第十七話 理想の恋人。(前編)
夏休み明けの始業式。わたしは落ち着かない気持ちで教室に向かった。
加瀬と学校で会うのは久しぶりだ。どんな態度を取ればいいのか悩みに悩んだ末、いつもどおり自然に振舞うのがいちばんだという結論に達した。だけどハプニングというものは起きてしまう訳で、
「おはよー!」
「ひゃあっ!?」
いきなり背後から抱きつかれたわたしは素っ頓狂な声をあげてしまった。クラスメイトに注目される中、おそるおそる振り向けば至近距離に加瀬が。
「今日はサイドテールなんだ? かーわいい」
人懐っこい笑顔を浮かべてすり寄る加瀬。女の子たちは衝撃を受けた様子でそのまま固まっている。
まずい。非常にまずい。このままでは日陰者ライフが危ない!
「あ、あの。今すぐ離れて下さい」
「やだ」
「子供ですか!」
絶対目立たないよう、ひっそりと生活してきたというのにこれでは水の泡だ。クラス一存在感の薄いわたしがクラス一の人気者と絡んでいるだけで異様だろう。駄々をこねる加瀬を押し返そうとするも全く効果がない。仕方なく廊下へ避難すると、嬉々としてついてくる加瀬。わたしはきつくお灸を据えようと渋い顔でたしなめる。
「何考えてるんですか? ここは学校ですよ? それでなくてもあなたは目立つのに、あんなふうに絡んできては注目の的じゃないですか」
「むー。だめなの?」
「だめです。わたしたちが親しいと露見するのは賢明じゃありません」
「むずかしいこと言われてもなぁ」
「クラスメイトにあなたと仲が良いことを知られたくないと言っているのです!」
「ああ、なるほどね~。付き合ってるってバレたくないんだ?」
「!!」
しれっとした表情で頷くと、両腕を組んで考え込む加瀬。わたしは頭の中が真っ白になって言葉を失う。いま、何て……?
「あれっ。もしもし? 玲菜サーン?」
「つ、付き合っ……?」
「うん。付き合ってるよね」
「ええぇえ!?」
「もしかして告白は受け入れたけど付き合うかは別問題?」
「あぅ、そ、そんなことは」
「ないよねー? だってずっと一緒にいてくれるって約束したし」
キスもしたし――と、ひときわ低い声で囁かれた瞬間に顔が火照るのを感じた。
だめだ。このひとは簡単にわたしの心臓を鷲掴みにしてしまう。
あの夜の出来事をこんな形で蒸し返されるとは思わず油断しきっていた。
「加瀬くん、おはよー! 教室入らないの?」
突然声を掛けられたわたしは彼女がクラスメイトのひとりだとすぐに気付けなかった。
ゆるくウエーブのかかった髪は肩より長い。ぱっちりした瞳が印象的な女の子。
「おはよー水谷。いまちょっと話してたとこ」
「も~、由希でいいって言ってるのに~」
まるで視界に入ってない、というか唐突に訪れたふたりの世界。彼女はさりげなく加瀬のシャツを引っ張り、拗ねたような甘え声を出した。胸の中にもやっとした雲が広がり、わたしは無意識に視線を逸らす。
「あ、芦田さんもいたんだ? おはよー! 宿題やってきた?」
「え? あ、はい」
「さすがー! あたしなんか完徹だよー。もっと早く始めればよかったなぁ」
「あはは……」
あれ? どうしたんだろう。何かがおかしい。
作り笑いをしようとして、口角があがらなかった。にっこり笑って見せるくらいなんてことないはずなのに、それができない。肩に力が入り、いますぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
「それじゃあお先に」
「うんっ! またね~。でねっ、加瀬くんあたし昨日――」
もうここにいたくない。できるだけ平静を装ってその場を離れようとした、そのとき。
「ごめん、水谷。俺、玲菜に用があるんだ」
「えー!?」
はっきり告げられたあと、掴まれる腕。驚いて顔をあげて後悔した。
加瀬の顔を見ると嬉しくて幸せなのに――ときどき理由もなく泣きたくなるときがある。
いままさにそのときを迎えて、歪みそうになる視界を必死で凝らした。加瀬を困らせたくない。
「ちょっと来て」
短く呟いた加瀬はそのままわたしを引っ張って走り出す。
不満そうに頬を膨らませた彼女がチラと目に入り、なんだか後ろめたい気持ちになった。
しばらく走ったあと、足を止めたのはあまり使われなくなった資料室だった。
中に入り、扉を閉めるとようやく一息つく加瀬。
「ごめん」
「どうして謝るんですか」
「玲菜に嫌な思いさせた」
「別に嫌な思いなんて……」
「してないならなんで泣きそうなの?」
「!!」
不安を見透かされていたことに心が揺れる。あのとき、別な女の子が加瀬に触れるのを見てえもいえない焦りと悲しみが湧きあがったのだ。特に何かしていたわけじゃないのに、どうしてこんなにも余裕がなくなってしまうのか。
「俺はずっと八方美人だったから、たぶんこれからもあんなふうに近付いてくる子がいると思う」
「そう、ですね」
「彼女ができたって言えば少しはマシになるよ」
「それはだめです!」
「どうして? 俺が彼氏だと恥ずかしい?」
「まさか! そうじゃないです。そうじゃなくて……わたしがあなたの、その、恋人だと分かったらあなたに迷惑を掛けるかもしれません」
「迷惑?」
「だって加瀬は学年でいちばんの――いいえ、校内で最も人気のある男子じゃないですか。それなのにわたしみたいな日陰女と一緒にいたらあなたの評判に響きます」
「評判、ね。それってそんなに大切?」
「え――」
「いまの俺にとっては玲菜にどう思われるかが最優先だよ。確かにこれまではずっと周りの評価を気にして生きてきた。だけどそのせいでいちばん大切なひとを笑顔にできないなら、もうやめる。玲菜の幸せ以上に気遣うべきことなんて、俺にはないんだよ」
――……。
最強の殺し文句だと思った。呆然とその場に立ち尽くし、わたしは加瀬を見つめた。
澄んだ碧い瞳は慈愛に満ち、何も心配することはないんだよと――視線で伝えられた気がした。
「おいで」
優しく手招きする加瀬は、甘やかに微笑んでわたしを迎えた。
ためらいがちに距離を詰めると、両腕がふんわりと背中に回される。
抱きしめられ、相手の体温と鼓動を感じた。トクン、トクン……規則正しい音がする。
「もっと甘えていいんだよ。嫌なことは嫌だって言っていい。無理に笑おうとしなくていい。俺の前では自由でいてほしんだ。何も縛られず、ありのままの玲菜と一緒にいたい」
「たとえそれがわがままになっても、ですか……?」
「好きな子のわがままくらい叶えさせてよ」
「いつもそれでは疲れませんか?」
「俺は姫の専属ナイトです。誰よりも側で貴女を守り、貴女の幸せを喜ぶ存在です。姫の願いは俺の願い。疲れるはずがありません。だから――どうかお心のままに」
額に落とされた唇は、そっと慰めるような優しいものだった。
軽く押し当てられただけなのに、触れた部分から全身に熱が回って行く。
誰かに甘えるのはいけないことだと思っていた。人に頼らなくても生きていけるよう、努力を重ねてきた。揺るがなかったもの――信じていたものは加瀬が相手だとたやすく覆されてしまう。
「悔しいです」
「んー? なんで?」
「だって本物の王子様みたいです。負けてる気がします」
「ははっ、なーに。そんなこと気にしてるの? 言っとくけど俺は王子じゃないよ。王子になるつもりもない」
「??」
「王子じゃ身を挺して守れないだろ? 他の誰かに任せるなんて絶対嫌だ。だから俺は騎士として玲菜の側にいる。どんな困難にも打ち勝つ信念の剣を下げてね」
「はじめて聞く美学ですね……」
「そんな難しいもんじゃないって。ただ玲菜が大好きで仕方がないだけ」
前かがみになった加瀬はコツンと額を合わせると、瞳の奥を覗き込んできた。強い引力に惹き込まれそう――
「分かっていただけましたか? これからは大人しく大事にされて下さいね、姫」
たっぷり甘やかす予定なのでお覚悟を、と囁かれ、鼓動は限界に達した。
蜂蜜漬けになりそうなひとときは、ここが学校であることをすっかり忘れさせてしまう。
次の瞬間にチャイムが鳴り、ホームルームの時間だと我に返ったわたしは慌てて離れる。
「も、戻りましょう」
正直ポーカーフェイスができそうにない。緩みそうになる口元を押さえ、わたしは加瀬に背を向けた。
さっき感じたもやもやの正体が嫉妬だったと気付くのは、これから起きる出来事がきっかけだった――




