メヌエット
「たまにはふたりで連弾をしないか?」
連弾は、久しぶりだ。何の気なしに口にした悠理に目を細めた司が懐かしそうに笑う。
「懐かしいな。あの頃は上手く演奏出来なかった。今日はリベンジをさせてもらおう。」
野性味を帯びた視線で挑むように司は悠理を見つめた。
硝子張りの高層エレベーターは静かに2人を上空へと導く。
キラキラと瞬く光の粒が美しい。こんな綺麗な世界を見下ろして生きていく司と、底辺の暗闇で身をひさいで生きていく自分、今後交わることのないふたりの人生に悠理は言いようのない淋しさを感じていた。
司はあの妖精のように綺麗なオメガとこの美しい世界で幸せに生きていくのだ。
自分から全ての希望を奪った男に少しだけで良い一生残る傷をつけてやれたら……。
硝子に映った凡庸な自分の顔が醜く歪む。
「美しいな。」
悠理の後ろに立った司が呟いた。
こんな夜景飽きるほど見ているだろうに、悠理はそう思いながらも「ああ」っと同意した。
彼の棲む世界は美しい、憎らしいほどに……。
傷つけてやりたい。とことん、自分の住む地べたに引きずり落としてやりたい。
その美しい顔が歪むのが見たい。いつも冷静なその顔は運命が狂った時どう歪むのか?
俺のことを一生忘れられないくらい憎ませたい。歪んだ感情に囚われた悠理を乗せたエレベーターはどんどん高度を上げていく。
煌めく夜景を見下ろしながらピアノ付きのスイートルームの階に止まった。
静かに扉が開く。
彼がピアノのあるスイートルームにしか泊まらないのは有名な話だ。
よく、一緒に練習しないかと誘われたものだ。ライバルに塩を贈られてたまるかと、毎回断っていたが……。
今日は、司を嵌めてやるのだ。司はオメガに警戒しているらしいが、悠理がオメガだと知らないはずだ。知っていれば、警戒心の強い司のことだ。ふたりきりで密室にこもるなんて危険な真似するはずがない。
アルファとオメガがふたりきりの空間にいて、オメガが発情したならアルファは何をしても罪には問われない。
しかし、相手が未成年オメガであるなら話が違う。未成年オメガに手を出せば、アルファは婚姻するか、捕まるかの二択となる。
一旦婚姻したとしても、離婚は容易ではない。数年婚姻を継続しなければならないし、莫大な財産分与をしなければならなくなる。
どう見てもベータにしか見えない悠理に司が警戒する様子はない。オメガとしてのフェロモンがないのだ当たり前か。
悠理はポケットの中に忍ばせた発情誘発剤をそっと握り込んだ。
悠理を哀れに思った借金取りがくれたものだ。最初くらい好きな相手を誘惑しろとどんなアルファも抗えないフェロモンの出るという極上の発情誘発剤。
ピアノ以外見えていなかった悠理には縁のないものだと思っていたが、最期にこれを使って司も不幸にしてやろう。
悠理はその錠剤をそっと舌下に忍ばせたのだった。確実に舌下静脈から取り込まれた錠剤は発情したことのない悠理もきっと発情させてくれるはずだ。
今日の零時までは悠理を未成年オメガ保護法が護ってくれる。せいぜい高額な慰謝料と財産分与をぶんどってやるさ。
先程の少女と司の間にヒビをいれられると思うと、不思議と胸がすく思いがする悠理だった。
エレベーターが開くとそこには大きな窓から差し込む月の光に照らされた真っ白なピアノがあった。
ダウンライトのやわらかな光の中グランドピアノへと司が悠理の腰に手を当てたまま優雅にエスコートする。
執事のように椅子を引いた司は悠理の耳元で囁いた。
「ふたりで弾くなら、『愛の挨拶』が良いな。」
司の低く掠れたその声の甘さに、初めて共に弾いた曲をリクエストされただけだというのに悠理はなんだか妙な色気を感じてドキリとした。
司はもう一脚低音側に椅子を持ってくるとそこに腰掛けた。悠理はなんだか、司が急に近くに感じてしまってドギマギしてきた。
無駄に顔の良いアルファはこれだから困るんだ。相手は自分よりガタイの良い男だというのに何をドキドキしているんだろう。悠理は意識していることさえ気恥ずかしく感じて俯いた。
そのうっすら赤みの差したその顔が色香を放って司を誘惑していることに悠理は気付くこともなかった。
悠理の意識の中での彼は凡庸なベータの男で彼の恋愛対象は女性だけしかないからだ。眼の前の男が自分をどんな目で見ているかなんて身近にオメガがいない彼にはわかっていない。
「悠理の高音が聴きたい。ペダルと低音は私が担当しても良いか?」
「ああ」
悠理は頷く。その嫌味な程長い足でペダルを思う存分踏むが良いさ。
お互い暗譜しているのにご丁寧に楽譜をきちんと用意してくれるとは、さすがアルファ様は完璧だな。
弾き始めてみるとお互いの手が触れ合うくらい密接した連弾の心地よさに悠理は酔っていた。
2人で一つの曲を演奏しているのに、まるで悠理が全てを支配しているような万能感に満たされる。
意識が蕩け合うような恍惚感。ただ連弾をしているだけなのに、身の内をさらけ出すような気恥ずかしさを覚える。だが相手の全てを受け入れ、融合しまるで一つになったかのような感覚に悠理は魂が震えるのを感じた。
こんなに色っぽい曲だったっけ、子供が連弾に使うような曲だったはず。
意識しだすと、目に入る司の長い指先すら色っぽく見えてしまう。
触れる指先、絡む足、普段は怜悧な司が優しくこちらを見つめる表情にバクバクと胸が高鳴る。落ち着け相手は男だ。そう言い聞かせるものの、初恋に堕ちた顔と重なって落ち着かない悠理ナノだった。
ただ横に座っているだけなのにたまらなく良い匂いのする司の胸にたまらず顔を埋めそうになって悠理は慌てて座り直した。
極上アルファ様は匂いも格別なのか。欠陥オメガの俺じゃなかったら薬などなくとも既に発情していたに違いない。恐ろしいな極上アルファ。
そう冷静に慄く悠理は知らない。強すぎる司のフェロモンは近寄ったオメガを狂わせる事を。そして、アルファもベータも司に服従するのみで司が常に孤独を抱えていることを。
司にとって、穏やかに話が出来る家族以外の貴重な存在、それが悠理だった。
2人で弾くピアノが楽しくて時間を忘れて思い付くまま弾いていった。
悠理にとってピアノは神聖なもので完璧に弾かなくては、勝たなければと気を張って弾いていたから、純粋に楽しむなんてなかったのかもしれない。
司と自身の20本の指がまるで自分のものになったかのような万能感。連弾ってこんなに楽しかったんだな、そんな高揚感が悠理を包んだ。
俺、ピアノを弾くのが好きなのと同じくらい、司のピアノも好きなんだ。
コンクールで弾く音だけでなく、姿も、時折見せる切なげな表情も、すれ違う時に感じるこの良い匂いも。幸せで泣きたくなる。
時折指先が触れる度に高鳴る胸に悠理はまるで、恋する乙女みたいじゃないかと思ってしまった。
司には大事な想い人がいるのに……。
自分はオメガと意識すらされていない出来損ないなのに……。
司が、優しすぎるのがいけないんだ。それにこの胸の昂りはライバルを嵌めようとしている事への興奮に違いないと悠理は自分に言い聞かせた。




