思い出の地で、あなたを思う
「ねぇねぇ」と呼ばれた瞬間、黒板の文字がふっと霞んだ。
レナが振り返り、まっすぐ私を見ていた。
窓の外の光が差し込んで、彼女の輪郭が淡く浮き立つように見えた。
中学に上がって初めて、レナが前の席になった。
幼稚園のころから同じクラスだったのに、彼女はいつも遠い場所にいた。私はただ、教室の端からその姿を眺めるだけだった。
レナはどこにいても中心だった。
まるで、彼女のために世界が回っているように感じた。
栗色の髪を揺らして笑うと、空気がそちらへ流れるように変わる。誰もがあの子に心惹かれた。――私も、そのひとりだった。
幼稚園のブランコで声を弾ませていた横顔が、いまでも鮮やかに思い出せる。私の初恋の人も、彼女のことが好きだった。かなわないほど、可愛い子だった。
もしかすると、あのころからずっと、私は彼女を追いかけていたのかもしれない。
手を伸ばしても届かない、春の光みたいに。
だからこそ、あの日の「ねぇねぇ」は、世界の色がすべて変わるような出来事だった。
名前を呼んで笑ってくれた一瞬の明るさを、いまも忘れられない。
★
レナは決まった時期になると、よく体調を崩した。
授業中、日差しが強い昼下がりのことだった。いつも前に座るその背中が、気づけば机に伏せたまま動かなくなっていた。
保健係だった私は、自然と彼女を支える役になっていった。
ある日、立ち上がったレナがふらりと傾いた。
とっさに腕を伸ばして支えると、思っていたより軽くて、冷たい空気を抱いたような感覚がした。
「……大丈夫?」
「うん。貧血っぽくて……ちょっと目がまわっただけ」
そう言いながら、レナはそっと私の肩に寄りかかった。
髪から、甘いシャンプーの匂いがした。
静かな廊下の向こうでチャイムが鳴っていた。
彼女の重さが胸の奥にじんわり染みて、私はしばらく動けなかった。
保健室に寝かせたレナの顔は真っ青で、こんなにも人は白くなるのだと胸がざわついた。
息を整えた彼女が、かすかに笑って言った。
「ごめんね、キーちゃん。連れてきてくれて、ありがとう」
その声は夢の底から響いてくるようで、私はただうなずくしかなかった。
風に揺れる白いカーテンの向こうに、春の空が淡く透けていた。
あの光景だけは、いまも忘れない。
★
春が過ぎ、空気が夏へ向かいはじめるころ。
レナに誘われて、私はバスケットボール部に入った。運動は得意じゃなかったけれど、彼女の隣にいられる理由がほしかった。
レナはずっと近所の先輩たちと練習していたらしく、動きは軽く、誰よりも上手だった。
コートを駆けるたびに髪がふわりと揺れ、ボールを持って跳び上がる姿は、光を跳ね返すみたいにまぶしかった。
ボールを受け取る瞬間の、指先だけが少し白く見えるのも不思議だった。
先輩たちはいつもレナのまわりに集まり、笑い声が絶えなかった。
私はその輪の外でパス回しを受けながら、ときどき彼女の視線を探した。
放課後、体育館の扉を閉めて部室へ向かっていると、背中に声が落ちてきた。
「ねえ。今日、帰り一緒に歩こ?」
タオルを握ったまま、私はうなずいた。
帰り道、沈黙が続いたころ、レナが小さく言った。
「……ねぇ、友達が他の子と話してるの、嫌なんだ」
「え……?」
「なんか、取られたみたいで、嫌なの」
その言葉が胸の奥に静かに落ちた。
嬉しくて、でも少し怖かった。
彼女の瞳に映るのが私だけになる瞬間、世界が狭くなる気がした。
その日を境に、私たちはいつも一緒だった。
レナの部屋で宿題をし、音楽を聴き、夕方の光がカーテンの隙間からこぼれるなかで、彼女の髪がきらきらと輝いていた。
指先が触れた。
ほんの一瞬なのに、心臓が跳ねるほど痛かった。
恋だったのかもしれない。
でも、違うとも思った。
ただ、あの静けさだけは、いまも胸に残っている。
★
夏休みが終わるころ、レナはよく休むようになった。
授業中もぼんやりして、ノートをとる手が止まる。部活に来なくなり、一人でボールを拾う日が増えた。
ある日、レナの家を訪ねると、カーテンを閉め切った部屋で、彼女は静かに横たわっていた。白い頬。指先まで透けるように細い。
──『ごめんね、キーちゃん。連れてきてくれて、ありがとう』
保健室での言葉がよみがえった。
レナは生まれつき体が弱かった。
でも、それだけではない気がしていた。
クラスの空気が少しずつ変わっていたから。
「レナさんと一緒にいるのは、控えなさい」
二学期の面談で担任に言われた。
「依存っていうのは、相手のためにも良くないからね」
その言葉が理解できなくて、私はうつむいた。
彼女がいないと、自分の輪郭が消えていくようで怖かった。
学校に行っても、レナの姿はない。
空いた席が、日ごとに当たり前になっていく。
その過程が、何より怖かった。
彼女が学校に来なくなって一ヶ月が過ぎたころ。
「悪いことに巻き込まれてるらしい」
そんな噂が流れた。
信じたくなかった。
そんなとき、レナから連絡がきた。
「……私のこと、先生や他の人に話した?」
――疑われていた。
どんなにレナが良くないことに手を出しても、それを誰かに話すわけがない。
だって私とレナの秘密だから。
だから、悔しかった。
その数日後、レナからメッセージが届いた。
「別の子だった、キーちゃんじゃなかった。……ごめんね」
文字に涙が落ち、流れていった──。
★
あれから季節がいくつも巡り、私は高校へ進んだ。
日常はゆっくり戻っていったけれど、ふとした瞬間にレナの笑顔を思い出した。
高校二年の春。
放課後の廊下で名前を呼ばれたような気がして振り向くと、同じ中学出身の子が駆け寄ってきた。
「ねぇ! レナが倒れたらしいよ」
胸の奥がひゅっと縮んだ。
考えるより先に、私は彼女のいる病院へ走っていた。
病室は白い光に満ちていた。
ベッドの上のレナは、昔より少し小さく見えた。
けれど、目を開くと、あのころのままの瞳で私を見た。
「……来てくれたんだ」
「当たり前でしょ」
声が震えた。
レナはかすかに笑って言った。
「ごめんね、あのとき。全部怖かったの。でも、キーちゃんだけは……私の味方だった」
私は首を振り、彼女の手を包んだ。
細い指先は少し冷たかったけれど、確かにそこに生きていた。
しばらくして、レナは町から消えた。
連絡も途絶えた。
それでも、いくつもの季節が巡ってきても思い出してしまう。
ブランコで高く舞い上がるたびに、大きく揺れるあの栗色の髪を。
「ねぇねぇ」と言って振り返ってきた、あの瞬間を。
いま、私は彼女と過ごした思い出の町で暮らしている。
朝の光が差し込むなか、窓を開けて青い空を見上げると――私を呼ぶあの子の姿が、ふっと重なった気がした。
――いつか、また会おうね。
そう呟くと、胸の奥が甘く締め付けられるようだった。
【END】
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