第八十二話 酉はもたげる
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いきなり頬っぺたを引っ叩いたら、神さんはどんな顔を見せてくれるでしょうか。
もちろん、実際にはそんなことはできないし、するつもりもないんですけど。
神さんはきっと、怒ったりはしないのではないかなと思います。
呆然とするか、平然と抗議してくるか……もしくは涙を流すのか。
いけないと思いつつも、ついついそんな想像が頭を駆け巡ってしまいました。
でも、それも神さんにだって責任はあるんですよね。
こんなにも近くに居られると、この子の蠱惑的とも言えるような魅力に襲われるのです。
だって神さんはあまりにも無垢で、素直で、無防備が過ぎるから。
目の前にいる人間が人畜無害であると、一切疑っていないようにも見えるその立ち居振る舞い。
俗な人間とは触れ合うことなく、清廉さを栄養として与えられて育った子どものように無邪気な言動。
恐ろしいことに現実の神さんは、私がこれまでにしていたチャチな想像なんて足元にも及ばないほどに。
汚しがいがあるほど、まっしろな女の子のようでした。
「酉本さぁん……」
「はい」
本の貸出に来た生徒の対応を終えたすぐあとで。
背後にある図書準備室で、黙々と課題に取り組んでいた神さんから呼びかけられました。
「これなんだけど……」
「ちょっと待ってくださいね」
神さんから指で示された問題を確認すると……なるほど、確かにこれは少し捻った問題のようですね。
ゴールデンウィーク明けの実力テストでも似たような問題は出てきましたが、私も少し悩んだ覚えがありますし。
「この問題は……」
今まで同様に解説しながらヒントを出そうとしたところで、邪念が首を傾げて私の続く言葉を遮りました。
というのも……実は昨日より、形容し難い感情が私の心に着々と溜まっていくのを感じていたからです。
鬱憤ともいえますし、興奮ともいえるような、そんなもどかしい感情。
それもこれも、神さんが後ろの準備室で勉強に取り組むことになっている事情が原因だと思うんですが。
理由はわかりませんが、本の貸し借りに来られる方がみんな、神さんにお詫びの言葉を口にしていっているのです。
普通に考えて異常な状況ですが、私にとっては想定外のとてつもない収穫でもありました。
だって……怯えた様子の神さんが見られるのですから。
おそらく神さんにとっても、これは異常な状況なのでしょう。
他の子たちからの謝罪があるたびに、神さんは小さな悲鳴をあげて、顔を引き攣らせていました。
正直なところ、私としては一生続いてくれてもいいような状況です。
『怯え』という神さんの新たな一面は、私の中にある卑しい渇きをいくらか満たしてくれましたし。
とはいえ、流石にそんな状況に疲弊している神さんの様子を見続けていると、私も心が痛みまして。
それに……このように僅かでも取り乱した神さんの可愛い痴態をみなさんに晒し続けるのも、多少なりとも心が揺さぶられたので。
そんな事情から新たな勉強場所を用意して、神さんのストレスを緩和してあげたおかげもあり。
神さんは私に対して、幾分か甘えてくれるようになりました。
昨日初めて話したときのぎこちなさも薄れ、言葉使いも崩れて親しげに話しかけてくれています。
まるで母に甘えるような幼子のようで、それはもう大変に可愛らしいのですが……。
ここで私が突然に神さんを突き放すような態度を示したら、神さんは一体どんな表情を見せてくれるのでしょうか。
悪戯心と言って許容されるレベルかはわかりませんが、そんな邪念がふと芽生えてしまったせいで、私は言葉に詰まりました。
問題を読んだままで急に言葉を止めてしまった私を、神さんはどう思っているでしょうか。
きっと普通に、問題の答えを探しているように思っているでしょう。
その実、あなたの新たな一面を見たいがために、意地の悪い想いを抱えている私の醜悪さになど気づかずに……。
「……はぁ」
私は大袈裟に溜め息を一つこぼして、二の句を継ぐことなく、黙って指で教科書の参考になる部分をトントンと指し示しました。
そのまま神さんの顔も確認せず、ひとつの言葉を残すこともなく。
先ほどまで座っていた貸出カウンターに、神さんに背を向けるかたちで座り直しました。
大丈夫です。ちゃんと手鏡は用意しているので。
まるでスパイ映画のワンシーンみたいに、そっと手鏡で背後の神さんの様子を確認すると……。
あっ……やばい。
その光景を見た瞬間に全身に生まれた鳥肌が、異常とも思えるほどに身を襲った震えが、その素晴らしさを全て物語っていました。
寸前まで抱えていた『ちょっとやり過ぎたかな』という罪悪感と、神さんの表情による衝動的なまでの興奮が、複雑に混じり合って。
私は自らの理性がドロドロと溶けていくような錯覚を覚えました。
鏡に映った神さんは、親から見捨てられたように呆然とした表情を浮かべ。
ついでアワアワと焦りながらひどく戸惑いつつも、最終的には泣きそうな表情を浮かべながら、健気に問題を解こうと懸命になっていました。
その悲壮感といじらしさが、可哀想でいて、そしてなによりの健気さが。
あまりにも愛おしくて堪らないのです。
……これ以上はいけない。
これではまるで、というか完全にイジメの域です。
自分の煩悩を満足させるために。神さんに対する卑劣な欲求を満たすためだけに。
それだけのために、まったく非のない神さんを利用するようなマネ、絶対にしてはいけないとわかっているのに……。
「はぁ……」
私の口は謝罪と弁解の言葉を吐き出すことはなく、まるで当てつけのように、再び溜め息を零しました。
小さな手鏡の世界の中で。
私の溜め息を聞いた神さんは、ビクッと身体を大きく震わせて。
そして……唇を噛み締め、ポロポロとこぼれた涙を拭いながら、さきほどよりも必死に問題に向き合ってました。
これまでの人生で味わったことなど一度もない、未知の感覚が私の全身を襲いました。
ゾクゾクとした止まらない震え、背骨を走り抜ける尋常じゃない情動、火がついたように火照る身体。
私は異常でした。
異常なまでに、もう抗えないほどに……神さんの虜になってしまったのです。
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