第一章 第三幕 家族の幸せとは 中
※この作品は事実を一部脚色、改変しております。
遊園地に着いたのは午前九時過ぎだった。空は雲ひとつない快晴。遊園地はパステルカラーの色彩がとても美しく散らばっている。園内から、テーマソングが流れる音が聞こえていた。まだ、入園していないが、甘いポップコーンの匂いが漂ってくるのを感じた。私達は開園時間前に着いたが、やはり土曜日。ゲートの前では長蛇の列が作られていた。唯は一目散に行列に並び、早く早くと私を急かしている。今、夫はいないけれど私達は唯にサプライズを用意していたのだった。唯の遊園地好きは夫も私も知っていたため、誕生日にも遊園地に行きたがるということは分かっていた。
「唯、お母さんね、一日パスを買ってあるから、今日はいつもみたいに長い時間並ばなくてもいいんだよ」
「え! ほんと? やったー!」
パス限定の通路に並び、優先的に案内される遊園地の一日パス。普通のチケットより、少し高いが、唯の誕生日には目いっぱい楽しんでほしいと思い、このパスを事前に用意していたのだった。そのおかげで入園には時間がそんなにかからなかった。
「唯、コーヒーカップ乗る!」
「じゃあ一緒に乗ろうか」
二人でコーヒーカップに乗った。ジリリリリ。と開始の合図が鳴った。ぐるぐる回るコーヒーカップを唯は彼女の持てる力をすべて使って頑張って回していた。その証拠に額には汗をかき、手は赤くなっている。私も唯のためにぐるぐる回し続けた。そんな中で私は夫の心配をしていた。仕事からいつ上がって、こっちに合流するのだろうか、そんな不安はコーヒーカップのようにぐるぐると私の脳内で駆け巡らせた。
ゆっくりと目の前の景色が鮮明となる。唯の声が聞こえる。
「お母さん!もう終わったよ?次はメリーゴーランドに行く!唯、馬に乗りたい!」
もう既にアトラクションは終わっていたみたいだ。
「あ、終わってたね。ありがとう。次はそこに行こうね。お母さんは疲れちゃったから外から見ているからね。」
次にメリーゴーランドに行った。唯は大好きな馬に乗れて満足しているようだ。軽快な音楽とともにアトラクションは動き出す。私は唯に手を振りながら、夫が来ないか一日千秋の思いでスマホを開いた。きっと午後に夫は来る。お昼はせめて三人で食べたい。そんな思いで夫にメッセージを送信した。
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ねえ仕事終わった?大丈夫?
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まだ。あともう少しで終わるから。終わったらすぐ行くよ。
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ねえ。お昼までには遊園地に来てね。唯とお昼くらい一緒に食べてあげて。
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分かったよ。それまで唯と楽しんで♡☻♡
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彼のさいごのメッセージには、彼が私によく送る絵文字が付けられていた。私はクスっと笑ってしまい、夫がいない間も唯の誕生日を楽しいものにさせようと心に決めた。
サイクルモノレール、海賊船、ゴーカート。様々なアトラクションを唯と楽しんだ。途中でポップコーンも買った。唯が買ったキャラメルのポップコーンは甘く、私たちが遊園地にいる楽しい時間を表しているようだった。途中で焦げてしまった粒を食べてしまったのか炭の味を感じた。まるで、これからの楽しい時間が灰になるのを予兆するような......。そんなことはないと、私はまた甘い粒を手に取り、口にいれる。
今の時刻は午後一時前。昼食の時間を少し過ぎた頃だ。唯は「お腹減ったよー。まだ食べれないのー」と駄々をこねた。私は唯に「あともう少しでお父さん来るからね、そしたら食べよう」と唯に言い聞かせ、メールを開く。30分前に送った、「あともうどれくらいで着く?」のメッセージに返信はない。
私は夫の返信の遅さや仕事から早く上がらないことに対し、少し不安を覚え、まだかまだかと辺りを見渡す。
不意に誰かのスマホが鳴り、メロディにクラシックが流れた。私はクラシックに詳しくないが、なんの曲かはすぐに分かった。夫がスマホにメロディとして設定しているシューベルトの曲だ。確か題名は「冬の......」 ......忘れてしまった。今はそんなことはどうでもいい。私はその方向を素早く見た。
――夫が遂に来た。
仕事で遅れたことに対する怒り。仕事の頑張りに対する慰労。時間が遅いことに対する呆れ。遊園地に来たことに対する安心。そんな思いが一瞬で私の脳内の中で駆け巡り、言葉を選ぶ。
「ねえ、あなた。いくらなんでも遅すぎじゃない? 唯と凄く待ったんだからね!」
私はそんな言葉を掛け、夫は「ごめんごめん、お昼遅れさせちゃった。じゃあみんな一緒に食べよう!」
と言う......はずだった。
私が振り向いた方向に夫はいなかった。別人だった。私は口にしようとした言葉を止めた。そして唾を飲み込む。
(まだ夫は来ていないしメッセージの返信もない......何かあったのかな)
私は夫がまだ来ていない事に不安を覚えた。そしてその不安は的中してしまった。スマホに電話がかかった。夫の電話番号ではなかった。何の番号か分からなかった私は、電話を繋げ、右耳にそっと当てる。
「もしもし、どなたでしょうか」
「もしもし、私 〇〇病院の井口と申します。佐藤様のご家族でしょうか?実は......」
電話を切ったあとも、耳の奥の冷えは消えなかった。 唯の笑い声がまだ近くで響いているのに、私には遠い世界の音のように聞こえた。 遊園地の色彩が灰色に溶け、軽快な音楽は風にさらわれていく。
スマホを握る指先は震え続け、視界の輪郭が揺れていた。胸の中の時計が大きく揺れ、ギギギと音を立てながら狂い始める。
「唯、お父さんのところに一回行こうか」
私は唯に夫に起きたことを隠した。夫の体調が悪くなり、病院にいること。今からお見舞いに行って、その後お昼ご飯を3人で食べることを話した。唯は、父親を心配するも、3人でお昼が食べられることに満面の笑みを浮かべた。
足を踏み出した瞬間、遊園地の華やかな色彩は背後に遠ざかり、目の前にはまだ見ぬ病院の白い廊下が、心の中に広がっていた。
――そして私は衝撃の事実を知ることになることをこの時はまだ知らなかった。




