第十七話 理想の恋人。(中編)
「ねぇ芦田さん、これから時間ある?」
「はい?」
「これから遊びに行くんだけど、もしよかったら一緒にどうかなって」
始業式後、教室に戻る途中で声を掛けてきたのは水谷さんだった。
まさかこんなふうにお誘いがあるとは夢にも思わずきょとんとしてしまう。
「あー、急だし迷惑だった?」
「!! そんなことはっ」
「ほんと? よかったぁ。実は前から話したいと思ってたんだ」
「わ、わたしとですか?」
「そうだよー。でも正直ちょっと話しかけにくい雰囲気だったからさ、機会を窺ってたの。だから今朝加瀬くんと一緒にいるの見て驚いたよ」
「どこか変でしたか?」
「ううんその逆! なんていうか、すごくリラックスしてる感じで安心したんだ。あんまりみんなの輪に入らないし、ひとりでいる方が好きなのかなって勘違いしてた」
ひとりが好き――……。確かにその通りだ。集団に居て心地良く感じることはなかったし、むしろ他人と関わるのを煩わしく思っていた。奏や雪音など一部の人間を除いて積極的に近付こうとしたひとはいない。だけど加瀬と出逢ってから世界が広がったのだ。これまで避けてきた道を進んで選ぶようになったし、何より衝突を恐れて諦めることがなくなった。
「確かにたくさんのひとがいるのはあまり得意じゃありません。でも最近は少しだけ勇気を持てるようになったんです」
「ふーん? それって彼氏のおかげ?」
「えっ!?」
「きゃー! やっぱりそうなの? 笑顔が柔らかくなったと思ったぁ」
恐るべし洞察力! 女子の見る目は侮れないな――と焦りつつ加瀬へ視線を移した。
誰かに囲まれてる方が自然に見えてしまうのは彼の人徳なのか、相変わらず人気者でグループの中心にいる。だけどすぐに気付いて微笑み返してくれるから――こんな自分でも側にいていいんじゃないかって都合のいい夢を抱いてしまう。ほんとうならこうして同じ空間にいられるだけで奇跡みたいなのに……。
「彼氏じゃないです」
「へ?」
「友達とか、恋人とか、家族とか……そういう言葉で括れないくらい、大切なひとです」
水谷さんだけに聞こえるよう囁いた。加瀬が恋人だと認めてくれたのは嬉しいけれど、それは二の次だ。お互いがお互いを誰よりも大切に想っている、その事実が何よりも深い安らぎと充足感を与えてくれるのだから。
「なんかずるい~」
「??」
「超幸せそうな顔してたー!! ってことでこれから合コン付き合って? 彼氏じゃないなら問題ないよね!」
「いえ、あの、いまのは言葉のあやといいますか……」
「それじゃあレッツゴー!」
水谷さん――と呼び止める間もなく腕を引かれ、数人の女子と連れだって学校を後にした。
教室を出るとき、どこか心配そうな加瀬と目が合ったものの助けてと言い出せなかったことをわたしは心底後悔することになる。
「ほんとに芦田さん連れて来ちゃったの? 由希は強引だなぁ」
「だってー、これくらいしないと仲良くなれそうになかったし」
「ごめんねー芦田さん。この子悪気はないんだ」
「い、いえ。お誘いはすごく嬉しかったです」
水谷さんとよく一緒にいる女の子に謝られ、わたしは慌ててフォローした。遊ぼうと誘われて嬉しくないはずがない。ただ――
「合コン、でしたっけ? 申し訳ありませんがその手の会合に関してはお力になれないと……」
「お願い一時間だけ!! 座ってるだけでいいから!!」
「でも……」
「今回の合コン相手、海棠高校なの。芦田さんも名前くらい知ってるでしょ? 白鳳凰学院には及ばないまでも理系に特化した進学校だよ~。エリート男子が集まってるのっ」
海棠高校――医者を目指す学生が集まる進学校だと耳にしたことはある。一部では白鳳凰学院をライバル視してる生徒も多いとのことだったが……。
「由希ってばいっつも『加瀬くん、加瀬くん』ってはしゃいでるクセにミーハーだなぁ」
「加瀬くんはみんなの王子様だもんっ。ひとり占めできるような相手じゃないことくらい分かってるよぉ」
「水谷さん……」
「実はね、今日の合コンも無理にセッティングしてもらったの。勉強が忙しいって断られ続けてたんだけど、すごく頭の良い子がいるから刺激になるよって大見栄切っちゃったの」
「え」
「勝手にごめん! でもこんなこと頼めるの芦田さんしかいなくて――」
どうしよう。この状況はまずい、かも。本能的に危機を感じながら、目の前で両手を合わせる水谷さんを責める気になれなかった。合コンなんて誘われたことない上に加瀬以外の男子とはほとんど会話すらしていないのに、場を盛り上げろと言われても正直無理な話だ。
「あれ、もう来てたんだ」
どう断ろうか考えている内に時間切れ。数人の男子グループに声を掛けられた水谷さんは明るく表情を輝かせた。なるほど、確かに世間一般で言う男前に分類されるだろう面子が集まっている。
「ごめんね。待った? なかなか人が集まらなくて」
「ううん、大丈夫! 来てくれてありがとうっ」
とても帰れる雰囲気じゃない――と察したわたしは諦めてついて行くことにした。
水谷さんの顔を立てつつ頃合いを見てお暇すればいいだろう、なんて甘い考えがさらに事態を悪化させる。近くのカフェに入り、簡単な自己紹介を経て会話が弾んだ頃、加瀬から着信があったのだ。
流れとはいえ合コンに来てしまったことを何と説明していいか分からない。とはいえこのまま無視するのも後ろめたくてこっそり席を立ち、トイレの前に移動した。
「ねぇ、君が学年一位の子でしょ? どこの中学出身?」
加瀬に電話を掛け直そうとしたまさにそのとき、背後から声を掛けられ飛びあがる。
海棠高校の制服――ということはさっきいたメンバーのひとり? 正直ひとの顔を覚えるのは苦手だ。
「え、と」
「どうして桜花学園に入ったの? もしかして受験失敗したとか?」
「……違いますけど」
「あはは、そう警戒しないでよ。勝ち組になれるかは大学受験で決まるんだし、これから挽回すればいいじゃない。それよりさぁ――なんであんな頭悪そうな連中と一緒にいるの?」
「!!」
「偏差値の低い人間なんて学べることないじゃん。時間の無駄だよ。だから嫌だって言ったのに、あの女がどうしてもってしつこいから来てやったんだ。君も同じじゃないの? さっきからずっと黙ってるし楽しそうじゃないよね」
しまった。人数合わせで現れた地味な女に興味を持つはずがない――油断していたわたしはずっと相槌を打つだけの聞き役に徹していた。それなりに愛想笑いしたつもりだったけれどこうもあっさり見破られるなんて気を抜き過ぎだ。
それにしても感じの悪い男だと思う。わざわざそんなことを言うためについてきたなら悪趣味としか言いようのないおせっかいだ。早々に撤収してもらおう。
「偏差値じゃ人間の価値は測れませんよ。分かりやすく数字化された評価なんて今だけのもの。社会に出ればそんなの関係ありません」
「言うね~。期待されてる人間はプレッシャーかかってきついんだよ?」
「分かります。それで?」
「え」
「それが何かと言ってるんです」
「な……っ」
「あなたと同じく医者を目指してるひとを知っています。彼は他人を見下して優越感に浸ることはありません。周りに流されず、常に物事の先を見据えて最善を選び続ける覚悟のあるひとです」
一度だって期待を裏切らない孤高の天才――奏は格が違う。わたしが彼を尊敬するのはその類稀な才能そのものよりむしろどんな環境にあっても折れることのない意志の強さと、それを支える確かな実力。
自らに奢ることなくしかし臆することもなく、相手が誰であっても屈しない清廉な心の持ち主だ。
生まれながらの天才であり著名な医師――北条優の息子であるという事実は想像を絶するプレッシャーを与え続けたに違いない。それでも弱音を吐くことなく、異彩を放つがゆえに他人と距離を置かれても凛と背筋を伸ばし前を向いている。
「見切りをつけるのは簡単なんですよ。信じ続けることの方が何倍も難しい。少なくとも――彼女たちは今日あなた方に会えるのを楽しみにしていましたよ。あまり失望させないで下さい」
「この……! 調子に乗るなよ。お前みたいな日陰女を相手にする男がいるものか。お情けで声を掛けてやったのに勘違いしてんじゃねーよ!」
「きゃっ」
ぶたれる――! 本能的に身を庇ったわたしはふっと視界に影がよぎって息を呑む。
襲ってくるはずの衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。代わりに凄まじい冷気が辺りに漂い、相手の気配がひるむのを感じた。
「――そこまでだ」
不意に抱き寄せられたわたしはそれが奏だと理解するのに数秒かかった。
凍てつく鋭い眼差しは静かな激情を孕んで獲物を威嚇する。けして怒鳴りはしなのに、その声はむしろ恐怖を煽り言葉を失ってしまう。
こんなに怒りを露わにした奏を見たのはあのとき以来だ。普段は何があっても動じないこのひとの逆鱗に触れた人間――その末路を案じて咄嗟に奏の手を握る。すくみあがっていた海棠高校の男子は「ひっ」と小さく悲鳴を漏らして壁を背に座り込んだ。空気が張り詰めて痛い――。
「……学校へ迎えに行ったらいないし心配したよ。おいで。一緒に帰ろう」
どうしてここに? 質問する前に答えを返されて戸惑ってしまう。
わたしに向けられる笑顔も、差し伸べられる手も、昔から変わらない。奏は極端だ。他の人間には目もくれず無関心で、わたしには何もかも与えようとする。まるでそれが当然であるかのように――
「芦田さん大丈夫? 遅いから様子見に来たよ~」
「あ、水谷さん」
わたしと並んでいた奏をひとめ見た瞬間に固まる水谷さん。しばらく取りつかれたように見惚れたあと、ハッと我に返り急いで耳打ちしてきた。
「ちょっと誰この超イケメン!? このひとが芦田さんの彼氏!?」
何をどう説明しようかと迷っている間に、尻もちをついていた海棠高校の男の子はいなくなっていた。
一方奏は顔色ひとつ変えずに水谷さんの制服を見て首を傾げる。
「君は玲の友達?」
「え!? あ、ハイ??」
「そう。これからも玲をよろしくね。彼女こう見えて強情だから気を付けて」
「奏!」
「ふふっ、冗談だよ。怒った顔も可愛いね」
ふわっと微笑む奏は天使だ。慈愛に満ちた眼差しを向けられるとほんの少し息苦しい。
わたしを除いて――誰にも心を開かずひとりでいることを選んだ奏は昔の自分と重なるのだ。
ひどく冷静で大人びて見える半面、わがままで融通の利かない子供のようで目が離せなかった。
その点加瀬は正反対だ。子供じみた駄々をこねてみせても、相手がほんとうに困るようなことはけして口にしない。状況に応じて身を引く潔さもある。それはわたしに対しても同じで、内心もっと甘えてほしいのにと物足りなく感じていることを彼は知らないだろう。




