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カラフル×ドロップ  作者: 水嶋陸


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第十六話 もう少しだけ。(後編)



「ずっと苦しかった。青空を見る度に悲しくて、笑い声が遠く感じた。何もかもが他人事のように冷めきって、前へ進む気力を失いかけてた。そんなとき玲菜に出逢ったんだ」


加瀬はわたしの手を取り、自分の胸に寄せて優しく握った。

慈しみに満ちた眼差しは深い安らぎを与えてくれる。


「玲菜と出逢ってね。心が呼吸した」

「呼吸、ですか?」

「うん。なんて言えばいいのかな……凍りついていた時間がとくん、とくんて鼓動を始めた。明日が楽しみだなんて信じられないよ。玲菜がいると思ったら自然と笑顔になれるんだ」

「……っ」

「聞こえる? 心臓の音」

「は、い」

「玲菜といるとドキドキするんだ。だけど誰といるより安心できる。あー、俺の居場所はここだなって思うんだ。こうして玲菜に触れるたび、触れられるたびに満たされていく」


加瀬の穏やかな微笑みは体を芯から溶かして、あたためていく。

真剣な話をしているのに、強張っていた肩の力が抜けた。それを嬉しそうに眺める加瀬がいる。


「こんなふうに何かを、誰かを求めたことはなかった。ほんとうの意味で渇きを潤してくれるものはなかった。だからね――玲菜。俺はもう逃げない」


もう逃げない――凛然とした碧い瞳に迷いはなく、ただ揺るぎない決意を感じさせた。


「これから一番見たくないものと向き合って、決着をつける。他の誰にも脅かされない未来のために、幸せを掴む努力をする。過去を受けとめて、乗り越えて、糧にする。辛かった日々は自分を成長させるために必要な尊いものだと気付かせてくれたから」

「わたしが……?」

「そうだよ。玲菜が気付かせてくれた。だから俺はここにいられるんだ」


「ありがとう」と――もったいない言葉をもらえば涙腺が緩む。

泣きたいのは加瀬のはずなのに、どうしてそんな優しい笑顔を向けるのか。


「なんでこんな話をするのか不思議に思った? これは俺のわがままだよ。どうしてもいま、玲菜に伝えておきたかったんだ」


自分の出生に関しては加瀬家の重大な秘密であり、これまで頑なに守り続けてきた――それを自分の口から信頼できる第三者に明かすことに意味がある――と加瀬は続けた。

つまりそれは事実を認めて、受け入れて、そこから立ちあがろうとする決意の表れだ。


「それからね。もうひとつ伝えたいことがあるんだ。むしろこっちがメイン」

「? なんですか?」

「玲菜は兄貴の婚約披露パーティーに出席してくれたよね。俺のパートナーとして」

「はい」

「前回は非公式だったけど、いつか公式の場で玲菜を紹介したい。生涯のパートナーとして」

「!!」

「もちろんすぐにとは言わない。俺は将来、加瀬グループから独立して必ず活路を切り開く。だからこれは予告」


それまで隣に座っていた加瀬が、わたしの手を取ったままベンチを降りて跪く。

その姿があまりに素敵で直視できない。どうしてこんなひとがわたしの側にいてくれるんだろう……。


「約束しよう。俺の全てを賭けて玲菜を守る。玲菜と生きる未来のためにどんな困難も乗り越える。たとえ誰が立ちはだかろうともけして諦めない。だから側にいてほしい。玲菜じゃなきゃダメなんだ」


片膝をついた加瀬は本物の王子様だ。恭しく手の甲に唇を寄せ、わたしの答えを待っている。

雲間から零れる月光がおぼろげに彼を照らし、驚くほど美麗な面差しをいっそう際立てた。


「心配しないで。もし玲菜がこの誓いを受け入れなくても俺がもうひとつの約束を違えることはない。これからも友達だ。玲菜が困ったらいちばんに頼って。どこにいても必ず駆けつけるから」

「今の話をなかったことにする、ということですか?」

「そうだね。玲菜が望むなら」


――――……。

どうして、そんなことが言えるのだろう? 秘密を明かし、誓いを立て、その上でわたしに答えを請いているというのに、ただひとこと「望まない」と言えば終わらせる覚悟まで決めているとでもいうのか? たとえわたしが背を向けようとも変わらず心を砕き、力を貸そうというのか? 

自己犠牲にも程がある。見返りを求めない関係など成立しないと思っていたのに――

ただ自分の幸せをいちばんに願ってくれるひとがいる。惜しみない愛を注いでくれるひとがいる。 


『ひとは誰しもいつか帰る場所がある。それは必ずしも生まれついた土地に限らず、自分の人生を歩く中で見つけた宝物かもしれない。それを見失ってしまっては迷子になったも同然だ。もし君が大切にしたいひとに出逢ったら、けしてその手を離してはいけないよ。どんな結末になったとしても、後悔さえ愛しく思える日が必ず来るから』


優さん。いまなら少しだけ、あなたがくれた言葉の意味が分かる気がします。

いつか帰る場所――ほんとうにそれがあるなら。もし、願うことが許されるなら――


「わたしはあなたの側にいます。側に、いさせて下さい」

「え……! ほんとに? その、たぶん苦労とかあると思うけど」

「苦労のない人生なんてつまらないじゃないですか。苦労を知っているからこそ喜びがいっそう際立つものです。それに――あなたがわたしを必要としてくれるように、わたしにもあなたが必要です。何も代われない、かけがえのない存在です。迷うはずがありません」


大胆な提案をしておいて、いざわたしの答えがYesだとうろたえる加瀬。

それが可笑しくて、可愛くて。わたしは立ち上がって加瀬の手を引いた。

向かい合って立てば身長の差が歴然となり、自分が女の子であることを思い知らされるようで、気恥ずかしさに目を逸らしたくなる。だけど我慢だ。きちんと伝わってほしい、そう思うから。


「え、と。玲菜サン……?」

「加瀬の探し続けた答え、それを見つけるのは加瀬自身です。だけどひとつだけ言わせて下さい。わたしはあなたの手が大好きです。汚れてなど、いません」


さっきまでとは逆に、今度はわたしが加瀬の手を引き寄せキスをした。しなやかな指がピクンと揺れて、微かな動揺を感じる。家族に拒まれ続けた手を、加瀬自身は好きになれないのかもしれない。

それならなおさら知ってほしい。この手にどれほど価値があるのかを。


「この手はきっと、大切なものを包み込むために与えられた。そうでなければこんなにあたたかいはずがありません。あなたに触れられると心地良いぬくもりが広がっていきます。誰かを幸せにできる、魔法の手です」


幾度も希望を与え、勇気を分けてくれたことを加瀬は知らないだろう。

わたしは精一杯の愛情を込めて加瀬の手を頬に寄せた。


「側にいてくれてありがとう。出逢ってくれてありがとう。わたしを見つけてくれてありがとう」

「……っ!」

「わたしにもあなたの大切なものを守らせて下さい。これからはわたしがあなたの居場所になります。挫けそうになったら何度でも励まします。疲れたときは寄りかかって下さい。いつもひとりでがんばらなくてもいいと、わたしに教えてくれたじゃないですか」

「玲、菜」

「ひとりで戦おうとするなんて、少しでもその可能性を残すなんて、あなたは勝手です。忘れないで下さい。わたしはあなたがここにいることが、何より嬉しいのです。一分一秒が宝物です。だから……もし辛くなったときはひとりで抱え込まないで下さい。大きな荷物もふたりで持てば肩が軽くなるかもしれません」


頬に触れる手を少しだけ離し、約束の意を込めて指切りした。

加瀬は嬉しいのか、泣きたいのかよく分からない様子で端正な顔を歪ませている。

心配になって一歩近付いたそのとき、


「ごめん。先に謝っとく」


突然、後頭部を引き寄せられたわたしは瞠目した。見上げる形で重なった唇。

それを皮切りに何度も角度を変えては塞がれていく。

零れる吐息が、触れ合う肌の温度がぎゅうっと胸を締め付けてくるしい。

――魂を吸い寄せられるみたい。夢のようにふわふわして、まるで現実と思えなかった。


「好きだ」


長い繋がりから解放されたあと、甘い囁きが耳朶をくすぐる。

その短すぎる、だけどいちばん聞きたかったひとことが上手に神経を鈍らせて。

腰を抜かしそうになったわたしは加瀬に抱きとめられ、仕方なく体重を預けた。


「不意打ちはずるいです」

「だから謝っただろ?」

「それでも反則です」

「嫌だった?」

「キスした後で聞くのはもっとずるいです」


思わず「キス」と口にしてしまって墓穴を掘った。破顔した美少年の破壊力をなめちゃいけない。なんでも許してしまいたくなるような愛くるしい瞳は子犬のそれに似た従順さで。急に居心地が悪くなったわたしが離れようともがくと、


「こーら」


優しい叱責の声がして、コツンと額を合わせられる。

怒られたはずなのに、どう考えても甘やかされてるとしか思えない態度に戸惑ってしまう。

背中に回された両腕は一ミリだって逃すまいと巻き付いてくるし、視線が「好きだ」と言っている。

なんというか恥ずかしい。すごく、すごーく恥ずかしい!


「あ、の。少し離れませんか?」

「んー? なんで?」

「ここ、外ですし」

「部屋の中ならいいんだ?」

「!?」

「ははっ、冗談だよ。ほんと、玲菜かーわいい」


ダメだ、完全にからかわれてる。せめてもの抵抗に加瀬の胸を押し返そうとしても微動だにしないどころかますます密着されてしまう。普通に向き合っているだけで吐息がかかる距離だ。ふと加瀬が悩ましい表情で口を開く。


「誰よりも大切にしたい。溺れるほど甘やかしたい。誰の目にも触れないところに閉じ込めて、自分だけのものにしたい」

「……!」

「矛盾してるよね? どうすればいいのかな」 

「加、瀬」

「もう少しだけ――」 


その後加瀬が何を言おうとしたのか、結局聞くことはできなかった。

永遠にも思える一瞬を分け合って、ただお互いの体温を感じていた。



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