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40.可愛らしいものは

 それに気づいたのは、デジレの部屋の窓にはたきをかけている時のことだった


「……あら、何かしら」


 屋敷の裏手、少し離れたところには明るい林が広がっている。そこで、何かが動いたような気がしたのだ。両手に収まるくらいの、小さな何かだ。


 思わず手を止めて、目を凝らす。やがてその何かは林を離れ、屋敷に近づいてきた。


 やってきたのは、小さな毛玉のようなものだった。わずかに茶色を帯びた灰色の毛皮、ぴんと立った小さな耳、ふさふさした大きな尻尾。ちょろちょろと動き回っていて、とても可愛い。


「まあ、リスね……それも二匹。初めて見たわ」


 その可愛らしさに、ほうと息を吐く。窓ガラスに触れないように気をつけながら、そっと窓に顔を寄せた。


 子供の頃に絵本でリスを見て、それからずっと憧れていた。生まれ育ったアンシアの屋敷は、貴族たちが住む区画の中でも端の方の、平民たちが住む区画に近い辺りにある。


 その辺には森なんてないし、いつも人の気配がしているので野の獣が入り込むことはまずない。たまにネズミを見かけたけれど、あれを可愛いとはとても言えない。ぱっと見は似ていなくもないかもしれないけれど、あの大きくてふさふさの尻尾があるのとないのとでは大違いだ。


 そんなことを考えている間も、さらにリスたちはこちらに近づいてきていた。黒くて丸い、つやつやの目が見て取れるくらいに。うっとりと息を吐いて、そっとリスに呼びかける。


「本当に可愛い……もっとこちらに来てくれないかしら。ほら、こっちよ」


 とたん、耳元で柔らかな声がした。上等のベルベットで頬をなでられているような、つややかで優しい、それでいてぞくぞくするような声だ。


「どうしたフローリア? ずいぶんと悩ましげな声で、いったい誰を呼んでいるのだ? 妬けてしまうな」


 そう言って、デジレが笑う。彼が私をからかっているのが明らかな口調だったので、こちらも笑って振り返る。


「あそこにリスがいるんです。私は王都で育ったので、リスを実際に見るのは初めてで……もっと近くで見たいなって、そう思っていたんです。とっても可愛らしいですし」


 下の草地を手で示しながらそう言うと、デジレはなるほどといった顔でうなずいた。それから私のすぐ隣に立ち、しなやかな指で一本の木を指し示す。


「屋敷の裏、あの角のところに生えているあの木が見えるか? あれはクルミの木なのだ。誰も手入れしていないのだが、それでいて秋になるとたわわに実をつける。それもあって、あの辺りには自然にリスが集まってくるのだ」


 デジレは私の肩を抱いて、一緒になって窓の外をのぞき込む。彼の髪が頬にかかってくすぐったい。そっと見上げると、彼は無邪気な子供のような顔で、とても優しくクルミの木を眺めていた。


「リスだけではないぞ。この屋敷の周囲には他に建物がないからか、近くの森から時折動物がやってくるのだ。屋敷の裏側には使用人もあまり近づかないから、獣たちも気軽にやってくるらしい」


「どういった種類のものがやってくるのですか?」


 興味を覚えてそう尋ねる。彼は笑みをひときわ深くして、一つ一つ数え上げていった。


「リスの他に、ウサギや鹿などもよく見かけるな。狐もたまにいるぞ。私も父上も狩りはたしなまないのでな、獣たちものびのびしているようだ。この窓は、彼らをおどかすことなくその姿を眺められる特等席なのだ」


 今まで絵本でしか見たことのない獣たちの名前が次々と飛び出してきて、思わず目を輝かせてしまう。しかしその時、ふとあることに気がついた。


「その……でしたらもしかして、熊なども出たりするのでしょうか……」


 これまた絵本で見た獣たちの恐ろしい姿を思い出して、声が小さくなる。それがおかしかったのか、デジレはくすくすと笑った。


「そういった剣呑な獣は出ない。少なくとも、私は一度も聞いたことはないな。それに、定期的に狩人に見回りを頼んでいる。ふふ、やはりああいった獣は恐ろしいか?」


「はい。私は馬や犬、あとは猫とネズミくらいしか見たことがありませんから……馬はとても優しくて賢い目をしているので怖くはないのですが、熊は想像しただけで怖くって」


「大丈夫だ。もし熊が出ても、私が君を守ると約束しよう。……今度こそは、私が君を守り抜いてみせる。たとえ、この身に代えても」


 そう言って、デジレはさらにしっかりと私の肩を抱く。彼はきっと、レナータにまつわる一連の事件のことを思い出しているのだろう。あの中で、私たちはとても恐ろしい思いをしたし、幾度となく危険な目にあった。おそらく彼は、今でもそのことが引っかかっているのだと思う。


 でも私は、彼にただ守られて一人だけ安全なところにいるのは嫌だ。私だって、デジレを守りたい。


 私は聖女だった。でもそれだけだ。私に、大切な人たちを守れるような特別な力なんて、ない。


「もし本当に熊が出たら、私の手を引いて一緒に逃げてください。私一人では、恐ろしさに足がすくんでしまいますから」


 だから、こう答えた。何があろうと、一緒に立ち向かいましょう。そうして二人一緒に、無事に逃げ延びましょう、と。


 あの恐ろしい事件の中で、それでも私が立っていられたのは、前を向いていられたのは、いつもデジレがすぐ隣で支えてくれていたからだ。そんなたくさんの思いを声に乗せて、そっと吐き出す。


「……ああ、任せてくれ」


 ほんの少し間があって、頭の上から優しい声が降ってくる。どことなく泣きそうな、そんな声のようにも聞こえた。


 心配になってそちらを見上げると、綺麗な赤い目がじっと私を見つめていた。


「君の言う通りだ。身に代えてもなどと、そんなことを言うべきではなかったな。私に何かあったら、もう君を守れなくなってしまうからな。……二人一緒に、生き延びよう。何があっても」


 そのままじっと、二人見つめ合う。甘やかな、静かな空気にひたりながら、ただ彼の赤い目を見ていた。


 やがてデジレは小さく息を吐いて、普段のいたずらっぽい笑みを見せる。さっきまでの甘い空気が、余韻を残して消えていった。


「湿っぽくしてしまったわびに、いいものを見せてやろう」


 彼は唐突にそう言って、私のそばを離れた。机の引き出しから何かを取り出して、すぐに戻ってくる。


「……ほら、こちらだ」


 そうしてデジレは窓を開け、手にした何かを下に向かって差し出した。それがクルミだと気づいた時にはもう、リスが二匹彼の手に乗っていた。外壁の装飾をよじ登ってきたのだ。


「これなら、間近で見られるだろう?」


 リスたちが乗ったままの手をこちらに差し出して、彼は微笑んだ。小さなリスたちはまったく動じることなく、のんびりとクルミをかじっている。


「とっても慣れているんですね。本当に可愛い……」


 小さなリスたちを驚かさないようにそっとかがむ私の目の前で、デジレはリスたちにもう一つずつクルミをやっている。


「彼らは私にとっては友のようなものだからな。動物たちを呼んでみようと、私が初めてそう思ったのが十年ほど前だから、もう長い付き合いになるか。彼らは最初に出会ったリスの孫か、ひ孫か……」


 デジレはそんなことを言いながら、手の上のリスたちに優しい視線を向けている。親しい友に向けるような、小さな子供に向けるような、そんな視線だ。


 彼は子供の頃からやたらと人を惹きつけた。それはもう、恐ろしいほどに。だから彼は、まともに友人を作ることすらできなかったのだ。マーサやジョゼフといった一握りの人間に守られ、ひたすら屋敷に閉じこもる日々。それはどれほど窮屈で、寂しいものだっただろう。


 そんな彼にとって、リスたちは心を慰めてくれる友だったのだ。そう確信できるくらいに、彼の目は穏やかだった。


「デジレ様の、お友達……」


 そうつぶやいて、リスたちに向き直る。それから小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます。こうやってこの屋敷に、遊びに来てくれて。デジレ様を一人にしないでいてくれて」


 顔を上げると、きょとんとした顔のデジレと目が合った。二匹のリスが彼の両肩に移動し、同じ角度で小首をかしげている。


「リスに真面目に礼を言う人間は、初めて見たな。もっとも、私もリスを友と言ったのだから、似たようなものか」


 彼に笑いかけて、それからリスたちをもう一度見る。丸くて黒い目が四つ、私を興味深そうに見つめていた。


「自分でもちょっと、おかしいことをしているなとは思います。でもこれが、私の偽りない思いなんです。この子たちがあなたのそばにいてくれてよかったって」


 そこまで言ったところで、いきなり目の前が暗くなった。ふわりと私を包むこの香りは。


「リスはとても愛らしい。だが一番可愛らしいものは、やはり君だ。彼らは素敵な友で、君は大切な伴侶……私は、幸せだな」


 感極まった声で、デジレが言う。彼はしっかりと私を抱きしめて、嬉しそうに頬ずりしていたのだ。


「……私も、幸せです。あなたが喜んでいるのを見ると、自分のことのように嬉しいです」


 そう答えて、彼の胸に寄り掛かる。リスの尻尾が頭に当たる感触にくすりと笑いながら、そっとデジレを抱きしめ返した。


 こんな風に穏やかに幸せに過ごしていると、ちょっぴり罪悪感を覚えなくもない。あの事件を経て、レナータは遠くへ、とても遠くへ行ってしまった。


 それだけのことを彼女はした。けれど彼女がそんな行いに手を染めたのは、決して彼女一人の責任ではないと思うのだ。そしてその責任は、私にもある。


 ふわふわと甘く浮き立った気持ちが、ゆっくりとしぼんでいく。それに気づいたかのように、デジレがさらにしっかりと私を抱きしめた。


「喜びも、苦しみも、私たちは共に分かち合っていく。そうだろう?」


 ひときわ優しい声に、こくんとうなずく。じわりと伝わる体温と控えめな花の香りを感じながら、ただじっと寄り添っていた。

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