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 劇場からの帰宅後、椿は菫が離れた際に母親にそれとなく先程の相手のことを聞いてみた。


「お母様。先程の方、苗字は何と仰るのかしら? 下のお名前は存じているのですが、今後もしお会いした時にいきなり下の名前でお呼びするのは失礼でしょうし」

「椿ちゃんたら、伺っていなかったの? まったくもう。……夏目さんよ。夏目透子さんと仰るのですって」

「……あ、夏目さんと仰るですね。分かりました。ありがとうございます」


 手早く母親との会話を終えた椿は自室に入り頭を抱える。

 名字が分からなかったので、同じ名前なだけかもしれないと信じたかったが、さすがに同姓同名はそうそう居ない。

 彼女が本物だとして、ゲーム内の夏目透子と同じような性格をしているとあの場で見受けられた。

 だが、あれだけの接触で彼女が転生者かそうでないのかの区別が椿にはつかない。

 仮に彼女が転生者ではなかったとしても、何かの切っ掛けで前世の記憶を思い出してしまうかもしれない。

 そのときに、今の夏目透子と同じ性格のままでいられるかといわれると、椿には分からないし不安でもある。

 ゲーム内では顔を見せていないし苗字も違う。彼女が今の椿を見ても前世の記憶を思い出すことはまずないだろう。


 悩んだ挙げ句、椿は携帯を取り出して同じ転生者である杏奈へと電話を掛けた。

 何回目かのコール音の後、杏奈が電話に出て、椿は今日あったことを彼女に報告する。

 黙って椿の話を聞いていた杏奈は、聞き終わると盛大なため息を吐いた。


『すごい偶然ね。それで本当に本人だったの? 顔もそっくりだったわけ?』

「『恋花』をプレイした人達の前に、この人が夏目透子さんです。と連れて行ったら彼女を見た全員が声を揃えて「あぁ」と言うくらい」

『ふぅん。まぁ、聞いた限りでは彼女、良い子そうだし、ちょっとしたハプニングに遭遇してしまったな、とでも思って忘れたら? 大体、絶対に彼女が高等部に入学してくるかなんて知りようがないじゃない。ここはゲームじゃなくて現実なんだからさ』

「……あ、あぁ、そうよね」


 杏奈から冷静に言われて椿は、夏目透子が鳳峰学園の高等部に入学してくるものだとばかり思い込んでいたことに気付いた。

 

『体はひとつしかないんだから、今は目の前の問題だけに集中したら? 夏目透子さんの件は取りあえず横に置いてさ。大体、問題をいくつも抱えようとするのはあんたの悪い癖だよ』

「あ、はい」

『それじゃ、私も用事あるから、そろそろ切るね』

「うん。話を聞いてくれてありがとう」


 電話を切った椿は、取りあえず透子のことは一旦置いておこうと考え、軽やかな足取りで一階へと向かう。


 一階におりた椿が廊下を歩いていると、こちらに背中を向けて庭の段差に腰掛けている志信の姿が目に入った。

 背中からは哀愁が漂っており、心なしか肩を落としているようにも見える。

 もしかしたら、今日のことで落ち込んでいるのかもしれないと思い、椿は庭に出て志信の隣へと座った。


「外に出てるなんて珍しいね」

「少し夜風に当たりたかったので。……椿様。あのような場で恥をかかせてしまい申し訳ございませんでした」


 立ち上がった志信が椿に向かって頭を下げている。

 慌てて椿も立ち上がり、志信に頭を上げるようにと言ったが、彼は頑なに頭を上げようとしない。


「何をおっしゃられましても、全て私の失態です。せめて壁側に行ってから、菫様に飲み物をお渡しするべきでした」

「まさか、あの場で走り回る子供がいるなんて思いもしないでしょ」

「いつ、いかなるときであろうとも、あらゆる事態を想定しなければなりません」

「……そうは言っても、お父様達は別に志信さんを責めてはいないんでしょ? だったらこの話はこれで終わり」


 両親が何も言っていないのに、娘の椿が志信を責めることなど出来ない。

 大体、椿は菫にぶつかった子供に対して怒ってはいるが、使用人に対して怒ってはいない。

 それなのに、志信は自責の念に駆られているようだ。罰のひとつでも与えない限り、彼は頭を上げようとはしないだろう。


「悪いと思っているのなら、私のお願いを聞いてくれるかしら?」

「……どのような願いでも叶えてみせます」


 勢いよく頭を上げた志信は真っ直ぐに椿を見ている。

 言質は取った、と椿は満面の笑みを浮かべながら口を開いた。


「じゃあ、今度のお休みにコンビニに連れてって」

「それはなりません」

「今、どのような用件でも叶えるって言ったじゃん!」

「それはそれ、これはこれでございます」


 落ち込んだ志信につけ込んで、コンビニに連れて行って貰おうと思ったのだが、あっさりと断られてしまった。

 だが、このチャンスを椿は逃すわけにはいかない。


「お願い! 見るだけだから! 買わないから! 社会勉強だと思って付いてきて!」


 この通りお願いだから! と両手を合わせる。

 しばらく互いに無言の状態が続いたが、志信がため息を吐いたことで終わりとなった。


「……本当に見るだけですね」

「うんうん」

「コンビニに行って、やっぱりこれを買って頂戴などとおっしゃられても、買いませんからね」

「うんうん」


 志信は椿から視線を外して、再びため息を吐いた。


「でしたら、少し遠いところのコンビニに参りましょう。旦那様や奥様には絶対に秘密ですよ」

「分かってるよ! ありがとう志信さん! じゃ、次の休みにね!」


 志信と約束を交わし、椿は足取りも軽く屋敷内へと戻っていく。

 残された志信は片手を腰に当て、もう片手で顔を覆いうなだれていた。



 翌週、志信とコンビニに行く約束の日がやってきた。

 約束を交わした日から、一般家庭の子供に見えるような服を選んでいた椿は着替えを済ませてから、車で待っている志信の元へと急ぐ。

 途中で母親に呼び止められてしまい、椿はコンビニに行くのがばれませんようにと思いながら振り返った。


「あら、お出掛け?」

「はい。本屋へ参ろうかと。新しい問題集があればと思いまして」

「そう。あまり遅くならないようにね」

「はい。行って参ります」


 内心では心臓をバクバクさせながら、椿は玄関から出て車に乗り込んだ。


「椿様、顔色が悪いようですが?」

「お母様にお会いしたのよ。とっさに本屋に行くって言っちゃったけど」

「でしたら、先に本屋へ寄りましょう」


 口からつい出てしまった言葉だが、一応買ったという証拠がないとまずいと思い、志信の提案に乗り、椿は先に本屋へと向かう。

 

「適当に問題集を何冊か買いましょう」

「中身はご覧にならずともよろしいので?」

「大きく違うことはないのだから、どこの問題集だろうと同じよ」


 不破と会話をしながら、本屋の参考書・問題集コーナーへ行き、数が多ければいいかと思い数学の問題集を何冊か購入する。

 車に戻った椿は、後部座席から身を乗り出して志信を急かした。


「さ、志信さん。コンビニよコンビニ。社会勉強よ」

「慌てずともコンビニは逃げたり致しませんよ。それから、少し遠いところまで参りますので、到着までお時間が掛かりますがご了承下さい」

「景色見てるから大丈夫。ほら参りましょう」


 はやる気持ちを抑えきれない椿を見て、志信は苦笑する。

 

「ところで椿様」

「何?」

「ずっと疑問に思っていたのですが、"コンビニ"をどこでお知りになったのですか?」


 しまった、と椿は固まる。

 車の窓から見える看板に書かれていたから、と椿は答えようかと思ったが、大抵の場合、看板にはコンビニの文字は書かれていないので、この理由は苦しい。

 書かれていたとしても車で通り過ぎる一瞬だけしか見えないので、意図的に見ようとしなければ気付かないし、気付いたとしても好奇心旺盛な椿が志信にあれは何かと訊ねないはずがない。

 椿は焦りつつも、志信が納得してくれそうな理由がないかと頭を働かせる。

 車が家電量販店の前を通り過ぎた際に見えたテレビを見て椿は、これだ! と思い口を開く。


「……テレビで見たし聞いたし、新聞でも読んだことがあるし、学校のお友達が話しているのを聞いたこともあったから」

「左様でございますか。私はてっきり、密かにコンビニへいらっしゃったことがあるのかと」

「まさか! 護衛も付けずに一人で外に出ることなんて、できないじゃない」

「えぇ。ですので、知識として御存じだったと分かり安心しております」


 さすがの椿でも護衛を連れずに一人で出掛けるなど愚かな真似はしない。

 志信も本気で言っていた訳ではないだろうが、心臓に悪いと椿は彼を睨み付ける。


 睨まれた志信は「これは申し訳ございません」と心にも思っていないような口調で謝罪の言葉を口にした。

 反応が気に入らなかった椿は、頬を膨らませてわざとらしく横を向き、景色を眺め始める。

 

「いつかファーストフードにも挑戦したい」

「なりません」

「一生のうちに一度くらい口にしたところで何も変わらないでしょ!」

「一度で済みますか?」


 志信に問われた椿は言葉に詰まり視線を泳がせる。


「そういうことです」


 だからファーストフードは諦めて下さいと志信に言われてしまった。

 やはり自由行動がしやすくなる大人にならないと無理か……と椿は肩を落とす。

 

 以後、椿と志信はお互いに黙り込み、コンビニに着くまで無言の状態が続いた。


「椿様、あちらのコンビニでよろしいでしょうか?」


 随分と車を走らせたな、と思いながら椿は志信が示したコンビニを見る。

 都内に数多くある全国規模のコンビニチェーン店であった。


「えぇ。あそこでいいわ」


 椿の返事を聞き、志信は車をコンビニの駐車場へと停める。

 車を降りた椿は、早く中に入りたくてウズウズしていた。


「こちらです」


 案内する志信の後に続き、椿はついに念願のコンビニに足を踏み入れることができた。


 コンビニの入店音、入ってすぐ脇にある雑誌コーナー。目の前にある日用品。全てが懐かしいものばかりである。

 椿は、足を止めてジッと日用品コーナーを眺めていた。


「何か珍しいものでもございましたか?」

「安い」

「椿様がいつも使用なさっているものとは質が違いすぎますから当たり前です」


 そういうことではない。0の桁に安心するのだ。

 

「椿様、あまり立ち止まってご覧になられますと他のお客様が手に取れないかと」

「あ、そうね」


 あまりの懐かしさについジックリと見入ってしまったが、他の客の邪魔になると悪いと思い、椿はお弁当コーナーに移動する。

 陳列している正三角形のおにぎりを見て、椿は感動のあまり思わず手を伸ばしたが、志信の「買いませんよ」の一言で我に返った。

 試しに縋るような目で志信を見つめてみたが、彼は表情を変えずに首を横に振るだけであった。

 小動物のような目で見てもダメか、と悔しい気持ちになりながら椿はおにぎりの具が書かれた部分を熱心に眺めている。

 定番の梅干しや鮭、シーチキンなど、椿にとっては本当に懐かしい具材ばかりである。


「ねぇ。シェフに頼んでおにぎり作って貰うことってできるかな?」

「椿様が望むのであれば、可能でございます」

「じゃあ、梅干しと昆布と明太子のおにぎりが食べたい」

「伝えておきます」


 いつか、自宅の庭でレジャーシートを広げてピクニック気分でおにぎりを食べたいものである。

 おにぎりの他にも、唐揚げや卵焼き、タコさんウィンナーにベーコンのアスパラ巻きなどが入ったお弁当を作って貰おう。

 楽しみだなぁと思いながら、椿はお弁当売り場からお菓子売り場へと移動する。


「あ、佐伯君の家のお菓子だ」


 椿の目に何度も食べたことのある佐伯の家が経営している会社のお菓子が飛び込んできた。

 棚をよく見てみると、佐伯の家が経営している会社のお菓子が沢山陳列されている。

 あ、これこの間食べたなとか、この味は食べてないとかお菓子を見ながら椿は視線を移動させていた。


「そちらのお菓子は抹茶味が一番美味しいですね」

「えー。私は紅茶が美味しいと思うけどねー。…………っあ」


 志信の誘導尋問に、うっかり自分も食べたことがあると自白したことに気付いた椿は、恐る恐る顔を上げて彼を見る。

 

「この場で問い詰める真似は致しませんが、帰りの車内でジックリと伺わせて頂きます」


 とっさに椿は、志信の両腕を掴み無言で首を横に降り、違う! 違うんだ! と意思表示をするが、志信は全く動じない。

 

「さて、椿様。社会科見学はもうお済みになりましたね」

「ま、まだ! アイスのコーナーが残ってるよ!」

「そろそろコンビニを出ないと、渋滞に巻き込まれてしまいます。奥様から遅くならぬようにと言われておりますからね。それに、帰りの車内で伺いたいこともございますし」


 椿が何を言っても志信は首を縦には振らない。このままここでごねても何も変わらないと悟った椿は大人しくコンビニを出て車に乗り込んだ。

 車が走り出してしばらくすると、志信が先ほどの件のことを訊ねてくる。


「さて、椿様。佐伯様の会社のお菓子を食べたことがあるかのようなことを仰っておりましたが、どういうことでございましょう?」

「……」

「椿様」

「……佐伯君のお父様がよく自社製品のお菓子を佐伯君に渡していたのよ。彼のお母様は自社製品のお菓子であっても、あまりいい顔をなさらないそうだったから、そのお菓子を学校でこっそりと食べていたんだけど、私が偶然現場に遭遇してね。……ちょっと食べてみたいって思ったから、無理を言って貰ったのよ」


 椿は、だから佐伯は一切悪くないのだと志信に訴える。


「一度だけですか?」

「……」

「椿様」


 志信に強めに言われ、椿は項垂れ顔を手で覆いながら「り、両手じゃ足りないくらい」と答える。

 

「いつからです」

「初等部の四年の頃から、です」

「そんなに前からですか!?」

「志信さんが声を荒げた!」


 今まで、表情をあまり変えずに淡々とした口調の志信しか見たことがなかったため、椿は本当に驚いた。

 この人でも声を荒げることがあるのか。


「私のことはよろしいのです。それよりも、よくもまぁ、そんなに前から隠してきたものですね」

「お父様もお母様も、あまりいい顔をしないと思ったのよ」

「当たり前です」

「……お父様に報告する?」


 父親に言われるのは仕方がないことだと覚悟はしているが、佐伯が怒られる結果になりはしないかだけが心配であった。

 それに、巻き込んでしまった恭介や杏奈、千弦も親にバレたら叱られてしまう。

 椿が怒られるのは当たり前のことであり、主犯である自分だけが責めを負うべきである。


「旦那様に報告致します、と言いたいところですが、コンビニに内緒でお連れしたということもありますから、今回は目を瞑ります」

「ほ、本当!?」

「はい。ですが、今回だけですからね。あまり、市販のお菓子は口になさいませんように」

「ありがとう! 佐伯君が怒られちゃうかと思ってドキドキしたけど良かった」


 あー良かった、と椿は背もたれに背中を預けて窓の外を眺め始める。

 一応、今回のことは恭介達に言っておいた方がいいだろう。今回は志信が目を瞑ってくれたから良かったものの、彼にバレてしまった。

 危うく皆に迷惑を掛けることになったかもしれないのだから謝罪もしよう。

 そんなことを考えている間に車は朝比奈家に到着し、椿は車を降りて自室へと向かう。


 着替え終わった椿の耳に扉をノックする音が聞こえてくる。


『椿様、お手紙が届いております』


 あぁ、レオンか、とすぐに分かった椿は扉を開けて、佳純から手紙を受け取った。

 立ちながら手紙の封を開け、中の便箋を取り出し読み始める。


「っげ」


 書いてあった文章を読んだ椿は思わず顔を歪ませる。

 手紙には、今年の夏休みは日本に行く予定だと書かれていた。

 こうしてはいられないと、椿は手紙を机の上に置いて父親を探しに部屋を出る。

 途中であった佳純に父親の居場所を聞いた椿は、急ぎ足で父親のいる庭のアトリエへと向かった。


 庭のアトリエのドアをノックし、出てきた父親に向かって椿は口を開く。


「お父様! 夏休みに旅行に行きましょう!」

「え? 椿ちゃんどうしたの?」

「旅行です! 海外です! 国外旅行です!」


 椿の勢いに飲まれそうな父親であったが、興奮している椿に向かって、夏休みまで日がないことや今からでは碌なホテルが取れないことなどを冷静に言い聞かせる。

 旅行が無理だと悟った椿は、肩を落としながらアトリエから立ち去った。

 

 今年もレオンと過ごす夏がやってくる。

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