第24話 「長い道の先で」
太陽が沈み、ふたたび昇り、清澄な朝が来た。
あたりを照らす朝日の輝きとも、その反射とも違う、おおいぬ座の星のような光が、ちかりとまたたいたような気がした。
タレイアは、立ち止まり、振り返った。
だが、そこには、扉の開いたアテナ神殿が、堂々とそびえたっているだけだった。
タレイアは腰に両手を当て、つくづくと神殿を眺めた。
神殿の屋根に開いた大穴や、神殿の壁に沿って並べられていた大量の木の枝のくず、それらを片付けるために行ったり来たりしている男たちの姿――
何よりも、すぐそばの地面に生じた巨大な亀裂が、あの戦いは夢や幻ではなく、紛れもなく現実に起きた出来事だったという事実を示していた。
空気も、そこはかとなく硫黄くさい。
神殿の内部を浄めるために、夜を徹して硫黄で燻蒸をしたなごりだ。
だが、これまでの騒ぎを思えば、実に静かで、穏やかな朝だった。
こうして朝の光を浴び、鳥の声をきいていると、この場所が人知を超えた戦いの舞台となっていたなどとは、それに加わっていたタレイア自身でさえも、ほとんど信じられないほどだ。
そもそも、信じられないといえば、この自分が、今こうして生きて地上に立っているということ自体、にわかには信じがたいのだが――
タレイアは小さく首を振り、ふたたび神殿に背を向けると、神殿前の広場にたつ『慈悲』の女神たちの像のもとへと、まっすぐに歩み寄った。
手にしていた小型の壺から、中身を、どぼどぼと地面のくぼみに注ぐ。
牛の乳に、葡萄酒、蜂蜜などを混ぜあわせたもの――死者への供物だ。
「あの……」
背後から、遠慮がちな声がきこえた。
「パウサニアスさんは、もう、そこにはいませんよ?」
「分かっている」
タレイアは、からになった壺を、地面のくぼみに投げ捨てながら答えた。
「気持ちの問題だ。倒したことを、後悔はしていない。だが、奴の怒りも、今となっては、理解はできる」
振り向いたタレイアの視線の先には、【垂れ耳】と【垂れ舌】をつれたメラスが立っていた。
メラスの表情は、今は、穏やかだった。
昨日、タレイアがふと意識を取り戻したとき、メラスは、タレイアのすぐそばに座り込み、幼い子供のように泣き叫んでいた。
言葉をかけても、こちらを見もせず、犬たちが呼びかけても、耳に入らない様子だったのだ。
辛抱づよくなだめ続け、――最後のほうは、つい、二、三発の張り手を食らわせてしまったが――ようやく視線が合ったところで、タレイアは、あの老人からの言葉を伝えた。
メラスの術をかけられて眠っていたあいだに、タレイアは、奇妙な夢を見ていた。
一人の老人の夢だ。
その老人は、とても優しそうで、立派な白い髭をたくわえており、痩せて、ぼうっと光って見えた。
これまでに一度も会ったことはなかったが、その物静かで悠然たる物腰は、尊敬するに足る人物であると思わせた。
他にも、何かいろいろな夢を見たような気がするが、思い出せない。
目覚めたときに、はっきりと覚えていたのは、その老人の姿と、彼が言っていた言葉だけだ。
老人は、タレイアに向かって、あの子に伝えてほしい、と言っていた。
『必ず、また会える』
その言葉を伝えた瞬間、涙にまみれ、歪んでいたメラスの表情が変わった。
『それまでは、地上で、なすべきことを。……御老体は、そうおっしゃっていたぞ』
タレイアがそう伝えたとき、遠くから、戦士たちがしきりに呼ばわる声がきこえてきた。
先頭で、一番大きな声を張り上げていたのは、幸いにというべきか、やはりというべきか、アリストデモスだ。
『ここにいるぞ! 無事だ!』
そう叫んでおいて、
『……メラスよ。あの御老体は、そなたの師匠か?』
タレイアはそう問いかけたのだが、メラスは答えもせず、ふらふらと立ち上がって、どこへともなく歩きだした。
追おうとしたが、ちょうどそのとき、彼女の姿を見つけて駆け寄ってきた戦士たちにもみくちゃにされ、報告と、質問と、興奮したわめき声に一時に取り巻かれて、タレイアはメラスの姿を見失ってしまった。
【垂れ耳】と【垂れ舌】が、おとなしくあたりをうろついていたため、メラスがスパルタから立ち去ったわけではないらしい、ということは、分かっていたのだが――
「あれから、一晩中、そなたの姿を見なかった。何をしていた?」
「ああ……ええと」
メラスは、黒犬たちの頭を撫でながら、ぼんやりとした調子で答えた。
「あの人を、助けていました。……ほら、神殿に様子を見にいった人です。僕に、助けてほしいと頼みにきたんですよ。どうやら、僕が、神殿の怪異を鎮めた、という噂が広まって、それを聞きつけたみたいで。……ああ、いや、その人が、ではなくて、その人の母親が、ですが」
メラスはそこまで言ってから、タレイアの、何のことだ、という表情に気付いたらしく、
「ええと……分かりますか? ほら、いたでしょう? あの人ですよ。あの、一人で神殿の中の様子を見に行かされて、寝込んでしまった人」
「……ああ」
そういえばそんな者もいたな、と、タレイアはようやく思い出した。
偵察のために、王が命じて送り込んだ奴隷だ。
彼はおそらく、神殿の中で、首を失った死者たちと、その向こうから現れたパウサニアスの「顎」の姿を目の当たりにするはめになったのだろう。
口から泡を吹いてうわごとを言うばかりの、正気を失ったような有様になったと聞いていたが、恐怖に直面する訓練を受けていない者があのような光景を目にすれば、それも無理からぬことだ。
「その者は、治ったのか?」
「治った、というか……乱れて、はみ出しかけていた魂を、引き戻して、もういちど肉体に入れることには、とりあえず、成功しました」
常識の範疇を超えたことを、さらりと言って、メラスは、タレイアをまっすぐに見た。
「でも……その術をほどこす前に、僕は、母親に言ったんです。
『命を助けることは、おそらく、できます。ただし、魂が元のままの状態かどうかは、分かりません。目を覚ましたとき、息子さんは、あなたのことを完全に忘れているかもしれません。自分の名前も忘れて、別人のようになっているかもしれません。あなたが思っているような息子さんは、二度と、戻ってこないかもしれません』
……僕は、そう言ったんです。そうしたら……母親は『それでもいい』と言いました」
そう語るメラスの表情は、どこか硬く、ぎこちない。
「本当でしょうか。……本当に、それで、いいんでしょうか? 僕は、よくないと思いますよ。だって、悲しいでしょう、そんなの。……それとも」
メラスの表情は変わらなかったが、その両目に涙が盛り上がり、頬を流れ落ちた。
「大切な相手が、いなくなって、もう二度と、話せなくなっても……自分だけが、覚えていれば、それでいいんでしょうか? その人のことや、その人と過ごした日々のことを……」
そこまで言って、長い衣の袖で、激しく涙をぬぐった。
「だめだ。やっぱり、だめですよ……! 師匠は、必ずまた会える、と言いました。でも、本当でしょうか? ――僕には、分かりません。まだ、分かりません。だから、怖いんです。悲しいんです」
「悲しみは、喜びの証だ」
タレイアは、ぼそりと言った。
驚いたように目を見開いたメラスの両肩を、しっかりとつかみ、言った。
「別れを、悲しいと思うのは、この地上で共にあった喜びが、それだけ得難いものだったということだ。……そなたは、素晴らしい師をもった。そのことは消えぬ」
メラスは、しばらくのあいだ、何も言わなかった。
やがて、大きく肩をふるわせて鼻水をすすり、二度ほど、大きく息をついてから、かすかに笑った。
「ありがとう」
【垂れ耳】と【垂れ舌】が、メラスのまわりをぐるぐる回り、急かすように、鼻先で彼を突いた。
「では、僕は、そろそろ行きます」
「そうか。……帰るのか? アオルノスへ」
「ええ。師匠のお墓参りもしなくちゃいけませんし……ほら、【垂れ耳】、【垂れ舌】、行きますよ」
「待て」
さっさと踵を返したメラスの背中に、タレイアは、慌てて言った。
「スパルタは、まだ、そなたへの報酬を支払っていない」
「あ……ええ、それは、もう、大丈夫です」
「そうはいかん」
タレイアは、何かないかとあたりを見回し、アテナ神殿の飾りを何か取り外すか、いやそれはいかんな、と思案して、
「これを取れ」
愛用の二振りの短剣を、鞘ごと外し、メラスの手に押しつけた。
「道中、危難に出くわすこともあろう。【垂れ耳】と【垂れ舌】がいれば心配はないだろうが、備えは必要だ」
いや受け取れませんよ、とごちゃごちゃ言うのを、強引に握らせ、肩をつかんで後ろを向かせ、どんと背中を押す。
メラスは、何だか申し訳なさそうに何度も振り返りながら、それでも足は止めずに、広場からの道を下っていった。
【垂れ耳】と【垂れ舌】が、黒い衣のすそにじゃれついてはしゃぎながら、しきりに駆け回っている。
その光景を、タレイアは、道の真ん中に腕を組んでたたずみ、じっと見つめていた。
やがて、彼らの姿は、角の茂みのところを曲がって見えなくなった。
タレイアは、そのまま長いあいだ、彼らが曲がっていった茂みを眺めていたが、
「おい!」
飛ぶように駆け出して、彼らの後を追った。
ところどころで出くわした者たちを跳ね飛ばしそうになりながら、驚く彼らにはかまわず、黒犬と黒い衣の男を見なかったかと問い詰めて、獲物を追う狩人のように追跡する。
やがて、スパルタから出てゆく道のひとつ――
ごつごつした白っぽい岩と、とげとげした植物のあいだに細くのびてゆく長い一本道の、はるか向こうのほうに、彼らの姿を小さくみとめた。
「おーい!」
腹の底から叫ぶと、遥か遠くのほうで、驚いたようにメラスと犬たちが振り返るのが見えた。
「忘れていたッ! ――そなた、名は!?」
小枝で作った人形のように小さく見えるメラスが、ばたばたと手を振り回して、何事か、叫んだようだった。
「何だ!? 聞こえ――」
「王妃様ッ!」
とんでもない大声が耳に突き刺さり、タレイアは振り返った。
体格のわりには驚くほど軽い足音しか立てずに、しかしその意味がまったくないほどの大声を張り上げながら、駆けつけてきたのはアリストデモスだ。
「おお! 探しましたぞッ! ここにおられ」
「静かにしろ!」
聞こえないではないか、と怒鳴ろうとしたところで、タレイアは口をつぐみ、耳を澄ました。
アリストデモスに続いて、もうひとつの足音が、自分たちのほうへと近づいてくるのをききつけたのだ。
小石を蹴る音。落ちていた石を踏みつけて、危うく転びそうになる音。
戦士の足音ではない。
数呼吸の後、道を曲がって、想像どおりの頼りない足取りで姿をあらわしたのは、粗末な身なりをした、一人の若者だった。
「何だ? 貴様は」
「えっ……あっ」
慌てて逃げ出そうとする若者の腕を、アリストデモスがすかさずひっ捕らえる。
「お許しください!」
若者は、顔を真っ青にして叫んだ。
「あなたがたがいらっしゃるとは、気づかなかったのです。僕は、ただ、僕を助けてくださった人にお礼を……その人は、こっちのほうに行ったと……」
「……おお」
タレイアは、はなしてやれ、とアリストデモスに合図をして、つくづくと若者の顔を眺めた。
今は怯えの色が濃いが、その目つき、顔つきに、はっきりと意思の光が宿っている。
術は、完全に成功したのだ。
「見事だ、メラス」
呟いて、タレイアは、一本道の先に視線を戻した。
陽炎が揺らぎ始めた道の先には、もう、黒い服の死霊呪術師の姿も、彼の犬たちの姿もなかった。
「必ず、また会える」
タレイアは呟いた。
「いつか、ずっと先でな。……さて。いったい何事だ、アリストデモス殿?」
「王妃様!」
奴隷の若者を放り投げる勢いで脇へどけ、厳つい顔に、満面の笑みを浮かべて、アリストデモス。
「王が、無事に目覚められましたぞ!」
タレイアは、地面から飛びあがった。
大汗をかいたアリストデモスと、奴隷の若者とをその場において、王妃は、今、下ってきたばかりの道を、翼ある足のごとく駆けのぼっていった。
《了》
《主な参考文献》
・トゥキュディデス『歴史 1』藤縄謙三訳,京都大学学術出版会,2000
・パウサニアス『ギリシア案内記 2』周藤芳幸訳,京都大学学術出版会,2020
・藤村シシン『秘密の古代ギリシャ あるいは古代魔術史』KADOKAWA,2024




