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34.(兄のまなざし)

 全ての事件が解決し、フローリアたちにもいつもの日常が戻ってきていた。


 デジレの屋敷を突然ローレンスが訪ねてきたのは、そんなある日のことだった。


「お久しぶりです、デジレ様。フローリアも変わりないようで良かった」


 ローレンスは朗らかにそう言うと、静かに頭を下げた。デジレはそんな彼に笑いかけながらも、少しけげんな顔をしている。彼の視線は、ずっとローレンスの顔に据えられていた。


「ああ、久しぶりだなローレンス。しかし気のせいか、少し顔色が優れないように見えるが?」


 その指摘に、ローレンスが顔を曇らせた。フローリアはそんな兄を見て、同じように不安そうな顔をする。彼女は胸元でぎゅっと手を握りながら、デジレとローレンスを交互に見つめていた。


「やはり、分かってしまいますか。実は、マルク様からの文が王宮に届いたのです。その内容をデジレ様とフローリアにも伝えるべきだと、陛下はおっしゃっておられました」


「それで君が使いとして、わざわざここまでやってきたということか」


「はい。それに、妹がここでどんな暮らしをしているかも気になりましたので。ですが、まずは用件の方を片付けてしまいましょう」


 ローレンスは携えていた書状を、うやうやしくデジレに差し出す。デジレはそれを受け取ると、フローリアにも見えるように広げた。


 そこには、今のマルクとレナータがどこでどのように暮らしているのかが詳細につづられていた。正式に夫婦となった二人は、形の上では辺境を治める公爵夫妻ということになっている。しかしその実際の暮らしは、なんとも過酷なものだった。


 二人に課せられた使命は、辺境の開拓だった。土が痩せていて雑草すらろくに生えない一面の荒地に、ぽつんと建つ小さな古い屋敷。そこが彼らの、今の住みかだった。


 使用人たちも、彼らと同様に何らかの罪を犯したものたちばかりだった。逃げ出そうにも近くに人里はなく、出入りの商人が半月に一度やってくる他は、物資を仕入れるあてすらろくにない場所だった。


 二人は使用人たちと共に大地を耕し、人が住める場所になるように手を入れ続ける。誰もが不可能だと思うだろうその仕事こそが、彼らに一生課せられ続ける罰だった。


 そう、二人が送られた辺境の屋敷は、実質的には牢獄と大差ない場所だったのだ。


「レナータ……」


 最後に見たレナータの姿を思い出したのか、フローリアが苦しげにつぶやく。すかさずデジレが手を伸ばし、彼女の肩を抱いた。ローレンスはわずかに目を見張り、そんな二人を見守っている。彼の顔には、隠し切れない興味の色が浮かんでいた。


 アンシアの屋敷にいた頃のフローリアは、とても冷静沈着な少女だった。年の近い兄であるローレンスのことは素直に頼っていたものの、それ以外の人間に弱みを見せることはほとんどなかった。けれど今の彼女は、デジレに甘え、甘やかされているように見える。


 ローレンスはさらに記憶をたどる。思えば、フローリアは驚くほど身持ちの堅い少女だった。いつも城下町にあるアンシアの古い屋敷で暮らしていた彼女は、城下町に住む男性たちとも毎日のように顔を合わせていた。それにもかかわらず、彼女は誰とも仲を深めることはなかったのだ。


 彼はかつて、フローリアに直接尋ねてみたことがある。誰か気になる人はいないのかい、と。彼女は真顔で大きく首を横に振り、いません、ときっぱりと答えていた。


 実のところ、彼女に憧れる男性は少なくなかった。けれどみな、フローリアの凛とした態度に気後れしてしまっていたのだ。当のフローリアはそのことに全く気づいていないようだったし、もし気づいていたとしても、彼女のその態度が変わることはなかっただろう。


 それが今ではどうだ。彼女はデジレという恋人と巡り合い、普通の恋人のように、いやそれ以上に幸せな日々を送っているように見える。生まれた時から彼女を見てきたローレンスだったが、彼女があんなにも愛らしい顔をしているのを見たのは初めてだった。


 嘆き悲しむフローリアを優しく抱き留め、いたわりの言葉をかけているデジレ。と、その赤い瞳だけがついと動いてローレンスに向けられる。


 おや、と目を見張るローレンスに、デジレはゆっくりと笑いかけてきた。女性どころか男性まで容赦なく魅了してしまいかねない、いっそ魔性のものと呼んだ方がふさわしいような、とんでもなく魅惑的な笑みだった。


 自分の心臓がおかしなくらいに乱れ打っていることに、ローレンスはさらに驚く。


 デジレの仕草は、一般的にはちょっとした目配せと呼ばれるものだったのだろう。けれどたぐいまれなる美貌を誇るデジレにかかっては、ただの目配せが傾城の美姫もかなわないほどの流し目に化けてしまう。


 そんな相手を恋人とした妹の度胸に、ローレンスは目を丸くしたまま心の中で拍手を送っていた。昔から肝の据わったところのある子だったけれど、まさかこんなことになるなんてねと、そう思いながら。


 デジレはまた腕の中のフローリアに目線を戻し、子供でもあやすかのような口調で言った。


「君が悲しいのなら、私はいくらでも胸を貸そう。だがせっかくローレンスが来てくれているのだし、積もる話でもしてきてはどうだ」


 フローリアが顔を上げ、デジレを不安げな目で見る。その耳元に、デジレが何事かささやいていた。ローレンスにはその言葉は聞き取れなかったが、そうやって寄り添う二人の姿は、とても仲睦まじいもののように見えていた。




 そうしてローレンスとフローリアは、フローリアの部屋で向かい合って椅子に腰かけていた。デジレが気をきかせて、二人でゆっくり話すといい、と言ってくれたのだ。


「お久しぶりです、兄様。お元気そうで良かった。父様と母様はどうされていますか」


「うん、みんな元気だよ。……毎朝、レナータのいる辺境の方角に向かって祈りを捧げるのが、新しい日課になったくらいで」


「そうでしたか。……実は私も、こっそりと同じことをしていました。きっとレナータは、怒るでしょうけど」


 どこか恥ずかしそうにしながら、フローリアがそう告白する。ローレンスは明るく笑って、妹の手にそっと触れた。


「隠さなくていいよ。僕たちは家族なんだからね。もちろん、あの子も」


 どれほどこじれてしまっても、いかにレナータが拒もうとも。それでもローレンスたちの胸の中には、レナータと過ごした温かな日々の記憶が残っているのだ。


 この記憶をなかったことになんてできないと、ローレンスは強く考えていた。情よりも理屈を優先させがちな彼にしては、とても珍しいことだったけれど。


「それで、君の方はどうなのかな? 見たところ、とても幸せに暮らしているみたいだけど」


 真正面から尋ねると、フローリアは突然真っ赤になってしまった。これまた、ローレンスが見たこともない表情だった。彼女は両手を頬に当てると目線をそらし、消え入るような声で答える。


「……はい、とても幸せです」


「それにしては、ずいぶん動揺しているみたいだね?」


「恥ずかしいんです! こういうのに、慣れていないので。兄様なら、分かっているでしょう」


 なおも頬を真っ赤に染めたまま、フローリアがローレンスをにらむ。恥じらったその顔は、なんとも可愛らしいものだった。


「君のそんな顔が見られるなんて、思いもしなかったな。もしかしたら君はずっとどこにも嫁がないんじゃないかって、ずっと心配していたんだよ。僕だけでなく、父様や母様も。それがまあ、すっかり恋する乙女になってしまったね」


「ですから、からかわないでください」


「からかってるんじゃないんだ。僕は嬉しいんだよ。本当にいろんなことがあったけど、少なくとも君は、良い方向に変わってくれた」


「それは、兄様のおかげです。兄様が私をここに送り込んでくれたから」


「そうかもしれないね。どうにかして君を王宮の外に逃がそうと必死に考えて、そしてデジレ様に頼み込んで……少しでも僕が違うことを考えたなら、この今はなかったかもしれない」


 ローレンスの言葉に、フローリアが両手をきつく握りしめる。デジレと出会えなかった未来を、想像してしまったのだろう。さっきまで幸せそうに赤く染まっていた頬も、今は厳しく引き締められている。


「あれ、怖くなってしまったのかな。だったら後でたっぷりと、デジレ様に甘えるといいよ。君は甘えるのが下手だし、きっと喜んでもらえると思う」


「もう、兄様ったら!」


 重くなった空気を吹き飛ばすように、ローレンスがひょうひょうと笑う。フローリアはまた赤面しながら、そんな兄をたしなめた。


 ふとローレンスが立ち上がり、そっとフローリアを抱きしめる。戸惑うフローリアに、ローレンスはそのまま語り掛けた。ひどく優しく、静かな声で。


「どうか、幸せになっておくれ。君が大切な人と一緒に、いつまでも幸せに暮らす。それが僕たちにとっての、何よりの救いだから」


 フローリアは動かない。膝に置かれた彼女の手が、ゆっくりと祈りのような形に組み合わされた。


 あの悲しい事件を通して、たくさんのものが壊れてしまった。その中から芽吹いた、一つの希望。それが、フローリアとデジレが結ばれたことだった。


「私、ずっと幸せに暮らします。デジレ様と一緒に。それが今の私の、何よりの望みですから」


 ローレンスの腕の中で、フローリアが決意に満ちた声でそう答える。ローレンスは泣きそうな顔で笑い、そっと目を閉じた。


 彼の一番小さな妹は、手の届かない遠い地に行ってしまった。そしてもう一人の妹も、彼の手を離れ、羽ばたこうとしている。


 彼はそのことが嬉しくもあり、また寂しくもあった。そんな思いを押し隠したまま、彼はフローリアをしっかりと抱きしめたままでいた。

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