7 エレンの力
三日前。
男が城内で王侯貴族のような待遇を受けてくつろいでいる間に、エレンは人らしい生活を取り戻した。
宰相に連れられて向かったのは王城の一室だったが、男がいる所とは離れているから安心するよう言われた。部屋の前には専用の衛兵もいた。自分を逃がさないためかもしれないが、男から守ってもらえるならそれでもいいと思えた。
首輪も足かせも外された。それだけで体が軽くなった。念入りに風呂に入り、乱暴に切られた髪を整え、衛生的な服に着替えると、誰もエレンを悪魔だと思うことはなかった。痩せこけてはいたが幼い頃から身についた所作が所々に見られ、確かに使用人を雇うような家の令嬢だと察せられた。用意された食事は栄養価が高く、柔らかく煮込まれ、のど越しの良いものだった。柔らかでふかふかな布団でしっかりと眠ったのはいつぶりだろう。自分でもわかるほど内側から力がみなぎってくるのを感じた。
体力はそう簡単には戻らないが、満ち足りた幸福感と安心感がもたらす力は、エレンの中で花開いた。
エレンの着ていた服やマント、首輪、足かせは雇った子供に着せて牢で待機させた。破格の日当銀貨一枚と食事提供を約束された子供はこのアルバイトを喜んで引き受けたが、マントの汚さと臭いに顔をしかめた。
一日に一度あの男は「悪魔」を確認に来る。牢の奥で膝を寄せて座り、うつむいて物音に怯える様子を見せれば、男は中身が入れ替わっていることに気付くことはなかった。
その翌日、エレンは宰相に連れられ、病に苦しむ王城の使用人達の元へ行った。王城の病に苦しむ者を救うこと、これが宰相からの依頼だった。
開かれたドアを覘きこむと、中で眠る人は黒いもやもやに体を覆いつくされていた。
今王城内で罹患している人数は極めて多い。家で使用人達を治した話から、その力を広範囲に発動できないか試してみることになり、今いる階にいる療養中の者の部屋のドアが全て開けられていた。
エレンは充分に眠り、いっぱい食べたせいか、今ならできる気がした。
意識を集中すると、黒いもやもやが城の壁を透かしてあちこちに浮かび上がってきた。どれも人と思われるものを覆いつくし、さらに広がり、通り道に残り、その後を通る人を待っている。隣の人に移り、次に扉のノブを触れる手を待っている。見ている間に突然もやもやが勢いをなくして消えた。命を落としてしまったのだろうか。
「誰が聞いても誤解のないよう、『黒いもやもやは死ね』と唱えるんだ。恐れることなく、倒したい相手をはっきりと口にして。いいね」
宰相の言葉にエレンは強く頷いた。
大きく息を吸い、吐き出す。背後では大臣や役人たちが何が起こるのか興味本位で見ている。
「…消えて。消えちゃって。…黒いもやもや、いなくなれ」
黒いもやもやは、大きくなり、小さくなり、時に左右に揺れながら大きな口を広げ、嘲るようにエレンを見ていた。
「…黒いもやもや、あっち行け。…、いやっ! 寄って来ないで! 死んじゃえ。…黒いもやもや、死んじゃえ!」
周りでその様子を見ていた者は何が起きたかわからなかった。ただエレンの声が響いただけ。元々黒いもやなど見えないが、光も音も匂いも、エレンの発言の前後で何も変わっていない。
そんな中でエレンだけが安堵の笑みを浮かべていた。
しばらくしてざわめきが起こった。
典型的な症状である湿疹と高熱が引き、病による消耗は戻らないながらも、ずっと楽になった体にあちこちから感嘆の声が上がった。階上階下も含め、体の調子を崩していた者の八割は一気に症状がなくなっていた。
「治ってる…」
「奇蹟だ!」
歓喜の声があちこちから聞こえ、寝込んでいた者が部屋から出てきた。それを目の当たりにした大臣達は、ただ驚くしかなかった。
「黒いもやもや」になって見える感染症以外の病や怪我には「死ね」の魔法は効果がなく、持病を持つ者は症状は軽くなってもまだ病は癒えていなかった。決して万能な力ではないのだ。しかし、あれほど蔓延していた病がこの階だけでなく、城全体で消えていた。これを奇蹟と言わないでいられようか。
そして昨日。
王にその力を見せるよう請われたエレンは、王や大臣達と共に見晴らしのいいバルコニーにいた。眼下に広がる王都に向けて、エレンは強く、心を込めて祈った。
城下に沸き立つ黒いもやもや。所により濃く、時に渦巻くように広がり、それは人々の苦しみを現している。
「消えて。…黒いもやもや、いなくなって。もうみんなを苦しめるのはやめて。…黒いもやもや、死んじゃえ!」
その言葉と共に強い風が王都を吹き抜けた。しかし、それだけだ。やはり他の人には何の変化も感じられなかった。しかしエレンには黒いもやもやが風に吹かれてちりぢりに消えていくのが見えていた。
あまりに何もなく、こんなものかと王は半信半疑だったが、疲れた様子のエレンに休むよう伝え、自身も更なる回復を目指して休息をとった。
数時間後、城下の様子を見ていた衛兵が戻ってくると、皆目を輝かせて王に報告した。
「王都の南部、今はやりの病の症状を持つ者はいなくなりました」
「北部の病院で見ておりましたが、強い風が吹き抜けた後、皆症状が治まり、回復に向かっております」
「西部では半数以上の者がだるさを感じなくなったと言っています」
「奇蹟が起こりました! 東部で重症だった者達が次々に症状を軽くしています! 壊滅的と思われた町も救われました!」
予想以上の絶大な効果。
目に見えなくとも、耳に聞こえなくとも、エレンが発動したであろう「死ね」の魔法以外では考えられない変化だった。




