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【神の顎〈デヴメント〉-1】後悔するのなら

「え、誰……」


 目以外を黒い布で覆った男は、何も答えなかった。

 代わりに、一歩足を進めた。


 後退りした踵が、ごつごつとした岩肌に引っかかった。

 ぐらりと身体がゆれ、なすすべもなく尻餅をつく。鈍い痛みが全身に広がって、は、と小さな息の音が漏れた。


 男が布を掻き分けて、何か笛のようなものを吹いた。

 ぴゅう、と高い音が洞窟の中に響き渡った瞬間、男の後ろから、ぞろぞろと同じような格好をした男が現れた。

 その数、少なく見積もっても10人以上。


「わたしに、何かご用ですか」


 ティーナは震える声を抑えつけて聞いた。

 ティーナが何者であるかわかれば、彼らも手を引くかもしれない。何者であるか知っているのなら、話し合いの余地はあるかもしれない。しかし彼らに、会話をする意思はないようだった。


「あ、の……っ――」


 先頭の男が走り出した。手に持っていた明かりで、きらりとナイフの先が光った。

 その先端が、過たずティーナの心臓を貫こうとした、その時。


 ち、と弾けるような金属音が響いた。


 壁に突き刺さった槍が、衝撃にふるふると震えている。

 先ほどまでティーナを狙っていたはずのナイフは、勢いを削がれ、岩肌に叩きつけられて、がちゃん、と音を立てた。


 同時に苦悶の呻き声がして、びしゃびしゃと水音が響く。


 前に立った大きな背中を、ティーナは信じられないような気持ちで見上げた。


「立て」


 震える足を叱咤して、立ち上がった。すぐに、イェルドの手がティーナの腰を掴んだ。

 壁から槍を引き抜いたイェルドは、まるで荷物のように小脇にティーナを抱えると、洞窟の奥に向かって走り出す。


 追ってくる足音が、狭い洞窟内でぐわんぐわんと反響していた。まるで吹雪のように、四方八方からティーナたちに降り注いでくる。


「どうして、なんで」

「お兄様に怒られそうだな」


 イェルドが左手を振った。

 その手から飛び出した小型のナイフが後ろへと飛んでいき、ぐう、という唸り声が響く。


「――レディはもっと壊れものに触れるように」


 イェルドが足を止めた。

 

 そこは行き止まりだった。

 神の顎(デヴメント)は、驚くほどあっさりと、その深奥を晒した。

 イェルドが舌打ちをして、あたりを見渡した。


 人一人入れるくらいの小さな穴が岩肌に開いているのを見つけたイェルドは、そこへティーナを押し込む。

 イェルドの外套が、上から、ばさりとかけられた。


「待ってろ」


 真っ暗な中で、イェルドの匂いに包まれながら、低い声を聞いた。子供を宥めるような、優しい声だった。

 その奥に、壮絶なまでの覚悟を感じ取った。


 すぐに、いくつかの怒号が飛び交った。

 悪態をつく声、液体が飛び散る音、金属同士がぶつかり合う音が延々と響く。


 どれほどの時間が経っただろうか。


 突然、どさ、と強い衝撃が伝わってきた。

 一枚の布越しに、イェルドの呻き声を聞いた。


「イェルド様!?」

「馬鹿。うるさい」


 そう言ってはいるけれど、その声は掠れていた。

 その証拠に、イェルドはティーナに寄りかかる体勢のまま動こうとしない。


 指先に生暖かいものが触れた。咄嗟に指を持ち上げるけれど、この暗闇の中では何も見えない。

 しかし、鮮烈な鉄の匂いだけが、鼻腔を駆け抜けた。


 ――違う。寄りかかっているのではない。

 守っているのだ。自らの身体を、最後の砦として。


 相手は10人以上。対するはイェルド一人、そしてティーナを守りながら。

 いくらイェルドが強いと言っても、結末は最初から見えていた。


 見えていて、イェルドはティーナを助けにきてくれた。


「イェルド様!」


 掠れた声が返ってきた。それはもう、言葉になっていなかった。

 食いしばった歯の間から漏れたような、掠れた苦悶の声が空気を震わせた。それが少しずつ形になって、小さな言葉を紡ぐ。


「ティーナ」


 優しくて甘い、囁き声だった。

 たった一言でティーナを圧倒するような、大きな感情の滲んだ言葉だった。


「泣くな、ほら」


 どこか誇らしげに、イェルドは言った。


「後悔しないように生きてやるって、言ったろ」


 イェルドが咳き込んだ。喘ぐような息の音に、水音が混じった。

 もう長くはない、と。その息の音だけでわかってしまうくらいには、苦しげで、人の出す音とは思えなくて。


「なあティーナ、」


 その先にイェルドが紡ごうとしている言葉がわかった。

 きっとイェルドは、それを自分の最期の言葉としようとしているのだと、直感で思った。


「聞きたくないです」


 好きだ、と言い残して。

 一人だけ先に逝くなんて身勝手、ティーナが許さない。


 静かに、心が定まったのを感じた。


 イェルドの身体を、全力で押し返した。

 まさかティーナの側から押されるとは思っていなかったのだろう、想像より簡単に、イェルドの身体が動いた。

 開いた隙間から、右腕だけを突き出した。その瞬間、指先に焼け付くような痛みが走る。自らの手首を伝う生温かいものを感じながら、ティーナは歯を食いしばった。


 反対の手で、布越しにイェルドの身体を抱きしめて、目を閉じる。


 わかっている。

 この選択は間違っている、けれど。


 ――どっちにしろ後悔するんなら、やりたいように生きてやる。


 ここでイェルドを見捨てたら、ティーナは絶対、後悔する。


 身体の中を回っている魔力を、一気に指先から迸らせた。

 目を開けていられないような強い閃光が、あたりを焼き尽くした。


 指先から、堰を切ったように魔力が溢れ出ていく。

 ティーナの18年間が。この国の未来が。


「……ごめんなさい」


 でも。もう、迷わない。

 

 心臓を中心に、身体中の力という力が指先から流れ出る。それは自らの命そのものを放出している感覚に近くて、本能的な恐怖がぎゅっと心臓を掴んだ。冷や汗が背筋を滑っていくのを感じる。

 ぐらり、と崩れ落ちそうになったイェルドの身体に、片手でしがみついた。布越しにイェルドの鼓動を感じた。ティーナ、と名前を呼ぶ声を思い出した。


「イェルド様」


 口の中でその名前を呼び返して、ティーナの意識は途切れた。



 ❆’゜:*。



「ティーナ」


 低くて温かい声がした。

 それに引かれるように、目を開けた。


 その瞬間、視界いっぱいにイェルドの顔が飛び込んでくる。

 一気に流れ込んできた記憶に、ティーナは飛び起きた。


「急に動くな。俺は魔術のことはわからんが、休んでいた方が――」


 その声はあまり聞こえていなかった。

 洞窟中が凍りついていた。イェルドが片手に握っている明かりを反射して、複雑な光がちらちらと壁に模様を描いている。

 天井からは、幾本もの大きな氷柱が垂れ下がっていた。

 時折大きな塊が地面から突き出しているのは、きっと――。


 ティーナの視線に気がついたイェルドは、静かに言った。


「酷なことをさせた。悪い」


 ティーナは首を振った。言葉が出ない代わりに、イェルドの手を握りしめる。

 その大きな手に触れた瞬間、一気に身体が震え出した。堪えきれない嗚咽が漏れた。


 遠慮がちに、背中が叩かれる。ねだるように手に力を込めれば、強く身体が引き寄せられた。

 すっぽりとイェルドの腕の中に収まって、その胸に頭をつけていれば、イェルドの確かな鼓動の音が聞こえた。規則正しいその音を聞いているうちに、少しずつ涙は収まっていく。


 それと同時に、逃げられない現実が、冷たく心を満たした。


 ティーナは、巨人の生贄(マーグ・サリゥム)としての資格を失った。


「ティーナ……?」


 イェルドが問いかけるように名前を呼んだ。

 ティーナは呼吸を整えると、イェルドの顔を見上げる。


「どうして、来てくれたんですか」


 イェルドは、やや気まずそうな顔をした。


「ほんとは、追いかける気はなかった」

「わかっています」

「前に襲われたとき、嫌な気配がするって言っただろ」


 覚えてるか、と問いかけられて、頷いた。

 イェルドが怪我をしたときだ。そのときティーナは、その気配は王宮が監視のためにつけた人間なのだと思っていた。


「撃退した後も、ずっと似たような嫌な気配を感じてた」

「……そうですね」


 監視がティーナから目を離さないのは当然だ。


「ティーナと別れた後、その気配が消えたことに気づいた。で、奴らがやっぱりティーナを追ってたんだって気づいた瞬間、なんというか」


 居ても立ってもいられなくなってな、とイェルドが言った。


「悪い。私情は持ち込まねえと言ったのに」

「いえ。それで助けていただいたんですから」

「俺はティーナに守られた側だ」


 ティーナは驚いて、イェルドを見上げた。

 確かに結果だけ見ればそうなのかもしれないけれど、それはきっと、違う。


「イェルド様は、私の心を守ってくださったんです」

「……どういうことだ?」


 ティーナは息をついた。

 こうなった今、もう隠し続けるのは無理だ。


「聞いてくださいますか? 私の、目的のこと」


 イェルドは静かに頷いた。

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