その5
かって知ったる、実家の古木戸を開けて家の中に入る。何の抵抗もなく易々と開く玄関扉に、「姉さんは、もう」といつもと同じ愚痴が出た。
現在この家に住む姉には、何故か鍵をかける習慣がない。不用心なことこの上ないが、そのせいで今日もわたしは家人の許しを得ずとも、すんなり屋内へと入ることが出来た。
信じられないことに、何回忠告をしてもこの悪癖が治ることはなかったのだ。これだから心配になるって言うのに、どうも姉にはその辺りが通じないらしい。
しっかり者を気取る姉のサマンサは、わたしから言わせれば抜けてるところが多い人である。だから姉が妹の結婚を機に、一人暮らしをすると言い出した時、わたしと妹のヘレンは容認することが出来ず、それならばと酷く無体な条件を姉に課してしまったのだ。
その条件とは彼女が大っ嫌いだと公言していた天敵との同居だったから、サムは酷く憤慨してたけど、こっちだって背に腹は代えられなかったのである。
けれど、今となってはやっぱりあれでよかったのだと思う。
わたしの、わたし達の大事な姉を見事手に入れた男に対しては、言わせてもらいたいことが山程あるのだけれどね。
「あ、ディジー、よかった」
居間に入って行くと、妹のヘレンがおろおろとしているのが見えた。わたしを見てホッとしたような笑顔になる。
それにしても不気味なぐらい静まり返っているのが気味悪い。この家の中がこんなに静かだなんて、ちょっと信じられない。
「ヘレン、あんた、もう来ていたの?」
「うん、頼まれていた物がやっと出来たから。とにかく早く届けなくちゃと思って、朝一番で来たの」
「朝一番て、体調は大丈夫? 無理したんじゃないでしょうね。あんた、今は普通じゃないのよ。分かってるの? お腹に赤ちゃんがいるんだから」
現在ヘレンは妊娠三カ月。去年結婚したクルトとの間の、両家待望の赤ちゃんだ。
「そんなこと分かってるわよ。だけどつわりがきつくてしばらく動く気になれなかったから、作業が随分遅れてしまってたの。だから、夕べ急いで残りを済ませたのよ。もう一日だって待てなかったでしょ」
「もう、無理して! なんでわたしに言わなかったのよ? わたしが代わりにしてあげたのに」
わたしが呆れてヘレンを見下ろすと、椅子に座って机に頭を伏せた妹はだだをこねたように首を振った。
「そんなの嫌よ! これはわたしがしたかったことなんだもの。ディジーに頼るんじゃ意味ないわ。わたしから姉さんに渡したかったんだもの」
わたしは半ベソをかくヘレンの泣き顔に手を置いた。子供扱いしないでと、ヘレンは気まずげに顔を伏せて隠すけど、それを上からこねくり回してやった。
「あんたの気持ちは分かってるわよ。無理しても一人でやり遂げたかったのね? なんとか間に合ってよかったじゃない」
不満げにわたしの手を追い払うヘレンは、俯せた頭を上げることはなかった。小さかった頃のヘレンを思い出して、わたしは少しだけしんみりしてしまった。
いけない、ゆっくりしていたら時間がなくなるわ。わたしは急いで、照れたみたいに顔を隠すヘレンに詰め寄る。
「それじゃ、早速支度に取りかからなきゃね。わたしの方も準備は万端にしてきたのよ。それでえーと、肝心の姉さんはどこ?」
「それが……」
ヘレンが青い顔を上げた時、勢いよく玄関扉が開く音がした。
「パパァ、どうすんのよ!」
けたたましく入って来たのは、鼻の頭を真っ赤にさせて涙混じりに大声を上げる美少女、ニックの娘、リリィちゃんだった。
***
「なあんですって、それじゃ姉さんは怒って家を飛び出してったの?」
わたしは今まさに聞かされた話に目眩を感じていた。
肝心要の人間が家にいないってどういうことだろう。こっちは何のために来たと思ってるのよ、こんな朝早くから。
わたしの前には艶やかな金髪を振り乱して、すぐ側にうなだれて立つ男に険しい視線を向けるリリィちゃんがいる。男は言わずとしれた隣家の憎たらしい幼なじみ、ニックだ。現在は信じられないことに、姉のサマンサの婚約者である。と、言うか……。
「ええ、そうなの、ディジーお姉ちゃん。パパがまたサムお姉ちゃんを怒らせてしまって、今も必死でお姉ちゃんの行方を探して来たんだけど、どこにもいなかったのよ」
「怒らせてって、いつものことだろ。大袈裟だな、リリィは。ほっといてもケロッと帰ってくるさ、なんてったって今日は……」
愛想笑いを浮かべる男にリリィちゃんは噛みついた。
「パパの馬鹿っ! 女心をちっとも分かってない、最低人間!」
私も一緒になってニックの奴をこき下ろしてやりたいけど、そうもしてられない。ここは冷静になってサムの行方を探すのが先だわ。
「と、とにかく姉さんを皆で手分けして探そうよ、リリィちゃん。パパに文句を言うのはそれからでも遅くないって」
「うん……」
リリィちゃんが不満げに頷く。
「そうだよね……」
「そうそう、そうだよ。だから、ええと、リリィちゃんはヘレンと一緒にこの辺りをもう一度お願いね。ニックはわたしと遠くまで足を伸ばすわよ、ほら」
「分かったわ、ディジーお姉ちゃん。ヘレンお姉ちゃん、行こう」
「うん。ディジー、じゃあね」
じろりと父親を睨みつけてリリィちゃんがヘレンと家を出て行ったあと、わたしは嫌がるニックを引っ張って外へ飛び出した。
急がなきゃ。せっかくの今日と言う日が台無しになっちゃう。
「何を言ったのよ?」
仏頂面で後ろをついてくる男に問い詰める。
本当にムカつく。不用意に口喧嘩なんかしてさ。この男の口の悪さは、何ともならないってことなのかしら。
「あぁーー、何だ?」
「だから、姉さんに何を言ったのかって聞いてんの」
ニックは目を丸くしてわたしを見返したあと、ぷいっと顔を逸らした。
「言えるかよ」
「はあ?」
「お前なんかに言えるかってえの」
何ですってぇ? この言い種、信じられない。
「よくもまあ、そんな態度がとれるわね。こんだけ人に迷惑かけてさあーー」
相変わらずの自分勝手野郎を怒鳴りつけてやろうと身構えてたら、すぐ後ろで声をかけられた。
「ディジー、ニック!」
声をかけてきたのはマチルダさんとジンさんだった。ニックとは似ても似つかぬ、奴のお姉さん夫婦だ。
「聞いたわ、サムがいなくなったんだって?」
「はあ……」
誰に聞いたんだろ、ヘレンとリリィちゃんかな?
「原因はうちの愚弟ね」
マチルダさんがぎろりとニックを睨みつけて、奴の頭にげんこつを落とした。
「いてっ、何すんだよ」
「うるさい! あんたって子は何してんの、こんな大事な日に」
マチルダさんの怒りが当然ながらニックに向かう。
「たいしたことじゃないって」
それをうるさそうに交わすニックだが、その態度が更なる怒りを買っていた。
「たいしたことじゃなかったら、サムがいなくなる筈ないでしょう」
「仕方ないだろ。あいつはすぐにキレて家を飛び出すんだよ。いつものことだから心配しなくても、そのうち戻って来るんだって。なのにこいつらが泡くって大袈裟に騒ぎ立てるから」
「まあ、まあまあまあまあ呆れたわ、何て子かしら。あんたにデリカシーてもんが少しもないから、彼女が怒って出て行くんでしょーが!」
ニックに馬乗りになって手を出しかねないマチルダさんを、さすがにジンさんが羽交い締めにして取り押さえた。
普段は温和で物静かなジンさんの素早い反応に、わたしも驚いてついていけない。てか、アグレッシブだわ、この夫婦何かと。
「わ、悪い……。ニック、ディジー。お、俺たちも……彼女を探すのを今から手伝うよ」
夫の裏切りに、マチルダさんが激しく暴れている。
「は、離してよ、ジンたら。わたしはこの馬鹿弟に言ってやらなきゃならないんだから」
「うん、分かった。分かったからマチルダ、今はサムを探すのが先決だろ?」
ジンさんに引き摺られるように、マチルダさんはずるずるとあえなく連れて行かれた。
「ディジー、サムを見つけたら帰るよう言っておくから」
喚くマチルダさんを抱え上げ、ジンさんは隣の洋裁店の陰に見えなくなった。
すごい、ジンさんて、マチルダさんの尻に敷かれてるだけじゃなかったんだね……。我が家の旦那に教えてあげようかしら。
「義兄さんも大変だな」
他人事のようにニックが呟く。いったい誰のせいだと思ってるんだか。
「とにかく、姉さんを見つけなきゃ、急ぎましょう」
再び歩き出したわたし達の前に影が差す。
ちょっと今度は誰? そんなにわたし達ってば大声出して目立ってたのかしら。
目の前に近寄って来たのはダリアさんだった。
三軒隣に住むおしゃべりな老婦人。ヤ、ヤバい人に見つかっちゃったんじゃないの? 全く、もう!
「ーーねえ、何かあったのかい? ディジーちゃん、ニックちゃん」
「だ、駄目ですよ。いいからこっちへ、ダリアさんーー」
好奇心でキラキラと目を輝かすご老人と、彼女を止めようとあとを追いかけて来る男性。男性は金物職人のジェイコブさんだった。
ジェイコブさんの慌てた様子を認めたニックの顔が、不穏に険しくなっていく。
はあ? 急にどうしたんだろう、こいつってば。
しかし、困ったことに奴の変化に気づいたのはわたしだけじゃなかったのだ。
「あら、やだニックちゃん、男前が台無しだよ」
ダリアさんがニヤニヤと笑って、ニックをからかう。
「ダリアさ……ん!」
それを泣きそうな顔で引き止めるジェイコブさんと、ますます眉間にシワを寄せていくニック。
ちょっと……、
ちょっと何なワケよ、あんたのその怖い顔は?
サムの突然の家出の理由も行方も、全然突き止めていないってのに、この嫌〜な空気。
わたしは忍び寄る不吉な予感に、吐き気を覚えるほどパニックを起こしていた。
次話で最終回の予定です。




