39.(同じ空の下)
「どうか、あの子が今日という日を無事に過ごせますように」
そんな祈りの言葉が、小さな食卓に響く。朝食の席でこうやって祈るのが、アンシア家の三人の習慣となっていた。
「……あなた、ローレンス。あの子が……レナータがどうしているか、その後連絡は……ないのかしら」
アンシア男爵夫人が、悲しげに眉を寄せて尋ねる。隣に座るアンシア男爵も、向かいに座るローレンスも、悲しげに首を横に振るだけだった。
「もうそろそろ、マルク様から次の手紙が届く頃だと、そう聞いています。届き次第ミハイル様が連絡をくださるとのことですので、どうかあと少し待っていてください」
ローレンスがはきはきと答えると、夫人はさらに寂しそうにため息をついた。
「……本当に、変わってしまったわ」
そう言って、彼女は食卓を見渡す。そこには、空席が二つ。
「フローリアは思いもかけないところに嫁ぐことになった。それ自体は喜ばしいことなのに……まだ、実感がわかないの。けれど、とても寂しいの。あの子の前で、こんな弱音は吐けないけれど」
「私もだ。公爵家の当主が、義理の息子になるなどと……去年の私が聞いたら、正気を疑っていただろうな」
困ったような感慨深いような声音で、男爵はそうつぶやく。夫人はローレンスを見て、さらに続けた。
「ローレンスも、最近ではミハイル王子と親しくしているのでしょう? いずれ、王子の補佐を務めることになるかもしれないって、そんな噂を聞いたのよ」
「それはあくまでも噂ですよ、母様。……先のことまでは、分かりませんが」
ローレンスが冷静に、しかしどことなく意味ありげに言葉を返す。
「そうしてレナータは、いなくなってしまった。生きてさえいれば、またいつか会えるかもしれない。そう思っていても……悲しくてたまらない」
夫人は両手で顔を押さえ、肩を震わせている。男爵はそんな夫人をそっと抱きしめ、ローレンスも彼女の肩に手を置いている。
「私はお前のそばにいる。ローレンスもだ。私たちは、どこにもいかない」
「母様が望むなら、いつでもフローリアのところに遊びにいけますよ。何なら、またフローリアに来てもらってもいい。……たぶん次は、もれなくデジレ様がついてこられると思いますが」
「……あの方を我が家でもてなす、か。考えただけで恐ろしいな」
「たぶん大丈夫ですよ、父様。あの方はとても気さくですし、粗末であろうと、心がこもっていれば喜んでいただけるはずですから」
「ううむ……お前のその言葉を信じて、覚悟を決めておくしかないだろうな」
男爵とローレンスが、そんな会話をかわしながら苦笑する。つられるようにして、夫人もぎこちないながら薄く笑みを浮かべた。
そんな彼女を励ますように、ローレンスが優しく笑う。フローリアを思い起こさせるような、そんな笑顔だった。
「レナータも大丈夫ですよ、母様。マルク様があの子についておられます。あの子は一人ではないのですから。……それにあの子も、僕たちと同じ空の下にいるのです。少しばかり遠いだけで」
「そう……そうよね」
夫人は顔を上げ、視線を動かす。窓枠に切り取られた外の風景、周囲の建物の屋根の上に、高く澄んだ青空が少しだけ見えていた。
「あの子も今頃、この空を見ているのかしらね……」
「きっとそうですよ、母様」
「私たちのこと、少しくらいは思い出してくれているかしら……」
「そう信じよう」
アンシア家の三人は、そうして寄り添って窓を見つめていた。天窓から差し込む光が、三人を優しく照らし出していた。
◇
「ずいぶんと冷えるな。こちらの冬は早いと聞いていたが、予想以上だ」
辺境にぽつんと建つ屋敷で、マルクは一人つぶやいていた。
アンシアの屋敷よりもずっとみすぼらしいその屋敷は、厳しい冬に備えて壁が分厚く、窓は小さかった。そのせいで、屋敷の中は昼もなお薄暗く、寒々しかった。
窓の外には、貧相な草がまばらに生えているだけの荒れ地が広がっている。その向こうに見えている山は高く鋭く、人の立ち入りを拒むようにそびえていた。
見ているだけでも気が滅入るような、陰気な光景だった。
マルクは窓辺に立ち、真剣な目で外を見つめている。
彼がまとっているのは王子にふさわしい礼装ではなく、飾り気のかけらもないくすんだ分厚い服だった。無骨な革の上着に、下からのぞいているのはごわごわとした毛織物。
しかしその薄くそばかすが散った顔はきりりと引き締まり、十四という年齢に不釣り合いなほど大人びた、思慮深い表情を浮かべていた。
「今日はまた、測量に出るか……雪が降る前に、周囲の地図を完成させておきたいからな」
マルクはこの辺境に来てから毎日、配下を連れて荒野を歩き回っていた。この辺境を開拓し、人の住める地とする。それが彼に課せられた任務であり、償いだった。
「まずは地図を作り、多少なりとも生活に適した地を探し……それから、作物についてもどうにかせねばな。王都から持ってきた苗は、ここではろくに育たない。まったく、せねばならんことが多すぎる」
ぼやいているような言葉ではあったが、その声は楽しげですらあった。彼は大股に廊下を歩き、一番奥の一室に向かう。
「……ここに来たことを、後悔してはいない。俺はそれだけのことをしてしまったのだからな。だが、レナータのことは……」
そうして廊下の突き当たりにある扉の前で、マルクは立ち止まった。小さく息を吐いて、意を決したように扉を叩く。
「レナータ、朝だ。朝食はどうする。下まで出てくるか」
しかし、返事はない。もうしばらく待って、マルクは扉の向こうに呼びかけた。
「……それでは、いつものように運ばせる。何かあったら、いつでも呼んでくれ」
レナータはこの辺境に送られてから、ずっとこの部屋に閉じこもっていた。
かろうじて侍女は中に入れるものの、マルクのことはかたくなに拒んでいた。こうやってマルクは毎日扉越しに話しかけているものの、一度も返事はない。
「侍女によれば、ひとまず健康ではあるようだが……」
扉の前を去りながら、マルクは小声でつぶやく。さっきまでの朗らかな様子とは打って変わって、苦しそうに奥歯を噛みしめて。
「いつか、彼女が変わる日も来るのだろうか……」
神託に、大人たちの思惑に振り回されて。あげく、その小さな手を罪に染めて。もちろん、彼女とて小さな子供ではないのだから、自分の行いの責任を取らなくてはならない。
しかしそれでも、マルクはレナータに同情のようなものを寄せていた。もっとも、それをレナータが知ればきっと怒り狂うだろうから、彼はその思いをひた隠しにしていたが。
「信じよう。そして、今俺にできることをこなしていこう。そうすれば、いつか……」
彼の視線の先には、小さな窓。その向こうには、にぶくて淡い青空が見えていた。
ちょうどその頃、屋敷の一室のカーテンが細く開かれていた。その隙間から、ぎらぎらと輝く暗い紫の目がのぞいている。
「朝……」
長く話していなかったかのように乾いてひび割れた少女の声が、ただそれだけをつぶやいていた。




