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誠と恵

作者: 小雨川蛙
掲載日:2026/02/13

 

「へぇー」


 私の言葉を聞いて恵は目を丸くした。

 リビングのソファから僅かに乗り出す。


「あんたに彼氏がねぇ」

「なにさ。悪い? 中学生にでもなれば彼氏くらい出来るでしょ」


 恵は頭を掻く。

 今日、有休を取った恵はいつもと違いメイクをしていない。

 化粧をしていると二十代前半どころか私の姉妹にさえ見えるほど若い恵。

 だけど、今日は三十代半ば。

 もっと言ってしまえば見た目通り。


「ねえ。あんたに初めて彼女出来たのいつだっけ?」

「いつだっけな」


 首だけ後ろに向けた恵の質問を受けて誠は曖昧に呟く。

 スーツを脱いでいるけれどワイシャツは着たまま。

 そんな恰好で料理なんかしているものだから私としては染みが出来ないか心配でならない。


「あんたの初彼女だれだっけ。美恵ちゃん?」

「何でお前が覚えてんだよ。だけど、美恵と付き合ったのは高校生の頃だったと思う」

「んじゃ違うか。桜ちゃんは?」


 誠は恵と同い年だ。

 中学からのクラスメイトで二人の言葉を借りるなら腐れ縁というやつらしい。

 そう言う割にはこうして今もルームメイトとして同居するくらいには仲が良いのだけれど。


「桜は美恵と同時期に付き合ってたのバレてボコボコにされただけだから違うな」

「本当クズだね。あんた」

「お前と違ってとっかえひっかえにはしてねえよ」

「私は少なくともあんたみたいに浮気はしてないから。一緒にしないでくれる?」


 いつの間にか別の会話が始まってしまった。

 しかも、割と酷い会話。

 初めての恋人が出来た中学生に聞かせる会話? これ。

 まぁ、仕方ないか。

 二人っていつでもこんな感じだし。


 私の家は少し変わっている。

 誠と恵が同居している家に私が居候しているのだ。

 クラスメイトはよく何でそんな意味不明な暮らし方を? とか、お父さんとお母さんは? とかよく聞いてくるけれど、そんなこと私自身も分からない。

 昔からそうだったからむしろ私からすれば周りの方が却って不思議だった。


「ジュース飲んでいいよ。今日は」


 誠の後ろを通って冷蔵庫からお茶を取り出そうとすると誠に止められた。


「そうなの? 晩御飯の前なのに?」

「まぁ、初めての彼氏おめでとうってところかな」


 いつも口うるさいくせに。


「誠、優しいじゃーん」

「うるせえな。恵も少し手伝えよ」

「今日はあんたの当番じゃん」


 いつも通りの恵の挑発。

 いつも通りなら誠も適当に流すのに。


「痛っ」

「えっ? 大丈夫?」

「悪い。ぼーっとしてて指切った」


 私は慌てて消毒液と絆創膏を取りに行く。

 そんな私とすれ違う形で恵が誠の隣へ行きながら笑った。


「動揺してんの?」

「うるせえな。お前はどうなんだよ」

「んー」


 蛇口から水が出る音がした。

 それしか聞こえなかった。


 私が戻ってきても二人はまだシンクの前で立っていた。

 誠の指先の傷を水で流すのを見つめながら恵が苦笑いをしていた。


「わかんない。本当に」

「そっか」


 恵と視線が合う。

 にこりと恵が笑う。

 いつもより少しだけ優しい笑みを浮かべた気がした。

 すっぴんの顔は年相応に老けていて普段は意識もしない二十年以上の年齢差が実感する。


 それが嬉しかった。

 少しだけ。


「じゃ、悪いけどお馬鹿さんの指の処置お願いね」

「ひでえ言い草だな」


 蛇口の水が止めると恵は冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出す。

 誠と違って普段はお酒なんて飲まないのに。


「小さなお祝いってところ」


 早口で告げられた恵の言葉は普段通りなのにいつもより歯切れが悪かった。



 *



「あちゃー……」


 恵の見せた妊娠検査キットを見て誠は頭を抱える。


「え。俺の子?」

「第一声がそれとか本当に終わってんな、あんた」

「いやいやいや。真面目な話。コンドームしてたじゃん、あの日」


 頬を引っぱたいても良いくらいの言動である気はしたが、幸いなことに立場が逆でも同じ反応をしたであろう事を理解出来る程度には恵は落ち着いていた。

 何より、恵からしても今回のことは相当な理不尽としか思えなかった。


「まぁ、実際コンドームしてたしね。むしろ、あんたからつけてくれたし」

「つーか、一発で出来るなんて思わねえだろ」

「そりゃそうだよ……。盛り上がって流れで一発ってだけだったのに」


 セックスが特別なことに思えるのは十代後半までだ。

 二十代にもなれば皆している。

 皆がしている事なんて言ってしまえばただのコミュニケーションでしかない。

 気の合う相手とご飯を食べたり、映画を見たり、旅行に行ったり……。


 だから、二人のセックスもまた普通のコミュニケーション。

 久しぶりに遊んで、二人ともフリーで、そういう雰囲気になったから一回しただけ。

 そんな軽い考えが誠と恵にはあった。

 それに避妊具もしていた。

 だから万に一つなんて考えもしなかった。


「あー、先に言っておくけど」


 恵は頭を掻きながら誠に言った。


「私、あんたのこと結婚したいほど好きではない」


 場を和ませるつもりの一言に誠はすぐに反応出来なかった。

 恵が必死に作り上げようとする空気にすぐ対応出来ない。

 誠のこういう鈍いところが恵は昔からどうしても好きになれなかった。


「俺だって精々一回やれりゃ良いと思っていたくらいだよ」


 だけど、誠は鈍いなりに気づいて半歩遅れで恵に合わせる。

 この空気感は好きだった。


 しかし、付き合う相手としてはこの半歩遅れはきっとどこかで致命傷になる。

 二人ともそう理解していたから付き合ったりはしなかった。


 誠と恵の結論はすぐには出なかった。

 そのくせ一番簡単な選択肢だけを二人とも決して取ろうとしなかったのだ。


 結婚だけは無理。

 付き合うのだって出来ればしたくない。

 そうなれば出てくる答えはたった一つだったのに。



 *



「痛っ」


 絆創膏をいじるなと言われていたのに。

 もっと言えば傷を触らない方が良いなんて子供でも分かるのに。


「あーあ……」


 赤い血が膨らみ丸になる。

 ティッシュで拭き取っても止まらない。


 誠はため息をついて時計を見る。

 時刻は午前三時を回ったところだ。


 あの子はもう寝ているだろう。

 先ほどまで携帯で彼氏と話している声が聞こえていたが今ではもう耳を澄ませても何も聞こえない。

 恵だってきっと寝ているに違いない。

 あいつは有休の前日はいつも夜更かしをしているからこの時間になれば布団でぐっすりと寝ている。


「取りに行くか。絆創膏」


 呟いて部屋を出る。

 リビングに続く部屋が僅かに明るい。

 誠は自分でも驚くほどにその事を受け入れていた。


「や」

「お前、まだ起きてんのか」


 リビングのソファで恵がスマホを片手に起きていた。

 晩御飯前にビールも飲んでいるせいか顔が赤い。


「あんたこそまだ起きてるんだ」

「あー、絆創膏がな」

「どうせ動揺してたんでしょ」


 まるでここに来るのが分かっていたかのように恵は新しい絆創膏を手渡してくる。

 それを受け取りながら隣に座る。


「香水つけてんのか」

「化粧もしてるよ」

「なんで?」


 誠から問う。

 分かり切った答えを。


「二人目でも作る?」

「つまんねえ事言うようになったよな、お前」


 恵の顔が歪んだ。

 絆創膏の端があらぬ場所について誠は舌打ちをする。


「貸して。私がやる」

「いいって。自分で出来るから」

「うっさいな。じっとしてて」


 近づいてくる恵の顔から顔を背ける。

 今は見たくない。


 スマホが乱暴にテーブルに放られた。

 音が響く。

 心臓へ届くほど。


『遺体は三歳の男の子と見られ、この家に住む……』


 恵は動画を見ていたらしい。

 淡々とした声がニュースを読み上げている。


『……容疑者は容疑を認めている。容疑者は「育児のストレスがあった」と供述していると言い、警察は今後詳しい経緯を調べる方針です』


 古いニュースだ。

 もう十数年も前の。


 誠と恵はこのニュースを何度も見ていた。

 繰り返し。

 繰り返し。

 何度も。


「はい。終わったよ」

「ありがとう」


 絆創膏のされた指が恵のスマホを掴む。

 動画はもう止まっていた。


「ん」

「ありがと」


 スマホを受け取った恵はそのまま別の動画を流す。


『……市在住で、自宅で一歳の長男を遺棄した疑いが持たれている。警察によると、近隣住民の通報で事件が発覚し』


 別のニュース。

 しかし、内容はほとんど同じだ。

 二人が避けたかった未来が小さな画面に流れている。


「なんで」


 恵は自分の言葉に驚き息を飲む。


「大丈夫?」


 誠の問に恵は口を閉じたまま二度頷いた。

 考えないようにしていた。

 恵の言いかけた言葉の先を。


【なんで、赤ちゃんが出来たんだろう】


 それが叫びたいほど正確に浮かんでしまう。

 何せ、誠の思いもまた恵と同じだったから。


 誠は父親になるつもりはなかった。

 恵は母親になるつもりはなかった。


 それなのに子供は宿った。


 意味が分かんない。

 ただの遊びじゃん。

 それにちゃんと避妊だってしたのに。

 何で、赤ちゃんが欲しい人のところに出来ないで私たちのところに――。


【そんなつもりなんてなかったのに】


 恵の体は震えていた。

 膝を抱えて顔を伏せる。


「恵」

「ん」

「離れた方が良い?」


 恵は首を振る。

 それに誠は安堵した。


「私、最低な考えばっかり浮かぶんだ」

「俺も大体同じこと考えてるから」


 面倒なことになったとか。

 もっと遊びたかったのにとか。

 あの日、バカみたいなことをしなければ良かったとか。


 否定する言葉ばっかり浮かんでしまう。

 あの子の存在を。

 それを否定したいのに。

 純粋な気持ちを否定するのは難しくて。

 それどころか見ないようにすれば見ないようにするほど、もっとどうしようもない気持ちになってしまって――。


「意味わかんない。本当。本当に意味わかんない」



 *



 少なくとも恵自身は自らの事を救いようのない存在だと思っていた。

 自分の体に宿った新たな命を殺すという選択肢が取れなかったくせに母親であることも選ぶことが出来ない。


 中絶をしなかったから偉い?

 偉くねえよ。

 子供を捨てなかったから偉い?

 偉くねえよ。

 子供と一緒に暮らしているから偉い?

 偉くねえよ。

 一つも偉くないならなんなの?

 ただの馬鹿だよ。

 それもクズなのにクズじゃないつもりになっている馬鹿クズ。


 でも自分だけじゃないよ。

 クズは。

 分かり切ってんだろ。

 誠も馬鹿クズだよ。

 二人とも親になるつもりもないのにセックスをした馬鹿クズだ。


 けど、セックスなんて誰でもするよ。

 今さら何言ってんだよ。

 誰だってするのは分かり切ってんだよ。

 だけど、トラブルが起こりうるってのだって誰も分かり切ってんだろ。

 お前たち二人はそんなトラブルの中で一番やっちゃいけねえことをしてんだよ。


 親であることを隠しているくせに一緒に住んでいる。

 お前たちは一番意味不明なことをしているんだよ。

 どうしようもねえ人間たちだよ。

 お前たちは。


「誠」

「何?」


 恵は記憶をなぞるように言葉を漏らした。


「私達って本当にどうしようもないクズだよね」


 何度したか分からないやり取り。

 共に傷を舐めるという、一番分かりやすいコミュニケーションは。


「何を今さら」


 今日もまたキャッチボールのように丁寧に受け止められた。



 *



 目覚まし時計が鳴って私は目を覚ました。

 夜更かしをしたせいかまだ眠い。

 昨日は彼と何時まで話していたっけ。


「学校でまた会えるのにね」


 呟きながら口が緩む。

 きっと、今の私は馬鹿面だ。


「おはよう」


 リビングには既に誠と恵が起きていた。

 今日は二人とも仕事だ。


「夜更かししたんだろ?」

「悪い?」

「初彼で舞い上がっているのは分かるけどほどほどにね」


 誠と恵の会話の中に私は混じる。

 とても自然なことだった。


 私の家は普通じゃない。

 何せ、他人が三人一緒に住んでいる。


 幼い頃に何度か尋ねたことはあったかもしれない。

 だけど、いつの間にか聞くのをやめていたって事はつまり、まともな答えが返ってこなかった事だと思う。


 それに。

 全く想像がつかないほど私もいつまでも子供じゃない。


「誠、恵」


 私が二人を呼ぶと二人はいつものようにこちらを見る。

 そこに違和感なんて何もないなんて言わんばかりに。

 ――だから、私は色々なものを保留する。


 だって、今、真実を知ったところで。

 真実を確定させたところで。

 誰も得をしない。

 それに今はイライラする暇もないくらい、人生初めての恋に舞い上がってるんだから。


「人生の先輩として教えてよ。恋愛についての注意点みたいなの」


 私の問に二人は顔を見合わせる。

 そして、長年連れ添った夫婦のようなタイミングの良さで二人して答えた。


「やれば出来る」



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