第十四話 パーティーが始まる。(中編)
開会の挨拶を経て立食パーティーが始まると、加瀬はあっという間に囲まれてしまった。
これでアットホームだと言うのだからやっぱり加瀬グループは影響力のある大企業なのだと実感する。
だけど驚いたのはそれだけじゃない。
「葵くん、今日はおめでとう」
「ありがとうございます。園田さんにお越しいただき兄も喜んでますよ」
加瀬はすごい。全員の顔と名前を覚えてて挨拶してる。
招待客の装いからそれなりの社会的地位にあるだろうことは容易に察しがつくけれど、誰が相手でも気後れすることなく対等に渡り合っていた。
一方わたしは加瀬の隣で微笑むだけ。飲みもしないシャンパングラスを片手にハイヒールで立っているのが精いっぱいだ。しかも常に見られているというプレッシャーが疲労を増幅させていく。
「玲菜。少し外の空気を吸っておいで」
「え? でも」
「そろそろ息が詰まってきたろ。一通り挨拶は終えたし、大丈夫だよ」
絶妙なタイミングだった。加瀬は招待客をもてなしつつわたしにも気を配っていたのだ。
つぶさに変化を読み取ってくれたのだろう。それがとてもありがたくもあり、申し訳なくもある。
正直言って限界だった。ここで意地を張っても仕方ない。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」
すぐに戻ります、と付け足して会場を後にした。熱気が和らいでほっとする。
確か回廊の隅に休めそうな椅子があったはずだ。あそこなら静かだし落ち着けるかも。
浅く息を吐いたあと、歩きだして顔をあげた。ふと視界の隅に子供が映る。
どうやら泣いているようだった。迷子にでもなったのかな?
「どうしたの? お父さんとお母さんは?」
「うっ、ぐすっ、ひっく」
バイトのおかげで子供と接することに慣れた。キャンペーンのイベントではよくあることだ。
わたしは目線を合わせるようにしゃがみ込み、ゆっくり返事を待つ。
男の子は嗚咽を漏らしてどこかを指差した。
「あっちに何かあるの?」
こくんと頷く彼の手をつないで移動した。
回廊を抜けた先はインフニティプールが広がっている。
ちょうど地平線に重なるよう設計されたプールはまるで海とつながっているような錯覚を掻き立てる。
プールサイドまで近付いたわたしは事態を飲み込んだ。ぷかぷかとおもちゃが浮いていたのだ。
「あぁ、これを落としちゃったのね。大丈夫。いま取ってあげる」
大人が手を伸ばせば届きそうな距離。ドレスが濡れないよう裾を掴み、慎重に身を屈めた。
「お姉ちゃん、危ないよ」
背後から不安そうな声がしたけれど、もう少しだ。あと少し。少しだけ前へ……。
「よ、っと。やった! 取れ――きゃあ!?」
「お姉ちゃん!!」
ギリギリのところで均衡を崩したわたしはそのままプールに落ちてしまった。
そして立ちあがろうとしてゾッとした。深い。足がついても顔が出ない。
「ひっ。だ、誰か。誰か助けてぇ!!」
男の子の恐怖に引き攣った悲鳴が響く。パーティーで人が出払っているのか返事はない。
怖い――……!
ふっと加瀬の顔が脳裏をよぎって涙が溢れた。バカだ。カナヅチの癖に油断したから。
このままじゃほんとうに溺れてしまう。誰か助けて! 誰か――
「玲菜!!」
もう目を開けていられなかった。ただ大きな水しぶきがあがって誰かに腕を掴まれる。
そのまま担がれるようにぐったりと体を預けた。
「ぐ、ゲホッゲホッ」
プールサイドに引きあげられたわたしはたまらず気管に入った水を吐く。
喉が焼けつくように痛い。鼻もヒリヒリして燃えるようだ。体が小刻みに震える。
「このバカ!」
突然、怒号が飛んできて戸惑う間もなく抱きしめられた。
それが加瀬であることに気付いたわたしは強張った肩の力を抜いて応じる。
「怖かった」
「加、瀬? くるしい、です」
ギュウっと回された腕は息ができないほど締め付けてくる。
こんなに動揺した加瀬を見るのは初めてだ。
「視界から玲菜が消えたとき、胸騒ぎがした。もしかしてと思って探しに来たら、いきなりプールに突っ込んで溺れるし」
「ごめん、なさい」
「すぐに助けに来れたのは奇跡だ。いつも側にいられるわけじゃない。何かあったらどうする? 何かあってからじゃ……遅いんだ、玲菜」
掠れた声は覇気がなく、ただ切なさに満ちて胸を抉る。
加瀬の肩が震えていることに気付いてひどく後悔した。心配を掛けてしまった。それもすごく。
「二度としないで。心臓が止まるかと思った」
「はい」
「無事でよかった。間に合ってよかった」
取り乱し、本気で怒鳴りつけたあと打ち震えながら懇願する加瀬。
わたしは何度も謝罪し、その度に抱きしめる腕の力が少しずつ弱まっていった。
しばらくしてようやく落ち着いたわたしたちは、気まずさを残したまま向き合う。
「あ、あの。お姉ちゃんは僕のおもちゃを取ろうとして……」
「ん? いたのか。ちーさくて気付かなかった」
「ご、ごめんなしゃ…ひっく。僕の、せいで」
「カナヅチのくせに飛び込んだコイツが悪いから気にするな」
「うぅ」
「泣くなよ。涙は嬉しいときのためにとっとくもんだぜ」
おそるおそる寄ってきた子供の頭を優しく撫でると、加瀬はもう一度プールに近付きそれを回収した。
ちいさなてのひらにおもちゃを乗せて、包み込むように握らせる。
「もうなくすんじゃねーぞ?」
「うん。お兄ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう!」
ほんとにごめんね、と頭を下げた男の子は走って行った。
会場の方へ向かったのを見届けたあと、加瀬は濡れた髪を掻きあげ嘆息する。
「さて、と。どうすっかな。俺らずぶ濡れだ」
「すみません」
「それはもう聞いた。ん? 玲菜、靴どうしたの」
「さっき脱げてしまったみたいです」
「うあ、プールか。しゃーない、もっかい潜って……」
「だ、だめです! これ以上は風邪を引いてしまいます」
「夏だしすぐ乾かせばいーじゃん」
「あの靴はせいぜいわたしのお給料で買えるもの。大した価値はありません。だから」
「はい、ネガティブ発言禁止ー」
「え? あ! ちょっと待っ」
制止する間もなく飛び込んだ加瀬は二、三度潜って顔を出したあとプールサイドへ戻ってきた。
底に沈んでいたらしい靴を置き、あがってくる加瀬。
「ん、回収完了! はくしゅっ。やべ、マジで風邪引いたかなー」
水を払う加瀬をわたしは呆れた目で睨みつけた。
だけど加瀬はかまわず側に来て、靴を手に片膝をつく。
「玲菜、足貸して」
「だ、だめです。汚いです!」
「汚くない。ほら早く。誰か来ちゃうかもよ?」
「~~~~っ」
急かされたわたしは渋々足を差しだす。踵に添えられた加瀬の手がきれいでドキドキする。
チラ、と顔をあげると伏し目がちに微笑む加瀬の姿が。
「よかった。何も失わずに済んで」
――なんて顔で笑うんだろう。自分は服を台無しにされ、ずぶ濡れになってしまったというのに少しも気に留めていない様子だ。むしろ嬉しそうな、あたたかい眼差しを向けてくる。
「どうして」
「え?」
「どうしてですか? どうしてあなたはいつもそうなんですか?」
ふるふる怒りが湧きあがって、知らず唇を噛んでいた。拳が震える。
加瀬に無茶をさせたのは自分だと分かっていてやり場のない気持ちが溢れた。
だめ、止まらない。止められない……!
「もっと自分のことを顧みて下さい! だいじにして下さい! わたしなんかのために心を砕く必要なんてな――」
ない。言葉は吸い込まれて消えた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。ただ加瀬の顔がすごく近くて。
唇に伝わる熱がたちまち全身をくまなく侵し、甘い痺れが広がっていく。
ライトアップされたプールは凪いだ水面を輝かせ、スローモーションで色を変える。
濡れた頬が重なり、咄嗟にわたしの手を掴んだ加瀬の吐息が零れた。
「無駄だよ玲菜」
永遠にも思える一秒。星空を映す加瀬の瞳が潤んで離れた。
決然とした響きの声が染みわたっていく。
「俺から離れたいなら半端な覚悟じゃダメだ。全力で逃げないと」
「な、にを言って」
「分からない? 自分なんかに価値はないって本気でそう思ってる?」
「それは……」
「バカだな。ほんと、バカ」
「なっ!」
「玲菜のことを考えると気が狂いそうになるよ」
早口に囁いた加瀬はわたしの髪へ手を伸ばし、愛しげに梳いて頬を撫でた。
「……なんでだろうね?」
小首を傾げて顔を近付けてくる加瀬。再度唇に熱が迫って身がすくむ。
ぴたっと動きを止めた加瀬は、唇ではなく涙を流した瞼の際にキスをした。
慈しむように降る口づけはもどかしさを帯びて額に、頬に、顎に落ちていく。
されるまま固まったわたしを最後に見つめると、加瀬は立ちあがり、そしておもむろに抱き上げてきた。
「きゃっ!? は、恥ずかしいです。降ろしてください」
「だーめ」
「こんな格好のわたしといたら加瀬まで笑われてしまいます!」
「全然恥ずかしくない」
「え……」
「服が濡れて気持ち悪いかもしれないけど、いまは黙って俺に抱かれてて。ヴィラに着いたらちゃんと降ろすから」
きっぱりした口調で言う加瀬は、重いはずのわたしを涼しい顔で運んだ。
このまま甘えてしまいたい。そんな気持ちが募って、わたしは慌てて首を振る。
これでは何のためにここへ来たのか分からない。本末転倒だ。
「止まって下さい。あなたは加瀬の御曹司としてここにいると言いました。違いますか?」
「それは、まぁ」
「だったらわたしを運んでいる場合じゃありません。すぐに着替えて会場へ戻って下さい。あなたを待っている人達がたくさんいます。もちろんお兄様も」
「玲菜……」
「わたしは大丈夫です。嘘じゃありません。あなたが助けてくれたおかげで助かりました。だからせめて自分の足で歩きたいです」
黙って耳を傾けていた加瀬は、わたしの決意を尊重したのかそっと降ろしてくれた。
これでいい。甘えてばかりはいられない。今度はわたしが加瀬のためにがんばる番だ。
「ほんとに平気?」
「はい。わたしも着替えたらすぐに戻ります。醜態を晒した上、あなたに迷惑をかけたとあっては末代までの恥。最後まであなたのパートナーとして側にいます」
「最後まで、ね。それっていつまで?」
「え?」
「パーティーが終わるまで? それとも……」
それとも、何だろう? その言葉の続きは聞けなかった。
言い淀んだ加瀬とわたしの元に駆け足で近付く人影があったのだ。
「葵様! あぁ、こんなお姿になって。すぐに控室へお戻り下さい。着替えの用意がございます」
「ありがとう。玲菜のこと頼めるかな?」
「承知しました。玲菜様、こちらへどうぞ」
インターカムで連絡を取りあっているらしいスタッフが異変に気付いて飛んできた。
加瀬の指示で気遣わしげにわたしを誘導し、ヴィラの方へ導いていく。
『最後まで、ね。それっていつまで?』
頭の中で何度も再生される声。その答えは、自分自身も探しているような気がした。




