◇変貌
早速サマリア夫人による授業が始まった――かと思われたのだが。
夫人は机に置かれた王国の貴族一覧を手に取ると、なぜかヒスカリアではなくジェインに手渡す。
「え……サマリア夫人?」
慌てたヒスカリアが呼び止めると、夫人は受け取ったジェインに向かって微笑む。
「ひとまずはジェイン様が重要だと思う方のみ、ヒスカリア様には覚えていただきます」
「なるほど、確かにそのほうが効率的か……」
手渡された分厚い書面を片手に、ジェインは若干納得のいかない表情で頷く。
「ですので、座学は明日以降にいたしますわ。まずは挨拶の作法から、ですわね」
するとそこへ、先ほど夫人と共に部屋を出たはずのエマが姿を見せた。
「失礼いたします。ヴァリエ前公爵夫人、ホールの準備が整いました」
「そう、ありがとう。では、早速移動しましょうか」
訳がわからないヒスカリアはキョロキョロしてしまう。
そんなヒスカリアの前に、ジェインがそっと近づくと、なぜか手を差し伸べる。
「手を」
何のことかと、ヒスカリアはぽかんとした表情で差し伸べられた手をじっと見つめる。
その反応に一瞬驚いた顔をすると、ジェインは優しくヒスカリアの手を取り、自らの腕にそっと添えるように置いた。
「エスコートだ。これからホールでマナーの実践講義でもするのだろう」
「えっ……あ、なるほど」
納得したヒスカリアは、今更ながら触れられた手の温もりと、これまでのジェインとは違う優しさに戸惑いながらもドキドキしてしまう。
(ジェイン様……急に一体どうなさったの!?)
「では、参ろうか」
「はい……」
廊下に出て、優雅に歩みを進めるサマリア夫人の後ろを歩く。
ジェインの腕に掴まりながら、ドキドキしていたのも束の間、前を見たヒスカリアの瞳にスッと背筋の伸びた夫人の後ろ姿が映りこむ。
その後ろ姿は、社交界をまだ知らないヒスカリアから見てもとても美しく優雅で洗練されているように見えて、思わず目を奪われた。
そして、それを見ながら自分の動きを少しずつ真似られないかと思い始める。
(背筋をスッと伸ばして、頭から吊られているみたいに首も伸ばして、足運びも優雅に……。後ろからだけじゃ、やっぱりちゃんと真似られていないかしら。でも、もう少しでサマリア夫人のように綺麗に優雅に歩けそう……!)
ヒスカリアがそう思って一歩大きく踏み出した時だった。
ジェインのほうへと急に引き寄せられ、バランスを崩しそうになる。
「あっ……!」
思わず小さく声を上げたヒスカリアをジェインがしっかりと支える。
そうして、その距離のまま、ジェインはそっと言葉を紡いだ。
「夫人の歩き方は一人で歩く際の手本にするといい。途中までだがよくできていた。だが、今は隣に私がいる。エスコート相手にある程度身を委ねたほうが、二人で歩く場合は美しく見える」
そう言ってジェインは自分のほうへとヒスカリアをさらに引き寄せ、彼女の顔を覗き込みながら、優しい笑みを落とす。
「……それに、このほうが君も楽だろう?」
それでなくても「よくできている」と褒められ、信じられない思いでいたところに、至近距離で優しい言葉を囁かれ、もうヒスカリアのキャパは限界だった。
思わず足を止め、すぐ隣のジェインを見上げる。
「あの、ジェイン様……ち、近いです」
「エスコートだから、それは仕方ないな」
「そうではなくて。その……急にエスコートだなんて、どうされたんですか?」
オロオロしながら問いかけるヒスカリアに、ジェインは不思議そうな顔で答える。
「それはさっき話しただろう? 私はできる限り君に協力すると」
「え? ……あの、協力とエスコートがどうつながるのでしょうか?」
失礼だとは思いつつも、ヒスカリアは突っ込まずにはいられない。
するとジェインは、伝わっていないことに気づいたのか、先ほどまでとは少し違う真剣な眼差しでヒスカリアを見た。
「君が自信をつけるためには何が必要か考えた。そして、それは君を大切することなんじゃないかと思ったんだ」
「ええ!?」
(だから、急に優しくエスコートしだしたっていうの!?)
「君は虐げられ、蔑まれ続けたことで自信を失い、今の状態になってしまった。元の君はきっと侯爵家の令嬢として大切にされていたはずだ」
ジェインの言葉に、ふと在りし日の幸せだった日々が過る。
「……お祖父様が亡くなる頃までは、屋敷のみんな優しかったと思います」
口にして、切なくなってしまったヒスカリアに、まるで「大丈夫だ」とでも言うように、ジェインの視線に力がこもる。
「私は君の力になると誓った。だから君が自信を持てるように、君を大切にする」
「は、はあ……」
「あ! 義務で嫌々やるわけではないからな。まあ罪滅ぼしではあるが……さっきの叔母上の発言を見て、君に母上を重ねて見てしまって……」
「お母様……?」
「ああ。詳しくはまた後で話す。今はまず、サマリア夫人を追いかけねばな」
ジェインの言葉に、先ほどから廊下で止まったまま話し込んでしまっていることを思い出したヒスカリアはキョロキョロと夫人の姿を探す。
どうやら既にホールに移動してしまったのか、夫人の姿はなかった。
焦るヒスカリアの肩を優しく引き寄せると、ジェインは聞こえるかどうかの囁く声で、何やら呪文を唱える。
足元に大きく魔法陣が光り出す。
「さあ、ホールまで移動するぞ」
「ええ!?」
走って移動するのかと思って意気込んでいたヒスカリアは、驚きの声を上げたまま、魔法陣の光に包まれ、ジェインと共にその場から消えた。
◇◇
「ジェイン様。屋敷の中で貴重な転移魔法を使うなど……魔力の無駄遣いです」
光りがはれてすぐ、目の前に現れたサマリア夫人は、大きくため息をつきながらジェインに苦言を呈した。
「ヒスカリアが走ろうとしていたので、それなら転移した方が早いと思ってな」
「……確かに淑女として走るのはよろしくありませんが、転移など想定外にも程がありますわ」
そう言いながら、サマリア夫人はヒスカリアの状況を見て、一瞬目を見開いた。
「お二人の間に何かあったのです?」
……それもそのはず。
転移の時に引き寄せられたヒスカリアの体は、ジェインに両腕でしっかり抱き止められ、側から見ると大事そうに抱きしめているようにも見える。
「!?」
状況に気づき、慌てて離れようとするヒスカリア。
ところが、上手く抜け出せず、結局再びジェインが抱き止めることになる。
サマリア夫人は驚きつつも、「あらあら」と言いながらその様子を物珍しそうに見守っていた。
「ジェイン様、一旦放してください!」
顔を真っ赤にしながら上を見上げ、懇願するようにジェインを見る。
けれど、その表情が不意打ちだったのか、ジェインは目を瞬かせる。
心なしか、その頬がほんのりとほてっているように見えた。
その上、先ほどまで躊躇いなくヒスカリアに触れていた腕がなぜか少し震えている。
「……え? ジェイン様?」
不思議そうにヒスカリアが声をかけると、ジェインはハッとして、慌ててその顔を片方の手のひらで覆った。
そして、その反対側の手をゆっくりとヒスカリアから離す。
解放され、一人で立ったヒスカリアは、どうにも様子のおかしいジェインをじっと見た。
「あの、ジェイン様……」
「べ、別になんでもない。気にするな。……それよりもサマリア夫人、早く授業を始めてくれ」
顔を手で覆ったまま、ヒスカリアを制すると、ジェインはサマリア夫人に縋るように声をかけた。
その声を聞いた夫人は、嬉しそうに答える。
「ええ。承知いたしましたわ。ヒスカリア様、どうぞこちらに」
手招きをされたヒスカリアは、ジェインに後ろ髪を惹かれつつ、夫人の元へと向かった。
そこから、不思議な実技がスタートした。
マナー講義というからには、ドレスに着替えるとばかり思っていたヒスカリアだったが、エマが選んだ優雅さ重視の丈の長いワンピースは、まさに実技には打ってつけのものだった。
まずサマリア夫人がどういう場面で用いる動きかなどを説明した後、夫人が実際にその場で披露する。
それをヒスカリアがじっくり観察し、その後同じ動きを披露するという、かなり変わった授業が行われた。
夫人の披露が終わり、ヒスカリアが披露する頃には、ジェインも普通に戻り、その様子をじっと見守っていた。
時折、ヒスカリアの所作に驚き目を見開いたり、微笑むジェインに、彼女の心は忙しなくざわつく。
けれど、そんな中でも特に間違えることなく習得し、披露していくヒスカリア。
それを受けてか、授業の終わりに、サマリア夫人はとんでもないことを言い出した。
「ヒスカリア様。今日はここまでにいたしましょう。明日もう一度、お一人でひと通りやっていただきますが、そこで問題がなければ、挨拶についての実技は終わりとします」
「……かしこまりました」
「あとは、テーブルマナーと座学ですわね……」
どの順番でやるべきかと思考する夫人に、ジェインが今朝のことを告げる。
「サマリア夫人、テーブルマナーは特に問題ない。朝食時に確認済みだ」
「まあ、そうでしたか」
「まあまだ少し優雅さには欠けるが、そこについては私と食事していけば、すぐに改善するだろう」
二人の会話にさらに驚くヒスカリア。
(今朝は講師に教われと話されていたのに、ジェイン様自ら手本を示してくださるの!? 本当にジェイン様、一体どうされたのかしら……)
変貌したジェインに戸惑いながらも、この日の授業はこうして終わり、帰宅するサマリア夫人をジェインと共に見送った。
お読みいただきありがとうございます。
ようやく段々恋愛になってきました。
次は成果と謁見の予定です。
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