68話 フィールアンタッチャブル
和訳『触れた想いと触れられない心』
「よいしょ……よいしょ……草原さん、ゆっくりで良いですからね」
「はぁ、はぁ……あっ、ありがとう」
歩きながら広い場所まで僕達は移動したのだが、運動音痴の僕は当然、息が上がっていた。そんな僕にも、手取り足取り優しく教えてくれる晴希は、まさに理想の先生だった。
「じゃあ、まずは板を付けたら転び方から……」
その健気さが何とも言えず愛しくて、不思議と体にも力が入っていた訳だが……
「わっ、うわぁぁ……」
「きゃっ……」
なんと僕がバランスを崩して転倒してしまった。しかも、横にいた晴希も巻き添えにしながら……
「痛たたっ……春日野さん、大丈夫でし……なっ!?」
なんと僕が押し倒した形になってしまい、すぐ目の前には晴希の顔があった。余程、恥ずかしかったのか、晴希は目線を横に反らしてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。すっ、すぐ離れるから……」
「わっ、私なら大丈夫。大丈夫ですから……ふふふっ」
故意じゃ無かったにせよ、嫌な思いをさせてしまったのでは無いかと、不安に駆られた僕は体を起こすと必死に謝罪をしたが、これを晴希は笑って許してくれた。
「草原さんとゲレンデに来るのは初めてなはずなのに……何故か、前にもこんな事があった気がするんですよね」
「えっ?」
その時、僕の脳裏に浮かんでいたのは、スーパーの事務所で晴希と一緒に転んでしまった時の事だった。
『こっ……こんな場所だし、恥ずかしいけど……直樹さんが求めるなら、私は受け入れるよ』
『あわわっ……ごっ、ごめん。えっとその……そういう事じゃ……えっと……』
――あの時は勝負に負けて、晴希と手を繋ぎながら、見つめ合ったんだよな。
懐かしい記憶が脳裏を駆け巡ると、愛おしさのあまり、つい抱き締めようとしてしまったが、不思議そうな顔で僕を見る晴希に気付き、我に返った僕は開いた手を静かに下ろし、そのまま握り締めた。
――今の僕に、晴希を抱き締める資格は無いんだ。
その後、レッスンに戻った僕は、晴希の懸命な指導もあり、基本技の『木の葉落とし』をマスターする事が出来た。
「草原さん、上手、上手!!」
「いや、春日野さんの教え方が上手いからだよ」
晴希に誉められたのが、嬉しくて僕は頭を搔きながら照れ笑いをしていた。
「少し休憩したら、今度はリフトに乗って山の中腹まで行ってみませんか?」
「うん、そうしようか」
レストハウスまで戻ると僕はポケットの中から、小さなガマ口財布を取り出し、自販機へと小銭を入れた。
「滑り方を教えてくれてありがとう。良かったら何か奢せてよ」
「えっ? 良いんですか? 嬉しいな……ふふふっ」
まるで子供の様に喜ぶ晴希を見ていると、バイト初日の自販機での勝負を思い出してしまい……
『なぁ、晴希。この自販機を使って勝負してみないか?』
『別に構わないですけど……』
気付けば僕の目からは涙が溢れていた。
そんな様子を見ていた晴希は、心配そうな顔をしながら近付いてくると……
「あのぉ……草原さん、大丈夫ですか」
「えっ、あっ……大丈夫、大丈夫。目にゴミが入っちゃっただけだから……」
咄嗟に誤魔化した僕だったが、晴希はレッスンが少し厳し過ぎたのでは無いかと心配していた。
「春日野さんのお陰でスノボーを満喫出来てるよ」
「だったら良いんですけど……あっ、ジュースご馳走様でした。そろそろ行きましょうか」
ジュースを飲み干した僕達は、リフトへと向かう事にした。
― リフト ―
「草原さん、風が気持ち良いですね」
「うっ、うん……」
僕に取っては初めてのリフト……高さや揺れにも驚いたが、何よりも晴希との距離が近い事に動揺していた。
するとリフトが突然、止まってしまい……
「うっ、うわっ」
「ふふっ……突然だったから、ビックリしましたね」
駆動力を失ったリフトは、まるで無重力空間……咄嗟に手摺へしがみついてしまったが晴希は、この状況を笑っていた。
中々、再開しないリフト……
二人だけの時間が続く……
『良かったら、一緒に入ってくか?』
『うん』
それは、まるで……
あの日の相合傘の様だった。
「草原さんには、恋人とかいるんですか?」
「好きな人はいるけど……もう振り向いて貰えないかも知れないんだ」
晴希の唐突な質問に目を丸くして驚いた僕だったが、顔を俯けると寂しそうに返した。本当の晴希には、もう会えないかも知れないと思ったから……
「そっか……でも、まだ振られた訳じゃないんですよね。良かったら私、応援しますよ」
「うん……ありがとう」
その無垢な優しさが、今の僕には古傷を抉られる様に痛かった。暫くするとリフトは動き出したのだが……
「好きな人は、何て名前ですか? 相性を占ってあげますよ」
「いや、名前はちょっと……」
「じゃあ、イニシャルは?」
「……HKかな」
「ふふっ、私と一緒ですね」
「ぐっ……偶然だよ」
晴希に近付けば近付く程に、その優しさと眩しさに妬かれてゆく……僕の愛は膨らんでゆくばかりだった。
― レストハウス ―
「二人共、遅いな」
「ナツ、時間には厳しいはずなのにね」
約束の時間になっても夏稀達が現れず、不安を感じていると如何にもチャラそうな男が晴希に近付いて来て……
「お嬢さん……今、1人? 僕と一緒に遊ぼうよ」
「いや、お友達と来てるので……」
横にいる僕には目もくれず、この男はナンパして来たのだ。晴希もやんわりと断ったが、男はしつこく誘いを続けてくる、見兼ねた僕は……
「止めろよ。晴希だって、嫌がってるだろ」
あまりにも咄嗟の事で、つい名前で呼んでしまったが、頭に血が上っていた僕は気にする事もなく、激しく威嚇した。
そんな僕に対して男は……
「えっ、もしかしてお父さんですか、若いッスね。娘さんを僕に下さいよ。あはは……」
「違う。晴希は、僕の……うぐっ」
「草原さん!!」
すると腹部に強烈な痛みが走った。どうやら男が強烈なボディブローを浴びせて来た様だ。
警戒していなかった事もあって、鳩尾へと入った拳は強烈に内蔵を圧迫し、胃酸が喉元まで逆流してくる。そのあまりの息苦しさに……気付くと、僕は膝を付いていた。
すると男は晴希の肩に腕を回し、無理矢理連れ去ろうとしたのだが……
「ごっ……ごめ……さい。ごめん……なさい」
「なっ、何だよ。この女……」
突然、虚ろな目で人形の様になった晴希を見て違和感を感じた男が、手を放すと……
「テメェ、ハルに気安く触ってんじゃねぇよ」
目の前には、目を血張らせた夏稀が立っていた。男はヘラヘラとした様子で夏稀に近付くと……
「あれっ、君も俺に興味あるとか? 強気な女も唆りますな……えっ?」
「おい、貴様。誰の女に手を出してるのか分かってんのか?」
「いひぃぃ……すいませんでした」
すると、政斗が男の頭を後ろから鷲掴みにしていた。あまりの恐怖に目を泳がせた男は、そそくさと逃げてしまった。
「ふははは……遅くなって、すまなかったな」
「お前がコース外に抜けるからだろ。崖から落ちて、危うく死に掛けたんだからな」
二人の出現で事なきを得た訳だが、またしても晴希を守れなかったと己の不甲斐なさに、僕は落胆してしまう。
昼食を終えると夏稀達は、また頂上へと向かってしまい、再び取り残されてしまった僕達だったが、さっきから妙に晴希の視線を感じていた。
もしかしたら、さっきの男のせいで不安に思ってるのかも知れない……
「さっきはごめんな。ちゃんと守ってあげられなくて……」
「そんな事無いです。草原さん、凄く格好良かったですよ。私、草原さんの想ってる人が羨ましくなっちゃいました」
少し赤くなった晴希の顔を見ていると、急に胸が熱くなり、僕の心も揺らいでしまっていた。
「ははは……まあ、そうは言っても彼氏がこんな年上じゃ嫌だろ」
「恋愛に、年齢は関係無いですから」
嘗てと同じ様に、真っ直ぐ見つめて来る晴希の瞳に心を射ぬかれた僕は、もしかしたら記憶が戻らなくても、このままやり直せるかも知れないと淡い期待を寄せたが……
「実は私、高校を卒業したら結婚するんです。お父さんが決めた人と……」
結婚の話になると、途端に晴希の表情は暗くなり、今にも泣き出しそうになった。本当は冨幸となんて結婚したく無いのだろうと察していた僕だったが……
――ごめん。今の僕には何もしてあげる事が出来ないんだ。
このまま触れる事が出来なければ、一緒になったとしても不幸にしてしまうと、僕は己の無力さをただ呪うのだった。
※二人の転倒エピソードは『11話 レッドストリングス』を御覧ください。
※自販機の勝負は『10話 タクティスフェイト』を御覧ください。
※相合傘のエピソードは『16話 アイラブレラ』を御覧ください。




