第二十一話 最大の賭け。(前編)
一部暴力的な表現が含まれています。苦手な方はご注意下さい。
彼らが好意的でないことはすぐに察しがついた。注がれる視線の冷たさに思わず身構えると、わたしを庇うように立ちはだかるシェリルさん。
「彼女は私の大切な友人。用があるなら私が聞くわ」
「貴女様のことは存じ上げてあります、ミス・シェリル・ガートランド。我々は加瀬家にお仕えする者です。恐れながら、貴女様の後ろにおられる方に至急の用件がございます。ご同行願えますか」
「至急の? どういうことなの」
「副社長が直々にお会いしたいと――」
副社長、と聞いたシェリルさんの纏う空気が変わった。表情は見えないものの、緊張感が伝わってくる。悪い予感がした。
「どこへ行けばいいですか?」
「玲菜ちゃん!?」
「よく分かりませんが、おそらく葵さんのことで私に話したいことがあるのだと思います」
「それならなおさら……!」
「大丈夫です。だからシェリルさんは、この後も文化祭を楽しんで行って下さい」
「そんなのだめよ絶対。貴女が行くなら私だって――」
行くわ、と言い終える前にわたしは精一杯の笑顔を見せた。あまりいい状況じゃないことは確かだ。それでも不安で頭がいっぱいになってしまわないのは、こうして一人でいる時でも加瀬の存在を感じるから。彼がくれた言葉のひとつひとつが、重ねた手のぬくもりが、私に力をくれる。
「ありがとう、シェリルさん。だけどもし二人とも急にいなくなったら、きっと加瀬が心配します。だからここに残ってもらえませんか。もし加瀬に会ったら、私は急用で早退したと伝えて下さい」
「玲菜ちゃん……」
シェリルさんは一瞬、躊躇いがちに口を開いたけれど何も言わなかった。
わたしは加瀬家の使いと名乗った人達に連れられ、裏門の付近に停められた車に乗り込む。心配そうに見送るシェリルさんに小さく手を振った。誰かに迷惑を掛けるわけにはいかないのだ。それが加瀬の大切なひとならなおさら。
「副社長に例の方をお連れしました」
「承っております。芦田玲菜様ですね。どうぞこちらへ」
車がビジネス街にそびえ立つ、近代的なビルの前に停まったのは二十分ほどした後だった。それからは、打ち合わせがあったような手際のよさで事が運んだ。警備員に守られた扉の前に来て、胸が高鳴る。これから何が始まるのだろう。
「貴女が芦田玲菜さん?」
「は、はい」
「突然呼び出して悪かったわね。忙しい身で自由に出歩けないのよ」
執務室らしき部屋にひとりでいた女性は、書類の束を脇に置き、すっと立ち上がった。上等そうな濃いグレーのスーツを纏った彼女は華奢なヒールの靴を履いている。コツコツと音をさせながらわたしの目の前に来ると、艶然とした笑みを浮かべて握手を求めた。
「はじめまして、私はフォーコンチネンタルグループ加瀬の副社長です。進の婚約披露パーティーに出席して下さったのよね。どうもありがとう」
「こちらこそ、お招きに預かり光栄です。あの、貴女はもしかして……」
「ええ。進と――葵の母です」
加瀬の義理の母親――
話を聞く限りでは、一体どんなに冷酷非情な人だろうと思っていた。だけど今、目の前にいる女性はそんなふうに見えない。突然連れて来られただけに、どんな目に遭うか分からないと腹を括っていたわたしは拍子抜けした。だけど次の瞬間、赤い唇から零れた言葉はわたしの動揺を誘うには十分だった。
「時間がないから単刀直入に言うわね。あなた――葵に騙されているのよ」
そのとき、脳裏に蘇る記憶。奏の言葉が今になって心を掻き乱す――
『彼はいつか君を裏切る。それも遠くない未来にね』
動揺を読み取ったのか、憐れむような眼差しが向けられ、わたしは言葉に詰まる。そんなことはありえないと否定したいのに、それができない。この場の主導権は完全に相手が握っている。
「可哀そうな子。すぐに夢から醒ましてあげる。ところであなた、葵から何か聞いた?」
「……っ」
世間話のような気軽さで問われ、冷や水を浴びせられたようだった。疑われているのだ――加瀬の出生の秘密を知っているのではないかと――今、このときわたしの答えで大きく運命が変わってしまう。焦っちゃいけない。決して動揺を悟られてはいけない。
「葵さんは今日の文化祭を楽しみにしていました。お母さまがいらっしゃればきっと喜んだと思いますが、仕事でお忙しいようですね。残念です」
彼女は黙ったまま微笑む。そして「そう」と短く答えて背中を向けた。執務机の方へ戻っていく後姿を眺めながら、彼女との間に十分な距離ができて内心安らぐ。
「あの子は病気なの」
「!? 葵さんがですか」
「そうよ。もう長く患っていてね、一生治らない。だから心配なのよ。できればずっと私の側で看ていてあげたいと思っているわ。ここにいれば何不自由ない生活が約束される。あなたもそう思うでしょう?」
「それは……」
「公立のしかも無名校に進学したいと聞いたときは眩暈がしたけれど、高校を卒業するまでの間だけという約束で認めたの。どこへ行っても無駄だと言っても聞かないのよ、おかしいでしょう? あの子は誰にも心を開かない。――死ぬまで孤独なの」
淡々と付け足された一言に、静かな怒りを感じた。もはや同じ空間にいるだけで不愉快だった。そんなわたしに気付いたのか、彼女は再びこちらを振り向き、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「葵とこれ以上関わらない方が身の為よ。で、ここからが本題。貴女の目的は何?」
「目的? 何のことでしょう」
「誤魔化す必要はないわ。貴女もそのつもりで来たんでしょう」
「……おっしゃる意味が分かりません」
「力のある者に近付く人間はみんな目的がある。そういうこと」
あなたも同じ人種でしょう――そんな蔑みを孕んだ声だった。どうやら加瀬に近づいたのは財産目当てだと思われているらしい。
「わたしはそんなもの望んでいません」
「本当にそうかしら。進から手切れ金を受け取らなかったのは理由があるんじゃないの。たとえば、もっと大きな見返りを期待している、とか。私、欲望に忠実なのは嫌いじゃないのよ。さぁ、聞かせて。あなたの望みは何? 我が社の力で叶えられないことかしら」
怒り、悲しみ、不安、苛立ち。
すべての感情がさざ波のように引いていくのが分かった。この人は何でも力で捻じ伏せられると信じている。そしてきっと思い通りに他人を動かしてきたに違いない。だけどそれを羨ましいなんて欠片も思えない。なぜなら――
「貴女は全てを手にしたような顔で、哀しい目をするんですね」
「何ですって?」
「わたしの望みを貴女に叶えることはできません。貴女の言う『我が社の力』にどれほどの価値があるか知りませんが、わたしにとって加瀬は何かと比べる対象じゃないんです。だって比べようがないでしょう? 彼は世界中どこを探しても、たったひとりしかいない」
富も権力も財産も、加瀬の前では霞んでしまう。人が動く理由はそれぞれで、他人の生き方を否定する気持ちは微塵もないけれど、わたしにはそんなものの全てが無意味だった。いつもわたしを突き動かしているのは他の何でもない、加瀬を想う心ひとつだけ。
「……なるほど。どうやら想像以上にあなたは危険な存在ね。忌々しいあの女と同じことを言う」
ふっと視界が暗くなる。一歩ずつわたしの方へ踏み込んだ彼女の影が落ちたのだ。そして、先ほどまでとは別人のようなほの暗い、翳った瞳に射抜かれる。これまでに向けられたことのない激しい感情は、ただ見つめられているだけで肌を刺すようで恐怖を煽る。
「排除しなくちゃ。私の一番大切なものを奪ったあの女だけは死んでも許さない」
「……何を――」
「とぼけないでよ。知ってるんでしょう? 葵の≪秘密≫を。しらを切れるとでも思った? この私を相手に。見くびられたものね」
端正な美しい顔が歪められ、ゆっくりとわたしの首に手が回る。まるで金縛りに遭ったように指一本動かせない。そして硬直している間に、どんどん力が込められていく。明確な殺意と共に――
「葵は私のものよ。誰にも渡さない」
「……っ」
「秘密を話すなんて馬鹿な子。後でたっぷりお仕置きが必要ね。貴女も知られたからには野放しにできない。恨むなら葵にしてちょうだい」
「ぁ……ぅ……」
――息ができない。苦しい。これは現実に起きていることなの? もう加瀬に会えないの?
そう思った次の瞬間、扉の外が騒がしくなったと同時に飛び込む人影。現れたのは、幻でもいい、会いたいと願った愛しいひと。
第21話の後編はまもなく更新予定です。長らくお待たせし申し訳ございません。




