第二話 上手けりゃいいってもんじゃない 梅雨時
じめじめしていた。
あたしは窓の外に目をやる。夕刻、いつもなら西日が店内に差し込んでこようという時間帯なのに、外はどんよりと薄暗い。エアコンはつい最近稼動を始めたところだが、湿気を取ってくれるほど有能な奴ではないらしい。
まだ営業前なのになんとなく気分も暗くなってきそうだ。
「降りそうだね」
やっぱり微妙に沈んだ声で言うヒカリさんにあたしは頷く。
「そですねー。あうー」
「こういう日は客足も鈍るんだよ。あー、飲むしかないな。もう」
「そーですねー」
飲むな、というツッコミを入れてくれるヒロさんは今、厨房で夕飯を作ってくれている。あたしたちはお茶や箸なんかの準備を済ませておいしいディナーを待っていた。
今日のご飯はなんだろな。
二人でぼんやりしていると、ご飯の到着より先に店の入り口が開いた。
振り返ると制服姿のミズキがいた。当然というかなんというか、学校から帰ってきたところだ。
「お帰りー。雨降る前に帰って来れてよかったね」
「うん」
ミズキはそのままあたし達の脇を抜けて店の奥へ引っ込んでいく。なんだか浮かない顔をしていて、気になったあたしはぼそりと尋ねてみた。
「……なんか、元気ない?」
「へ!?」
ヒカリさんが訊くとミズキは急に振り返って、両手をぶんぶん振り回した。
「そ、そんなことないよ! ほんとに!」
「……」
作り笑顔のままどたばたと自室のある二階に上がっていくミズキを、あたし達は呆けたまま見送っていた。
「なんかあったのかな?」
「なんかあったんでしょうねえ。でなきゃあんな風にならないし」
「なにがあったのかな?」
「さあ……」
ふと気付いて、あたしは窓の外に目をやった。
「降ってきた」
ばらばらと、水が灰色の世界を叩く音が聞こえる。
ヒカリさんの言うとおり、その日の客足は壊滅的に鈍かった。開店から三時間してもお客さんが一人も入らず、ヒカリさんなんかは、
「もう閉めちゃわない?」
とか言い始める始末。厨房チーフが止めたのでそうはならなかったが、なんだか無駄に時間を過ごしているような気になる。
そして九時前になって、今日初めてのお客さんが『ダイニングしらなみ』の扉を開いた。
「いらっしゃいませっ!」
「……いらっしゃいませー……なんだよ、またあんた?」
退屈が緩和されると喜んで迎えたあたしとは対照的に、ヒカリさんの声はとても低かった。そのお客さんが顔見知りだということもあるかもしれないが。
「あんたね、ほんとに接客できてんの?」
商店街にある喫茶店の娘、千鶴さんは困ったような顔をして、カウンターに腰掛ける。
「だってー。こんな日だよ? そりゃ気分もじめじめするっての。ミズキだってどよーんってなるっての」
「ミズキちゃんが?」
千鶴さんは意外そうに身を乗り出した。とりあえず、と生中を注文して、カウンターにほっぺたをついたヒカリさんを覗き込んだ。
「そう。なんか隠してるっていうか」
「ふうん。……まあ、あの娘ももう十四だし、色々あるんでしょ。そうは見えないけど」
「そうだねえ……。そうは見えないけど」
そうは見えない、というところはあたしも同感です。
平日はたまに閉店時間より早く店を閉めることがある。例えば『ダイニングしらなみ』は十二時閉店でラストオーダーはその三十分前だが、十一時でお客さんがいなくなってしまえば、それから入ることはあんまりないので本来より少し早く暖簾を外すのだ。千鶴さんは十一時前に帰って、それから一人も来なかった。……大丈夫か?
さすがにお客さんがひとりだけ、ということは少ないが、店を早めに閉めることはさほど珍しくない。今日もまさにそういう日で、あたしたちは本来の閉店時間、日付が変わるころにはもう全ての作業を終えてご飯を食べていた。普通の人からしてみれば深夜零時の晩御飯というのはちょっとおかしいかもしれないが、飲食店という職業はたいてい生活リズムがずれるものなのだ。片付けに手間取ったり作業がたくさん残っているときは夜中の二時や三時ということだってある。
この店、というかこの建物にリビングルームというやつはない。一番広くてテレビも置いてあるヒカリさんの部屋か、お客さんが使うテーブル席、そのはしっこの一つがいつもあたし達のダイニング兼くつろぎスペースだった。今は晩御飯の後なので、そのテーブルにみんな座っている。
「ふー。今日は意外と忙しかったね」
真っ先に食事を終えてお茶をすするヒカリさんが言う。あたしは、ですねえと言って味噌汁をご飯にぶっかけた。
「おい、せっかく作ったのに何してんだ」
「うちではこういう食べ方が主流だったんです」
眉をひそめるヒロさんにかまわず、あたしは味噌汁かけごはん、通称ネコまんまをかっこんだ。もとの味噌汁がいい味していたからか、やはりおいしい。ネコのえさなんていう不名誉な名前はぜひとも返上したほうがいいと思う。
「十八の娘がそんな食い方……もういいわ」
ヒロさんも箸を置く。それからタバコを一本くわえて、ジッポライターで火をつけた。
「けど、最近は水曜も忙しいですね」
あたしが言うとヒロさんは頷いて、煙をふうと吐いた。
「正直、トシキに水曜も入ってもらえると助かる」
ヒロさんがそんなことを言うなんて、なんだか意外だった。
「だったらあたしからトシに言っとくよ。お?」
「どしたんですか?」
ヒカリさんがヒロさんの後ろを見て変な声を出すので、あたしもつられてそっちを見た。
「あれ、ミズキ?」
『ダイニングしらなみ』のマスコット娘が、パジャマのままそこに立っていた。
「どしたの? こんな夜中に」
とりあえずヒカリさんに席を勧められて、ミズキは黙ったまま椅子に座る。
「……」
しばらくそのまま、ミズキは黙りこくったままだった。顔を上げて何かを言おうとはするのだが、言葉が出てこないようだ。
外はまだ雨が降り続いていて、陰気な音がずっと鳴り響いている。
「……あーもーっ!」
その沈黙の中、真っ先に根を上げたのは店長だった。
「なんか言いたいことあるなら、ちゃっちゃと言いなさいってんだコンニャローっ!」
「ヒカリさん、叫ぶの迷惑ですから」
ばん! とヒカリさんがテーブルをぶっ叩いて、ミズキはびくりと身体を震わせた。それから蚊の鳴くような声で、ぼそぼそと話し始める。
「……実は」
言いながら、彼女は一枚のプリントをテーブルにひらりと置いた。
彼女、富乃ミズキは十三歳。ここ愛知県不二町にある不二東中学校に通っている中学二年生。少々普通とは違った家庭環境にあるが、日々を純真無垢に過ごしていた。
そんな彼女の日常に、とあるイベントが舞い込んできたのだ。
「授業参観?」
「うん」
六月も半ばごろに入り、雨の多くなってきたある日。一日の授業を終え、あとは帰宅するだけになったそのとき、担任の先生は皆にこう告げた。
『はぁーい皆さん! 今日はとってもスペシャルなお知らせが、ありますぅっ!』
「……」
突然おかしな口真似を始めたミズキに、一同唖然。
「……それでね」
顔を真っ赤にしたミズキは続ける。
「あたしの担任の先生、美術の先生で。授業参観の日には美術の授業することになったの」
「ふんふん」
「それで、特別に課題が出て。参観の日までに仕上げなきゃいけなくて」
「はあ」
「その、課題が……」
もじもじとうつむくミズキに代わって、プリントを読み進めていたヒロさんが呟いた。
「家族の、似顔絵」
「……」
こくり、と少女は頷いた。
「で、何が問題なの?」
ヒカリさんが尋ねると、ミズキはさらにうなだれてぼそぼそと呟いた。
「あの……あたし、絵がね」
「あー、下手なんだ!」
思い切り言われてミズキはがくりとテーブルに突っ伏す。でも、そこまで気にするようなことだろうか。
「それに参観、今度の月曜だし。どうしよう……」
「ホントだな」
ヒロさんが授業参観のお知らせを眺めながら頷く。
とりあえず、とあたしはヒロさんからプリントをひったくり、裏返してミズキの前に置いた。
「いいからちょっと、描いてみんさい」
「え?」
「どの程度下手なのか、ちょっと見せてよ。あたしがモデルになったげるから」
サロンに引っ掛けていたボールペンを手渡すと、ミズキはなんともいえない顔をしてあたしをにらんだ。
「……笑わないでよ」
「えーっと……」
ミズキの描き上げたものを一瞥して、あたしはそのまま固まった。
……たぶん、あたしだ。極端に細い両手両足があって、黒いTシャツを着ている。わかめのような黒い髪は短め。つり気味の目がとても大きくて、なぜだかウルトラマンを彷彿とさせる。……これ、あたしか?
「……だから言ったのにーっ!」
数秒引きつった顔のまま固まっていると、ミズキ画伯が顔を真っ赤にして絶叫した。
「いやその……な、なんかこう、伝わってくるものがあるよ!」
「……」
「そう、すごいなんか……強そう! ああ、あたしすごく強そう!」
「……」
「嬉しいなあ! こんな風に描いてもらえるなんて! 気迫とか殺意とか、そういうものを感じるね!」
「……うっ」
「あ、ああ……」
目じりに浮かぶ水の玉。ああやばい、泣かせた?
「フォローになってねえ」
ヒロさんがつぶやいた。
しとしとと降りしきる雨の音。ミズキのさめざめとした泣き声。そしておろおろするあたし。『ダイニングしらなみ』の店内は今現在、陰の気に支配されていた。
そんな気まずい空気の中、ヒカリさんがあくびしながら口を開いた。
「っていうか、ヒロさ」
「んあ?」
「あんた確か、絵うまかったよね?」
「え? そうなんですか?」
あたしが尋ねると、ヒロさんはあー、となんともいえない顔をした。
「まあ、高校んときは美術部やってたから。まあまあそれなりには」
美術部とはまた、意外な部活をしていたものだ。やっているならサッカーとかバスケとか、はたまためんどくさいから帰宅部とか。そんなイメージを勝手に持っていたのだが。
そんなあたしの考えを読み取ったのか、ヒロさんは付け加えた。
「最初はかったりーから、なんもする気なかったんだけど。うちの学校、なんか部活に入ってなきゃいけなくて、んで、友達に誘われたから入った」
「……そんなんで、ほんとに上手いんですか?」
「一応、賞もらったこともあるぞ」
「マジですか!」
そんな気構えでやってた人が入賞なんて、これが才能ってやつなのか。
「ちょっと描いてみて下さいよ!」
言いながら、あたしはお勧めメニューの書かれた紙を裏返して差し出した。ちなみにこの紙は週に一度、近所のコンビニで手書きのやつをコピーして使っている。要するに普通のコピー用紙だ。
ヒロさんはなんだか気乗りしないようだったが、かまわずあたしはボールペンを手渡す。
「んー……わーったよ。じゃあお前、ちょっとそっち座れ」
ヒロさんが一つ向こうのテーブル席を指差すので、あたしは首をかしげた。
「ここじゃダメなんですか?」
さっきミズキのモデルになったときはそのまんま座っていただけだったのに。
「なんかダメなんだよ。ちょっと遠くないと」
「はあ、分かりました」
なんか、こだわりでもあるのだろう。大人しく席を立って、ヒロさんの指差したところに座りなおす。すると今度は、あれこれとポーズを注文付けてくる。
「もうちょっと、うつむく感じで。ちょっと横向いて」
「こうですか?」
「ん、よし。動くなよ」
ヒロさんは頷いて、カリカリとペンを動かし始めた。
……なんだか微妙に、恥ずかしいな。
そうしてしばらく、あたしをモデルとしたデッサンが続く。いつの間にか泣き止んでいたミズキとヒカリさんが、どれどれー、と彼の手元を覗き込んでいた。
「……出来た」
「くはーっ!」
あたしは大きく息を吐いた。じっとしているのって意外と大変だ。
「どんなんできました?」
元の席に戻りながら、あたしはヒロさんの描いた絵を見た。
「……」
絶句。
「久しぶりに描いたからちょっと、疲れた」
言うヒロさんに、あたしは何も答えない。
「……」
「どうした?」
「あ、いやあ……その」
口ごもりながら、改めてヒロさんの描いた自分を眺めるあたし。
うん。これは確かに、あたしの絵だ。特徴を捉えているし全体のバランスもいい。
ただなんか、なんというか。
「……これ、どっかで見たことある」
あたしが言うと、後ろでヒカリさんも頷いた。
どんよりした陰影の深いうつむき加減の表情。しょぼんと落ちた両肩。こころなしかそこに描かれたあたしはとても反省しているように見える。
「テレビのニュースとか。夜九時のサスペンスとか」
「あー……」
なんとなく、納得。
「なんだ、ひでー言われようだな」
「だってこれ……裁判の様子描いたやつみたいじゃないですか!」
そう、それはまさしく『飲食店勤務 霧島クロカ容疑者 十八歳』だった。いわゆる法廷スケッチ。
「上手いですけど。上手いですけども……」
似顔絵描いてあげる、と言われてこんなの見せられたら、誰だってきっとへこむだろう。ましてや年頃の娘が。
っていうか、この人いったい何の賞をもらったんだ?
「なんか、こういうのじゃないと描けねーんだ」
ヒロさんはなんら悪びれることなく言う。あたしは彼をにらみつけた。
「うう……ひどい」
「描けっつったのはお前だろ」
「そうですけど……あれ?」
いつのまにやら、その絵を食い入るように見ている少女が一人。
「ミズキ?」
「すごい……」
すごく真剣。瞬きひとつせず、まるで野球少年がプロの試合を見ているような目で。
「ヒロ兄ちゃん、どうやったらこんなん描けるの?」
ミズキは今度はヒロさんにつかみかかって、思いっきり顔を寄せた。瞳はきらきらと輝いて、ヒロさんはその剣幕にちょっと身を引いていた。
「すごいよ! こんな上手な絵描く人初めて見た!」
え?
「クロカ姉ちゃんそっくりに描けてるし、すごいよ! 背景もちゃんとあるし!」
え?
そして少女は、こんなことを言い出した。
「ヒロ兄ちゃん、あたしを弟子にして!」
えええ!?
翌日。特にヒマだった木曜の営業を終えて、あたし達はいつものように晩御飯を頂いていたわけだが。
「基本なんだが、ちゃんと見たまま描くこと」
「はい! 師匠!」
「全体のバランスを考えて。頭がでっかくなりがちだから、そこ気をつけて」
「はい!」
いつもの食卓の横で、昨日誕生したばかりの師弟がなにやら騒がしくしていた。
……というか、ヒロさんの言ってること、あたしでも分かります。
まあ、それはいいのだが。
「あのさ……いい加減動いていい?」
「ダメ!」
尋ねるヒカリさんを、ミズキはばっさりと切り捨てた。
「モデルなんだから動かないで!」
「そんなこと言ったって」
今夜のモデル、ヒカリさんは珍しく困った顔をしてあたしを見る。あたしは肩をすくめて首を振った。
「腹減ったよ……」
テーブルの上では、大きな土鍋がほかほか湯気を立てていた。今夜はキムチ鍋。そろそろいい感じに煮えてきたと、思うのですが。
「あたしは食べててもいい?」
「ダメ! なんか、集中が切れちゃう!」
あたしがおずおずと訊くが、これにもにべもない返事が。
ひでえ……。
しばらくの間、ぐつぐつと鍋の煮える音と、シャッシャッと鉛筆が紙を滑る音だけが店内に響き渡っていた。
そして、鍋は煮詰まってしまった。……ああ。
飲食店は基本的に、週末は忙しい。この『ダイニングしらなみ』もその例に漏れず、あたし達は夜遅くまであくせく働いていた。金土は次の日が休日ということもあって、飲みに来る人が多いのだ。アルバイトのトシくんも厨房に入ってヒロさんの手伝いをするし、ミズキも一人前にホールの仕事をこなしている。
それでも営業後には、ミズキはスケッチブックを携えてきちんとスタンバイしていた。それだけでなく、土曜日には昼間から絵の練習をしていた。ねぼけ気味のあたしやヒカリさんがモデルになったわけだが、どっからそんな情熱が湧いてくるのか。
絵のほうはといえば、指導のかいあってか上手くはなっていた。上手くはなっていたが、それは要するにヒロさんの絵に近づいているということで。
「ミズキ、もうちょい目を小さく。意識しすぎ」
「はい!」
最初に描かれたウルトラマンの絵が、法廷スケッチに近づいているということで。それはもうなんか、とても異様な雰囲気を放ち始めていたのだった。
そして授業参観の前日、日曜日になった。
「クロカ姉ちゃん! 起きてるー?」
「むー……寝てるよ」
「起きてるね! 早く来てっ」
階下からの声に急かされてあたしはもぞもぞとベッドから降りた。眠い。とても眠い。時計を見ると、午前九時ジャスト。いつもならまだ寝てる時間。
「うー……」
目をこすりこすり、いつもの黒Tシャツとジーンズに着替えて階段を下りる。倉庫を抜けると、すぐそこにワンピース姿のミズキが待っていた。
「おはよう!」
「……おはよう」
低い声で答える。なんで朝からこんなに元気なんだ。
「ヒカリさんたちは?」
「まだ寝てたよ。さ、朝ごはん食べよ! 食べたら練習ね!」
……あたしだって寝てたよ。
それは口に出さなかったが、なんとなく不機嫌な雰囲気は伝わったのだろうか。とたんにミズキは上目遣いにあたしを見て、
「……あの、朝早くに、ゴメンね? でも私、絵が上手になりたくて……」
目を潤ませて、しおらしい声で、ふるふる震えながら……!
反則だ!
「いいの! あたしでよければいくらでもモデルしてあげるから!」
気付いたら口が勝手にそう言っていた。顔が緩むのもわかっていたがどうにもならない。止められない。わざとやってんじゃないだろうな! この娘は!
朝食を終えてミズキの部屋。さりげなくぬいぐるみが配置されていたりして、いかにも女の子の部屋らしい部屋だ。あたしの部屋とは大違いだが、面積だけはこっちの方が広い。
「ねえ、ミズキ」
「なに?」
ベッドに座って固まったまま、あたしはデッサンを続けるミズキに声をかけた。
「なんでそんなに絵の練習すんのさ?」
「なんでって。そりゃあ……下手だし」
ミズキは手を止めて、視線を下向きにする。
「けど、そんなに気にすることかなあ? あたしだったら堂々と描いて出すけど」
「クロカ姉ちゃんならね……」
「んな! そりゃどういう意味だ!」
両手を振り回して声を上げると、ミズキがきっ、とにらみつけてきた。いけない、じっとしていなければ。あわてて姿勢を戻す。
「……それに」
再び鉛筆を動かしながら、ミズキが口を開いた。
「皆に、恥かかせたくないし」
「恥……ぷはっ! あはは!」
思わずあたしは笑ってしまった。あたしの反応を見て、ミズキは顔を真っ赤にした。
「何がおかしいの!」
「いや、ゴメンゴメン。でもさ、ヒカリさんもヒロさんも、そんなこと気にしないと思うよ?」
「……そうかな」
「そーだよ」
あたしはうん、と頷いた。
出会ってまだ一年も経たないが、二人の人となりはそれなりに分かっているつもりだった。あの人達なら、どこへ行っても何を言われても堂々としているだろう。
「……けど、ヒロ兄ちゃんがせっかく教えてくれたから。頑張るよ!」
「ん」
なにやら決意を新たにしたらしい。それからしばらく、カリカリという音が手狭な部屋を支配した。
「それにしても、授業参観かあ。懐かしい」
「高校は、なかったの?」
スケッチブックから目を離さず、ミズキが尋ねてきた。あたしはなんとなく遠い目をして答える。
「なかったねえ。最後にあったのは……中学んときかな。まあ、親父は全然来てくれなかったんだけどさ」
そう言ってあたしは笑った。
「そうなんだ……」
「仕事が忙しい。昼間から遊んでられるか、って。遊んで、ってなんだよ! ってケンカになったりしたな」
「……」
あ、なんとなく暗い雰囲気になりかけている。まずい。
「で、でもね。中一のとき。親父が仏頂面のまま、来てくれたことがあって。珍しかった から良く覚えてるんだけどさ、そのときは正直、嬉しかったよ」
「……」
反応のないミズキを窺って、あたしははっとした。
「あ……ゴメン、そういう、あの」
「う、ううん! 違うの! 別にそういうんじゃないから」
「う、うん」
「それにさ、クロカ姉ちゃん」
ミズキは顔を上げて、嬉しそうに笑っていた。
「ヒカリ姉ちゃんもヒロ兄ちゃんも、絶対来てくれるって言ってたから。私もすごく、嬉しいんだよ」
……いい娘だ! すごくいい娘だ!
「もちろんあたしも行くからね! 絶対!」
「あ、動かないで」
思わず前かがみになってしまったあたしを、ミズキがクールに制した。
この店に来て少しのころ、ヒカリさんが教えてくれたことがある。
ミズキはヒカリさんとヒロさんのいとこにあたる親戚で、二人の父親の妹、つまり叔母さんが彼女の母親なのだそうだ。
しかし彼女は三年前、ミズキが十歳の頃に他界してしまった。残された父親は幼い彼女とどう接していいか分からなくなってしまったらしい。しかも折悪く、葬儀の直後に転勤が決まる。幼心に負った傷、そこにまた新しいプレッシャーを与えるのか。自分ひとりできちんと育てていけるのか。彼は随分と悩み、義兄であるヒカリさんたちの父親に相談に行った。
そして、ミズキを預かろうか、という提案を受けたという。
結果だけを言えば、そうなった。彼女の父親は大阪で働いていて、時折この店に電話もくれる。その提案や選択が正しいのかどうか、あたしには全く分からない。
ちなみに今現在この店にヒカリさん姉弟の両親がいないのは、二人して海外へ旅立ってしまったからだそうだ。つまりは、全部二人に投げっぱなしらしい。
寂しくないはずはないと思う。けれど、今のミズキの笑顔にウソはない。
あたしは、そう思っている。
「あーもー、遅刻だよ遅刻!」
どたばたと足早に歩きながらヒカリさんが言う。
月曜、授業参観当日の午前十一時。あたし達は不二東中学校へ向かっていた。徒歩で。
こうして昼前に外に出るのは久しぶりだ。……もうちょっと、まったりと行きたかったところなのだが。
「ヒカリさんが起きないから!」
「んだとおっ! 人のせいにするのかっ」
「いいから急げ」
みんなそう言いながらせかせか足を動かしているのだ。息があがってくる。
「ったく、車で来りゃよかったのに」
愚痴るヒカリさんに、あたしはたしなめるように言った。
「しょうがないですって。プリントに車で来ないでくれって書いてあったんだから」
しばらく不二町を駅方面に歩き、商店街を通り抜けて大通りに出た。一度左に折れて、少し細い、坂の道に入ったところでヒカリさんがふいに足を止めた。
「……あれ? ひょっとして迷った?」
「あたしに聞かれても」
ジーパンにジャージというラフな格好をしたヒカリさんは、きょろきょろと通りを見回した。っていうかヒカリさん、地元民なんじゃ……?
「迷ってねーよ。こっちだ。っつーか、自分も通ってた学校忘れんな」
「あでで! こら弟!」
ぐい、とヒロさんは姉の頭を引っ張った。
「……はあ」
なんとなくため息をついて、あたしは二人を追った。
不二東中学校にたどり着いたとき、既に校内はしんと静まり返っていた。つまりは、
「遅刻だ! いっそげ!」
「あ、ヒカリさん! 廊下走っちゃダメですって!」
先生みたいなことを言いながらヒカリさんの後を追い、あたし達はミズキの教室にどうにかたどり着いたのだった。
そーっと教室を覗く。……生徒一同、先生。みんながあたし達を見ていた。どうもどたばたと廊下を走ってきたのがうるさかったらしい。
「あ……あははは。どうもー」
「恥ずかしい……」
「……」
赤面しながらドアを開けて教室に入る。教室の後ろのほうには父兄のみなさまが既に整列していた。わお、気まずい。
と、ちょっと離れた前のほうの席にミズキを見つけた。あたしが手を振ると、ミズキは照れたような笑顔で手を振り替えしてくれた。が、
「お、ミズキ。おーい」
などと、ヒカリさんが声をかけて手を振るので、
「ひ、ヒカリねえちゃん。恥ずかしい……!」
顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。しかも周りから笑われてしまっている。
「はぁーいっ! それでは父兄の皆様もそろったのでぇっ! これから皆さんが描いてきてくれた絵を見て行きたいと思いますぅっ!」
それまでのホームドラマ的な空気を、教壇に立つ中年男性のそんな発言がぶっ壊した。
「……」
あっけにとられるあたしだったが、父兄の方々も生徒の皆さんも平然とした顔をしている。あれ? これはあたしがおかしいのか?
「……あれは?」
ちょいと頭の薄くなった、やたらとハイテンションなおじさんを指差してあたしはヒロさんに尋ねた。動きがなんとなくクネクネしていて、すばらしい笑顔を浮かべている。
「担任の先生。なんだっけ、前田……先生? 前に、家庭訪問してきたんだ」
「へえ……」
というか、あんな教師も存在するんだ。いいのか?
「はい! さて、ここに今日みなさんが提出してくれたご家族の似顔絵があります。どれもいい出来で先生もう嬉しくてたまりません!」
あたしのそんな考えをよそに、その先生は授業を進め始めた。
クリップを取り出して画用紙を数珠繋ぎに黒板に貼り付けていく。当たり前だがどれもこれも家族の姿を画いたもので、いずれもまあまあ中学生らしい画力だ。中にはやたらと上手な人物画もあったり、やたらとへたくそな絵も混じってたりする。
「おやこれは西田君の作品ですねぇ! ううん、すばらしい! ご家族への愛情がひしひしと伝わってきますよぉっ!」
先生が、一枚の絵を掲げて言った。とたんに赤面して周りをきょろきょろ見回した坊主の少年が西田君なのだろうか。うん、なんかかわいいな。
そしてまた先生は絵を一枚一枚張っていく。黒板が半分くらい画用紙で埋まったところで、再び声を上げた。
「ワオ! これは! ……これは……?」
先生が広げて見せた絵には三人の人物が描かれていた。三人全員うなだれて、深い陰影が表情に刻まれ、こころなしか肩が落ちて。
そんなウルトラマンの家族。
「……えー……富乃さん。とても上手で……その」
あんなにハイテンションだった先生の口調がみるみる落ちていく。
ふと、ミズキの顔がこっちを向いていることに気付いた。目が合うと、彼女はにこりと笑った。
とても、誇らしげな笑顔を浮かべていた。
……あー。まあ、いいか。




