、他の者と挨拶など少しばかり歓談していると、隣の長官室から古賀長官が入ってきた。
薫陶とは言えないまでも、古賀長官のちょっとした挨拶がてらの言葉の後、ようやく最初の会議となった。
金城が初めて体験する聯合艦隊中枢であり、日本男児の誰もが憧れるとされる聯合艦隊司令部での初勤務の始まりだ。
今回は、最初の会議という事もあり、部屋に集まれる限りの実戦部隊指揮官が顔を揃えていた。
金城は唯一の大佐で、司令部の先任参謀でなければ他の司令部参謀と共に別室待機だっただろう。
司令部だけの会議はこの後だ。
なお今列席しているのは、聯合艦隊司令長官に古賀峯一大将、 同参謀長福留繁中将をトップに据えて、第一機動艦隊の小沢治三郎中将、第二艦隊の栗田健男中将などそうそうたるメンバーが続く。
中でも目立つのは兵学校四〇期の卒業生だった。
参謀長の福留を筆頭に、第一機動艦隊第二機動群指揮官の山口多聞、第一戦隊司令の宇垣纏、第二航空艦隊司令の大西瀧治郎など、さすが花の四〇期と唸らされる。
部屋の大きさから総数で二十名に満たないが、全員から強い気とでも呼ぶべきものが発散されており、司令長官の古賀はそれに負けないよう話を切りだした。
「諸君、まずは改めて挨拶を述べさせてもらったが、今より本会議を開催したいと思う。最初に福留君から、全般状況について聞いてもらいたい」
会議そのものは、顔合わせの挨拶のようなおきまりの議事しかなく、金城は内心欠伸することしきりだった。
もちろん本当に欠伸をするわけではないが、海軍正統派の司令長官と参謀長が切り盛りする新たな聯合艦隊だけに、堅実さの目立つ会議となった。
金城は噂に聞く、第二期山本長官時代とは随分違う雰囲気なのだろうと思った。
なにしろ伝説的雰囲気すらある第二期山本長官時代は、第二次世界大戦と赤色戦争を乗り切った時期に当たり、しかも長官はもとより先任参謀の黒島亀人など個性的な人物が多いとされていたからだ。
その時のスタッフは黄金仮面こと宇垣纏中将ぐらいだが、さすがの金城も宇垣と雑談に興じて聞いてみたいとは思わなかった。
けっきょく挨拶と今までの状況確認という以上の会議にはならず、これから皆様よろしくとして終幕となった。
状況が同じだったのは次の司令部のみの会議も同じで、伝統と様式を重んじる海軍がかくあるべきという範疇からでるものではなかった。
そして当然と言うべきか、一週間大過なく過ごす事にもなる。
まさに平時の海軍に他ならなかった。
移動になった将兵が新たな任地に多少は馴れ、最初の訓練に出るまでは平穏な日常が続くはずだった。
軍隊とは言っても、戦争状態でもない限り、少しばかり規律が厳しい会社とそれほど変わりなかった。
金城にとっても、福留参謀長の宿題を思い出す作業と、週末に帰宅したとき我が家を訪れた小さな事件が例外ぐらいだった。
しかも事件といっても、金城宛で個人から海外郵便が届いたに過ぎない。
送り主の名は、ロバート・アンダーソン。
彼の出した手紙は、ハワイから遠路はるばる船便で六〇〇〇キロの波濤を乗り越えて、さらに末娘の手を介して金城の手に届けられた。




