25.(兄と弟)
聖女の儀式から数日が経ったある夜、第一王子ミハイルの部屋を訪れる者があった。
「マルク、お前が訪ねてくるとは珍しいな」
ミハイルは少し目を見張りながら来客を迎え入れる。それは、彼の弟にして第二王子であるマルクだった。彼は傍目にも分かるほどはっきりとミハイルのことを敵視しており、よほどのことがなければミハイルのところを訪ねてくることなどなかっただろう。
それを承知しているミハイルは言葉少なにマルクに椅子を勧めると、自分も腰を下ろしてマルクの言葉を待った。
二人の間に沈黙が流れる。ミハイルが辛抱強く待ち続けていると、やがてマルクが小声でつぶやいた。
「……俺は、兄上に勝ちたかった。兄上を越えるために、聖女と婚約した。聖女の持つ権力が欲しかった、それだけの理由で」
マルクはそう言いながら、膝に置いた手を強く握りしめている。その目はミハイルを素通りしてどこか遠くを見つめているようだった。
「レナータと婚約した時、俺は有頂天になっていた。このまま王宮での地位を高めていけば、いつか兄上に成り代わって次の王になれるかもしれない、そう思っていたんだ」
幼さの残る声で独り言のようにつぶやく彼を、ミハイルは優しい目で見守っていた。
「けれど、俺が婚約した相手は聖女ではなかった。これでは俺は、兄上に勝つことができない。そう思ったら、絶望するほかなかった」
ミハイルは黙ったままでいた。ここで彼の言葉を否定し慰める言葉をかけることはたやすかった。しかしそのような言葉は、マルクの望むところではないだろう。そう思ったからだ。
マルクはそんな兄の思いに気づいているのかいないのか、目線を落として話し続けていた。
「俺は儀式の日からずっと考えていた。俺のこと、レナータのこと、兄上のこと。そして、デジレたちのこと」
「そうか。どうやら、答えは出たみたいだな」
静かな声で語り続けるマルクに、ミハイルがそっと言葉を重ねる。マルクは一瞬はっとしたように見えたが、すぐにいつものふてぶてしい笑顔を浮かべてみせた。ミハイルにとってはよく見慣れたその子供らしい表情が、今ではどこか余裕すら感じられるものに変わっていた。
「ああ。……俺が、愚かだった。俺は聖女の権力を借りるのではなく、俺自身の力で兄上に勝たなければならなかったのだ。そんなことも分からないほど子供だったから、俺はデジレにもたやすくあしらわれてしまっていたのだろう」
「それに気づけたのなら、お前はもう子供ではない。立派になったな、マルク」
ミハイルが心底嬉しそうに微笑みながら、マルクにそう声をかける。今までのマルクなら間違いなく顔をしかめていただろうが、彼は大人びた苦笑を浮かべると小さくうなずいた。
ずっと開いたままだった兄弟の間の距離は、今やっと縮まり始めていた。
実に数年ぶりに腰を据えて話すことになった二人は、ぎこちないながらもぽつぽつと色々なことを語り合っていた。
「マルク、一つ聞いてもいいだろうか。……レナータのことだが」
「彼女のことが、どうかしたのか」
「お前は彼女の権力を求めて婚約を申し出たと言っていたな。けれど今の彼女にその権力はない。そして彼女の身分は、王子の伴侶としてはあまりにも低い」
ここでやっとミハイルの言いたいことに気づいたらしいマルクが、また苦笑した。言い出しにくそうに濁した兄の言葉を引き取るようにして、答えを返した。
「俺は彼女の意思を尊重しようと思う。父上が彼女とフローリアをどう取り扱うか、それを決められた後にでも、彼女に尋ねてみようと思っていた。このまま俺の婚約者であり続けるか、それとも婚約を破棄するか」
「そうか、お前はもう覚悟を決めていたのだな」
「ああ。……彼女は俺を好いてはいないし、王家に嫁ぐのは彼女にとって重荷にしかならないだろう」
珍しくも他人を気遣っているマルクの言葉に、ミハイルは愉快そうに目を細めた。そして、弟が口にしなかったことまでしっかりと見当をつけていた。
マルクは「レナータが自分を好いていない」と断言した。けれども、彼がレナータをどう思っているかについては口にしていない。いや、口にできないのだろう。
好いていない、と言うには心を寄せすぎていて、好いている、と言い切れるほどはっきりした思いは抱いていない。少年らしいそんな彼の心情を、ミハイルは微笑ましく思っていた。
しかしそんな内心を悟られてしまっては、また弟は意固地になってしまうだろう。そう考えたミハイルは、ただ穏やかな笑みだけを浮かべ、言葉を返した。
「マルク、私は見ていることしかできないが、万事うまくいくことを願っている」
「兄上にそう言われるのは複雑だが、その……一応、礼を言う」
まだミハイルに対して素直に接することができないのだろう、マルクは眉をひそめて目をそらしながら小声で答えた。
その後も、二人はゆっくりと話を続けていた。静かな室内に、二人の声だけがかすかに響いていた。
しばらくしてマルクが立ち上がり、黙って目礼した。彼の意図を察したミハイルが同じように立ち上がる。
「マルク、またいつでも来てくれ」
「……機会があれば」
そう短く答えて立ち去りかけたマルクが、ふと足を止めミハイルに背を向けたままつぶやく。
「俺は罪を犯した。それを償ったら、また兄上に挑みたいと思う」
「ああ、待っている」
ミハイルにはマルクの罪というのが何のことか分からなかったが、彼はまた穏やかに笑ってうなずいた。彼はまだ、弟に対してどう接していいのか分からなかったのだ。
彼はこの時、マルクの罪について問い詰めなかったことをずっと後悔することになる。弟たちについて、何も知らないままでいたことを。
そしてミハイルの部屋を後にしたマルクは、ふとレナータの部屋の方に足を向けた。しかしすぐに、彼は歩みを止める。
「……いや、こんな時間に女性のもとを訪ねるものではないな。またいずれ、日を改めてくることにしよう」
誰に聞かせるでもなくそうつぶやくと、彼はきびすを返して自室の方へと戻っていった。
彼は後に、この時の判断を悔いることになる。あの時彼女のもとを訪れていたら、何かを変えられたのかもしれない、と。




