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37.初々しい恋人たち

本編20話頃のお話です。

「フローリア、どこに行くのだ」


「下の台所まで、お湯を沸かしにいこうかと。そろそろ、お茶の時間ですので」


「ならば私も行こう」


 私が何者かに誘拐され、助け出されてから数日。デジレはずっとこんな調子だった。


 誘拐犯たちはいまだに捕まっておらず、それどころかしっぽすらつかめていない。その事実が、デジレをぴりぴりさせているようだった。


「君をさらったのは兵士かもしれない。そして、兵士が独断でそんなことをするとは考えにくい。ならば、その背後に何者かがいると考えるのが自然だろう。まだこれからも、何かを仕掛けてこないとも限らない」


 そう言って、彼は朝から晩まで私に張り付くようになった。そうして、常に周囲に目を光らせていたのだ。


 しかし、そもそも離宮にはほとんど人がいない。表と裏の門を守る兵士たちと、食事などを運んでくる使用人くらいのものだ。それなのに、彼は少しも警戒を緩めることはなかった。


 一方の私は、まださらわれた時の恐怖から完全に立ち直ってはいなかった。だから側仕えとしての仕事に集中することで、少しでも気を紛らわせようとしていた。


 ただ、そううまく事は運ばなかった。


「フローリア、何か手伝えることはないか?」


「火傷をしてはいけませんから、離れて待っていてください」


 台所で作業していると、すぐ後ろからデジレがのぞき込んでくる。私を守ろうとしてくれている、その気持ちはとても嬉しい。しかしちょっとだけ、やりづらい。


 あの夜、デジレは私を探しに来てくれた。その時の彼の言葉の数々が、ずっと頭の中でぐるぐる回っているのだ。


 恥ずかしくて嬉しくて、とびっきりくすぐったい。こんな感覚は初めてで、どうしていいか分からない。


 だから私は、つとめて何事もないふりをした。実のところ今も、背後のデジレの気配に、胸が高鳴ってしまっているのだけれど。


 ふとちらりとそちらを見ると、彼は目を輝かせながら私の手元をのぞきこんでいた。


「……何か、気になることでもあるのですか?」


「君が働いているところを見ているのも、楽しいものだと思ってな」


 デジレは子供のように無邪気な笑みで、そんなことを言っている。やっとのことで落ち着きを取り戻しつつあった心臓が、また元気良く跳ね回り始めた。


 彼を意識しないように、一生懸命に作業に集中する。どうにかこうにかお茶の用意を整えて、お盆を手に二階の居間に戻ろうとした時、デジレが私を呼び止めた。


「今日は天気もいい。庭で茶にしないか」


「そうですね、過ごしやすい陽気ですし。では、どちらのテーブルにしましょうか。いつものところに……」


 この離宮の庭は広く、自然の森を模した大小の植え込みによって細かく区切られている。そしてそのあちこちに、長椅子やテーブルが置かれているのだ。


 デジレのお気に入りは、一番奥まった一角の、周囲から完全に隠れたところだ。だからそこに行こううかと言いかけたとたん、鋭い声に遮られた。


「いや、手前の芝生にしよう。そこが一番見晴らしが良い」


「見晴らし……ですか?」


 離宮の建物を出てすぐのところに、小さな芝生の広場がある。しかしその周囲はやはり森のように様々な木々が茂っているので、あまり遠くは見えない。


 もっとも、それでも離宮の庭の中では、まだ見通しのいい場所ではある。


 首を傾げながらもそこのテーブルに移動し、カップを並べてお茶を注ぐ。デジレは辺りを注意深く見渡してから、ようやく腰を下ろした。


 それから私も彼の向かいに座り、一緒にお茶を飲み、他愛のないお喋りをする。今までと同じ、穏やかな午後のひとときだ。


 ただ一つだけ、違うことがあった。デジレが、どうにも挙動不審なのだ。常にきょろきょろと視線をさまよわせ、屋敷の入口や周囲の木々の向こうをうかがうような目つきをしている。


「あの、どうされたのですか」


 彼の様子が気になって、ついにそう尋ねる。デジレはひどく真剣な顔で答えた。


「君をさらった犯人が捕まっていないのだ。警戒して当然だろう。このテーブルであれば、もし不審者が近づいたとしても、すぐに気づくことができる」


「……申し訳ありません。私のせいで、あなたにも迷惑をかけてしまって」


「君が謝ることはない。悪いのは、君をさらった連中なのだからな。……それに」


 デジレは言葉を切り、ちらりとこちらを見て、またすぐに目をそらした。


「……こうやって君を守れることが、嬉しく思えてしまうのだ。君は大変な目にあったというのに、そんな風に思えてしまう自分が浅ましい」


「いえ、浅ましくなどありません。心配してもらえて、私も嬉しいです」


 それから私たちは、お茶を飲みながらお喋りを始めた。いつもと、まったく同じように。


 ちょっとした日常のことを、思いつくまま話す。ふと、デジレが口を閉ざし、目を伏せた。


 どうしたのだろうと黙って様子を見ていると、彼はこちらを見ないままおずおずと切り出した。


「……その、くだらないことを聞いてもいいだろうか」


 彼は私の返事を待たずに、そのまま言葉を続ける。


「あの日の、あの夜のことは……本当にあったことだったのだろうか」


 思いもかけない問いに、すぐに返事ができなかった。


「君はあんなに恐ろしい目にあったというのに、いつも通りに落ち着き払っているし……その、私と交わした言葉も、まるでなかったかのように平然としていて……」


 デジレはしゅんとしながら、小声でつぶやいている。まるで子供のようなその表情に、胸が勝手に高鳴った。


 あの夜に彼と交わした言葉も、彼と触れ合ったことも、全部あますところなく覚えている。


 今でも何かの拍子に思い出しては、こっそりと頬を赤らめているのだから。恥ずかしいので、デジレにはそんな表情を見せないようにしているだけで。


 でもそのせいで、彼は妙なことを考えるようになってしまったらしい。たぶんこれについては、私が悪い。


 まだしょげたままのデジレから目をそらし、ゆっくりと深呼吸する。すっと手を伸ばして、テーブルの上に置かれたままの彼の手を、覚悟を決めて握りしめる。


「夢……では、ありません。その、あの夜にあなたと話したことは、全て……覚えていますから。気恥ずかしくて、黙っていただけで」


 それだけを言うのが精いっぱいだった。彼の手の感触に、勝手に胸が高鳴って仕方がない。少しひんやりとしていて、見た目よりもがっしりとしていて大きい。


 その手がするりと動いて、私の手を握り返してきた。


「そうか」


 甘く優しい声に、弾かれたように彼の顔を見る。さっきまでのしおれた様子はどこにもなく、代わりにこの上なく嬉しそうな笑みが浮かんでいた。


「抱きしめてもいいだろうか、フローリア」


 私の手をしっかりと握ったまま、あどけないほどに無邪気に彼は微笑む。そろそろとうなずくと、彼は手を引いて私を立たせた。それからひどくゆっくりとした動きで、私を腕の中に閉じ込める。


 あの夜は、助け出された安堵も相まって、私は彼の胸に必死にすがりついていた。その温もりに、心ゆくまで甘えることができた。そもそも辺りは暗くて、ろくに何も見えなかったし、恥ずかしさは感じなかった。


 でも今は真っ昼間だ。誰も見てはいないだろうけど、でも私からはデジレがはっきりと見えてしまう。駄目だ、恥ずかしい。


 緊張のあまり立ち尽くしていると、デジレはくすりと笑って私の頭を胸元に抱え込んだ。控えめな花を思わせる彼の香りにすっぽりと包まれる。目の前にあるのは、ただ彼の体だけだ。


 自分の心臓の音がうるさくて、何も聞こえない。うっとりとするようないい香りがする。ちょっぴり薄暗くて、温かい。


 やっぱり恥ずかしいけれど、それ以上に心地良い。目を閉じて、彼の胸に頭をもたせかけてみる。


「まったく君は、可愛いな」


 くすぐったそうにデジレが笑い、私を抱きしめる腕に力を込めた。


「あの夜のことが夢でなくて、ほっとした。ならばこれからは、遠慮などせずに思いを告げていこう」


 頭の上から、やはり楽しそうにデジレが言う。彼は一呼吸おいて、吐息のようなかすかな声でささやいた。


「愛している、フローリア」


 その言葉に、また心臓が全速力で走り出す。答えに詰まって、彼の背中に腕を回し、そっとしがみついた。


 デジレの明るい笑い声が、静かな離宮の庭に響いていった。

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