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35.平和だったあの頃

本編が始まる少し前の一幕です。

 朝、窓から差し込む光で目を覚ます。城下町の一角、古くて歴史はあるがいまいち活気に欠けるさびれた裏通り、そこに私たちアンシア家の屋敷はある。


 この辺りに住んでいるのは、大体が私たちと同じような貧乏下っ端貴族か、あるいは没落した元貴族だ。そんなこともあって、通り全体がやけに静かで、そしてどことなくくすんだ色合いをしている。


 夜明けと共に、私の一日は始まる。起きてすぐに手早く身なりを整えて、台所に向かう。母様と二人で、みんなの分の朝食をこしらえるのだ。


 普通の貴族の令嬢であれば、こんなことをする必要はないのだろう。でも我がアンシア家は貧乏で、使用人はいない。全部、自分たちでこなすしかないのだ。


「おはようございます、母様」


「おはよう、フローリア。具材は刻み終わったから、お鍋の用意をしてくれるかしら」


 上位の貴族や豪商の家では、きっと朝から豪勢な食事を用意できるのだろう。しかし貴族とは名ばかりの我が家では、一晩経って固くなりかけたパンと、余った野菜や肉の切れ端を煮込んだスープがお決まりの朝食だった。


 母様はいつも私より先に起きて、くるくると軽やかに朝食の支度を始めている。朗らかで優しい、自慢の母様だ。


 私もいつかあんな女性になりたいなと、そんなことを思いながらせっせと手を動かす。じきに、いい匂いが台所に漂い始めた。かぎなれたいつもの匂いに、胸がほっこりと温かくなる。


「そろそろいいわね。じゃあ、みんなを呼んできて」


 スープの味見をして笑う母様にうなずいて、台所を出た。自然と足取りが軽くなるのを感じながら。




 二階に上がり、廊下を進む。ちょうどその時、レナータが向こう側からふらふらと歩いてきた。彼女は朝に弱く、いつもこの時間はぼんやりとしている。そのふわふわの亜麻色の髪は、妙な方向に膨らんでいた。


「おはよう、レナータ。寝ぐせがついてるわ」


「……あ、姉様。おはよう」


「朝食の前に、髪を直してしまいましょう。私がやってあげるから」


「ええっ、別にこのままでもいいと思うんだけど……」


 レナータは首をすくめて、私から逃げようとする。その手をつかんで、にっこりと笑いかけた。


「駄目よ。私たちはこれでも、男爵家の娘なのだから。身なりはきちんとしておかないとね」


 何か言いたげな顔のレナータをひきずるようにして、彼女の部屋に入る。古い鏡台の前にレナータを座らせて、手早く髪を直していく。


 ぼやけた鏡越しに、レナータの顔が見える。どことなく不服そうにも見えるが、彼女は首をすくめたまま何も言わなかった。


 レナータはいつもこうだ。気弱で物静かで、引っ込み思案で、ろくに自己主張しない。もっとも今は、ただ単に眠いだけなのかもしれないけれど。


「さあ、できたわ。食堂に急ぎましょう」


「……うん」


 まだどこかぼんやりしているように見えるレナータをうながして、食堂に向かう。入口のところで、今度はローレンス兄様に出会った。


「おはよう、フローリア、レナータ。いい朝だね」


「おはようございます、兄様。はい、洗濯物がよく乾きそうないい天気です」


「……おはよう、兄様」


 私の返事を聞いた兄様が、おっとりと目を細めて微笑む。


「いつも母様と君たちが頑張ってくれているおかげで、僕や父様も仕事を頑張れるんだ。ありがとう、フローリア、レナータ」


「いえ、家族として当然のことをしているだけですから。役に立てているのなら、嬉しいです」


 照れくさくなって顔をそらすと、黙りこくっているレナータが目に入った。彼女も照れているのだろうかと思ったが、それにしては表情が読めなかった。なんというか、呆然としているようにも見えたのだ。この場にふさわしくないその様子に、どきりとする。


「おや、レナータはまだ眠いのかな」


「……うん」


 兄様の問いかけに、レナータは素直にうなずく。彼女はもう、いつも通りのおどおどとした表情をしていた。


 そんなことを話しながら、三人一緒に食堂に足を踏み入れた。既に席についた父様と、料理の皿を運んでいる母様は、私たち兄妹の姿を見てにっこりと笑った。


 今日も、いい日になりそうだった。




 和やかに朝食を済ませ、父様と兄様は王宮に向かっていった。二人は王宮で文官として働いているのだ。私や母様、それにレナータは王宮に立ち入ることを許されていないから、二人がどういった仕事をしているのかを見ることはない。


 私は、二人から仕事の話を聞くのが好きだった。文官としての仕事には色々と秘密にしておかなくてはならないことも多いから、全部を話してもらえる訳ではない。


 けれどそれでも、普段暮らしているこの裏通りとはまるで違う、別の世界の話を聞くのは楽しかった。その世界に足を踏み入れたいとは、思わなかったけれど。


「さあ、今日はいい天気だから、お洗濯と掃除を早く済ませてしまいましょう」


 二人が出ていった玄関の方を見ながらそんなことを考えていると、母様が朗らかに言った。あわてて振り返り、母様にうなずきかける。


 まずは三人で手分けして洗濯物を洗って干し、それから猫の額のように小さな庭と、古めかしい門のすぐ外の道をほうきで掃く。


「レナータ、手が止まっているわよ。のんびりするのは、全部終わってからにしましょう」


 ほうきを手にしたまま門の外をぼんやりと眺めていたレナータを、母様が優しくたしなめる。レナータは何か言いかけたようだったが、すぐにまた口を閉ざしてしまった。


「どうしたの、レナータ。何か言いたそうだけれど」


「……なんでもないわ、姉様」


 暗い紫の目を伏せて、レナータは小声でつぶやく。一瞬だけ見えた表情が、やけに不満げだったのは気のせいだろうか。


 けれどそれ以上追及するのもためらわれて、おとなしく掃除に戻る。一陣の風が、たった今集めたばかりの落ち葉を吹き散らしていった。




 掃除と洗濯を終え、朝の残りで軽く昼食を済ませる。それからちょっと休憩したら、居間に集合だ。


「あら、レナータはまた逃げ出してしまったの?」


 居間で待っていた母様が、困ったように頬に手を当てる。そこに、レナータの姿はなかった。


「そうみたいです。……あの子の勉強嫌いは、いつになったら治るのでしょうか」


「難しい年頃だから、仕方ないのかもしれないわね。でも、心配だわ」


「はい、私も……心配です」


 そう答えながら、母様の向かいにある椅子に腰を下ろす。


 午後のこのひと時は、勉強の時間だった。私たちは貧しくとも、貴族の一員なのだ。教養や礼儀作法など、学んでおかなくてはならないことは山のようにある。


 そんな両親の考えにより、私たちはしっかりとしつけられてきた。普通の貴族であればしかるべき教師を雇うのだが、我がアンシア家にそんなお金はない。


 だから母様が教師代わりになって、こうして私たちに様々なことを教えてくれていた。私はこの時間が好きだ。少しずつではあるけれど、自分の成長を感じられるから。


 だが、レナータは違うようだった。彼女はよくこうやって、勉強の時間になるとどこかへ逃げ出してしまうのだ。


 母様と顔を見合わせて、それから同時に窓の外を見る。もしかしてレナータが戻ってきてはいないかと、そんな願いを込めながら。


 しかし門の外の通りは、やはり静まり返っている。


「……仕方ないわね。レナータ抜きで、始めましょうか」


 ため息をついた母様にうなずきかけ、背筋を伸ばした。今日も、いつも通りの勉強の時間が始まろうとしていた。




 それから二時間ほど学び続けて、今日はひとまず終わりにしようと、母様と二人で食堂に向かう。


 安物のお茶を飲みながら、母様がまたため息をついた。


「レナータ……やっぱり心配ねえ。いったいどこに行っているのかしら」


「城下町の外には出ていないようですから、危険はないと思いますが……」


「そうだといいのだけれど。それに、あの子だけ勉強が進んでいないのが、やっぱり気になるの。あの子ももうすぐ十四だし、いつまでも子供扱いするのも、ね」


 そう言って、母様は両手を祈りの形に組み合わせた。独り言のように、静かにつぶやく。


「……あの子を一人前の女性に育て上げて、幸せにしますって、セレナに約束したのよ。それにレナータも、私の大切な娘だもの。残してやれる財産はろくにないから、せめて知識くらいは渡してあげたいのに」


 悲しげにうつむいてしまった母様を励ましたくて、急いで口を開く。


「……知識は、生きていくために役立つ武器であり、宝であるとそう思います。だから母様にこうやって色々なことを教わるのは、とても楽しいです。あの子も、そう思ってくれると嬉しいのですが」


 そこで言葉を切り、もう一言付け加えた。


「私にとっても、レナータは大切な妹ですから」


 私の言葉を聞き終えた母様は、顔を上げて柔らかく微笑んだ。


「ありがとう、フローリア。あなたにそう言ってもらえると、頑張った甲斐があるというものね」


 しかし母様の笑みは、またすぐにくもってしまう。


「けれど、どうにも私たちの思いはあの子に通じていないみたいね。勉強しなさいって言っても、べそをかきながら逃げ回るばかりだし」


「あとは、今日みたいにいつの間にやら姿をくらましたり……」


「そうね。あなたはもうどこに出しても恥ずかしくない、一人前の女性に育ったわ。嫁入りしてもいいし、どこか働き口を見つけてもいい。私の自慢の娘よ。ローレンスたちも、ちゃんと自分の生きる道を見つけた」


 母様はさらに深々と、ため息をついた。


「だから、あとはレナータさえしっかりしてくれれば、私も安心できるのだけど……」


「こればっかりは、本人の意識が変わるのを待つしかないと思います」


「そうねえ……」


「いつか、レナータも分かってくれる日が来ます。そう信じて待ちましょう、母様。あの子はまだ、十四にもならないのですから」


 そう励ますと、母様は困ったような笑みを返してくれた。




 結局レナータが帰ってきたのは、もう空がすっかり橙色に染まった頃合いだった。どことなくきまりが悪そうな顔をしている彼女に、何事もなかったかのように笑いかける。


「おかえりなさい、レナータ。ちょうど、夕食の準備をしていたところなの。手伝ってちょうだい」


「う、うん……」


 レナータは何か言いたげに、揺れる目でこちらを見つめている。小首をかしげて言葉を待っていたが、彼女は結局口を閉ざしてふるふると頭を横に振った。


 彼女は、朝方にもこんな不思議な態度をとっていた。その理由が気になったものの、立ち入らないことにした。彼女にだって言いたくないことの一つや二つ、あるだろうから。


「今日はちょっとふんぱつして、パウンドケーキを焼いたのよ。あなたが好きなスミレの砂糖漬けを乗せた」


 微笑みながらそう告げると、レナータの顔がぱっと輝いた。子供らしい、無邪気な笑みだ。


「えっ、そうなの!?」


「ええ。食後のデザートにね。だから夕食の支度を、早く済ませてしまいましょう。もうじき、父様と兄様が帰ってくる頃合いだから」


「うん!」


 さっきの不思議な態度はもうすっかり消え失せ、レナータは弾む足取りで台所へと駆け込んでいった。


 最近の彼女は、何を考えているのかよく分からない、不思議な態度をとることが増えていた。けれど、こういう無邪気なところは昔から変わっていない。


 そんな彼女の表情を見られたことに安堵し、ゆっくりと彼女の後を追いかける。


 けれど私は、そうやって小さな違和感から目を背けていたことを、じきに後悔することになるのだった。

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