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復讐の業火  作者: 山崎 桜
第一章 家族の幸せとは

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第一章 第三幕 家族の幸せとは 上

※この作品は事実を一部脚色、改変しております


 匙が床に落ちた。――金属がフローリングに触れる小さな音が、いつもの金曜日の夜にほんの少しの違和感を残した。私は一瞬手を止め、深く息を吸ってから匙を拾った。指先に伝わる冷たさが、いつもより確かに感じられた。


「ねえあなた。明日は、どこに行きましょうか」

 テーブルには湯気の立つビーフシチューの匂いが満ちている。六時間かけて煮込んだその一皿は、濃厚な香りとともに家族の時間を包んでいた。娘の唯は口の周りをソースで汚し、嬉しそうにスプーンを動かしている。湯気が私の頬をほんのり温めた。


「そうだなぁ。唯はどこか行きたいところあるか?」

「唯はねー。遊園地に行きたい!」

「それもいいな。そうしようか」

「じゃあお昼にサンドイッチを持っていきましょう。材料は足りるかしら」


 いつもの何気ない会話。幸せの匂いがする時間。唯の笑い声が食卓に跳ね返る。私はその声を胸に刻むように聞いた。


 そのとき、彼のポケットでスマホが震え、シューベルトの旋律が静かに流れた。古くて物悲しいメロディーの一節が、短く切れて消えた。彼は立ち上がり、席を外す。背中の角度がいつもより硬い。スマホを耳に当てた彼の肩が、ほんの一度だけ強く上がった。


 スマホ越しの声は低く、時折怒気を含んでいるように聞こえた。内容は分からない。ただ、彼の表情が引き締まり、了解の声が小さく返るのが見えた。


 戻ってきたとき、顔は深刻だった。食卓の灯りが彼の額の汗を照らす。呼吸が少し浅くなっている。言葉の端々に、引き下がれない事情が滲んでいた。


「なぁ。遊園地、日曜日でもいいか? 急用の仕事が入っちゃって」

「どうしたの? どうしても外せない仕事なの? 土曜日に絶対行くって唯が言ったんだから土曜日に行かないと。」

「それもそうだが、先に二人で遊園地に行ってくれないか。本当に大事な仕事が入ってしまったんだ。俺は仕事を終わらせた後から合流するから」


 私は心の中で時計を見た。明日は唯の誕生日だ。毎年、家族で過ごし、イチゴのショートケーキを買うのが我が家の決まりだ。夫は仕事を土日に入れることはあっても、家族を優先することの方が多い。しかし、夫の声には、どうしても譲れない何かがあるように聞こえた。私は、夫の給料の増減に関わるような大事な仕事だと考え、夫に話す。


「仕事を優先してもいい。何か事情があるんでしょ。でも絶対に12:00までには遊園地に来てね。せめて午後だけでも唯に付き合ってあげて」

「分かった。何とか間に合わせてみる」


 彼は笑ってビーフシチューを口に運んだ。湯気が立ち、スプーンが皿に当たる音が小さく響く。私はその笑顔を見て、安心したつもりでいた。だがその笑顔の端に、わずかな引きつりがあったことを後で思い出すだろう。


「やっぱり君の作るビーフシチューは美味しいなあ」

「御世辞は結構です。早く食べてお皿洗わせて」


 私は彼の言葉が嬉しくて、つい素っ気なく返してしまった。しかし、そのような会話は、もう二度と同じようにはできない。そんなことを知らない私は、いつも通りの夜を過ごした。


 ----


 事件当日の朝。窓から差し込む光は柔らかく、カーテンの隙間から細い光の筋が床に落ちている。唯はいつもより早く目を覚ました。期待で体が震えているのが見て取れた。


「ママ。おはよう。今日は遊園地に行けるんだよね」

「そうね。今日は唯の大好きなハムチーズサンド作っているからね。お昼に三人で食べよっか。じゃあ朝ごはん食べて支度してね」

「うん!」


 私は手早くサンドイッチを作る。ハムの塩気、チーズのまろやかさ、パンの香ばしさが混ざり合う匂いを想像しながら、具を重ねていく。ツナサンドも用意し、ピクニックのようにラップで包んでいく。手は慣れている。包丁の刃先がまな板を滑る音が、規則正しく心を落ち着ける。


 だが、ふとした瞬間にハムが一枚、床に落ちた。薄いピンクの輪郭がフローリングに触れ、空気が一瞬だけ変わった。匂いがわずかに鋭くなる。私は息を飲んだ。落胆より先に、胸の奥に小さな不安が忍び寄る。ハムが落ちたこと自体は些細だ。だが昨日の電話の声が、まだ耳に残っている。彼の肩の震え。スマホを握る手の力。残響のように、すべてが、私の中で小さな点となって繋がり始める。


「あの人、仕事大丈夫かしら」


 問いかけは小さく、台所の空気に溶けていった。外では朝の車の音が遠く、家の中にはサンドイッチの匂いと、唯の期待に満ちた声だけが残っている。時計の針が一度だけ、いつもより大きく刻まれたように感じた。私はその音を聞き逃さないように、耳を澄ませた。

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― 新着の感想 ―
第一幕、第二幕を読む前にこの第三幕に来てしまいました。 それでも読み応えがあります。 事件の予感と家族の日常の描写が自然でよく表現されていると思いました。 今後の展開が楽しみです。 ブックマークを設定…
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