57話 キャンディマン
和訳『甘い誘惑と危険な罠』
― 晴希の家 ―
ピンポーン……
「あっ、ナツ。明けまして……は言えないんだったよね。何かあったの?」
「止めさせろ」
玄関へと走って来た笑顔の晴希に言い放ったのは、怒りに満ちた一言だった。夏稀の反応に戸惑いを隠せない晴希は、苦笑いをしながら……
「ちょっと待ってよ。ナツは、いったい何をそんなに怒ってるの?」
「草原さんの事だ。無謀な計画で、冨幸に近付けば……きっと取り返しがつかない事になる」
鬼気迫る顔で迫る夏稀は、必死で危険を主張したが、本気にしていないのか晴希は軽く笑うと……
「ナツはオーバーだよ。お祖父ちゃんじゃ無いんだし冨幸君とは言え、そんな酷い事をする訳が……」
「ハルは分かって無いんだ。アイツにヤラれた政斗の右手は……もう二度と動かないかも知れないんだぞ」
「えっ!?」
夏稀の話に目を丸くして驚いた晴希は、そのまま俯いてしまう。まさか、そんな事になっていようとは、思いもしていなかったからだ。
「ごっ、ごめん。私のせい……だよね」
「違う……ハルのせいじゃ無い。だけど、これ以上、アイツに関われば草原さんにも危険が及ぶ事になる。取り返しのつかなくなる前に……」
夏稀は言葉に詰まった……晴希があまりにも、悲しみに満ちた顔をしていたからだ。
――確かに、ナツの言う通りかも知れない。でも私は……
この計画は晴希に取っても、千載一遇のチャンスだった。明日を逃せば、きっと冨幸の呪縛から一生逃れられ無くなってしまうからだ。
「我が儘だって事は分かってる。それでも、これは私に取っても最後のチャンスだから……ううぅぅ」
「あっ……」
その場で泣き崩れた晴希を見て、夏稀は深い罪悪感を覚えていた。光を追い求め、一縷の糸を手繰っていた晴希を再び、深い暗闇の中へと突き落としてしまったのだから……
「帰って……」
「……ハル」
「もう帰ってよ……」
晴希はそう言いながら夏稀を外へと押し出すと、バタンと扉を閉めてしまった。
――俺はハルの気持ちを全然、考えて無かった……ごめんな、ハル。
夏稀は悔いていた……
感情のままに晴希の計画を否定した事を……
そして、己の無力さを……
― 自宅 ―
家に帰った僕は、思い出していた。夏稀の去り際の悲しそうな顔を……
――どうして、協力してくれないんだよナツ……
チャラチャラン……
僕が悲しみに打ちひしがれていると、スマホに一通のメールが届いた……どうやら晴希の様だ。
「なっ!?」
【催し物も発表されて無いし、直樹さんを危険に晒す訳にはいかないから、明日の計画は中止しましょう。今日はもう寝ます、おやすみなさい】
僕はメールの内容を見て目を丸くしながら驚いていた……あまりにも突拍子もない中止連絡だったからだ。
――どうしてだよ、晴希……
どうにも煮え切らない僕が、晴希へ講義をしようとスマホを手に取った時だった……
ピンポーン
突如、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間にいったい誰だろう?
――もしかして、ナツなのか?
夏稀が考えを改めて、会いに来てくれたのかも知れない。微かな希望を胸に扉を開けると、そこにはいたのは……
「あはは……随分と貧相な部屋だね」
「なっ、何でお前がココに……」
扉の前に立っていたのは……なんと冨幸だった。その顔には、まるでピエロの様に不気味な笑みを浮かべていた。
「ほら、コレっ」
いったい冨幸は何の目的で家にやって来たのか?
そもそも……どうやって、この家を調べたのか?
僕が思考を巡らせていると冨幸が一枚の紙を手渡して来た。
「何だよ、コレ?」
「あははは……僕からのお年玉だよ」
冨幸が手渡して来たのは、なんと新年祝賀会の入場チケットだった……しかし、これはどう言う風の不着回しなのだろうか?
「何故、僕に?」
「あははは……特に深い意味は無い。でも、君には是非、見に来て貰いたくてね。僕と晴希の婚約発表会を……」
「なっ!?」
――こんなの、嘘に決まっている。
「どっ……どうせ、それも嘘なんだろ?」
「嘘じゃ無いさ。僕等は来年には、籍を入れるんだよ。お偉いさん達には前広に報告しとかないと失礼じゃないか?」
このまま何も出来なければ、二人は来年には籍を入れる事になるだろう。大富豪の御曹司である冨幸が、婚約を公表したい気持ちも分かるのだが……
「晴希の……晴希の気持ちは、どうすんだよ」
「あははは……何をそんなに怒ってるの? そんなの別に良いじゃん、晴希は僕の所有物なんだからさ」
考えれば考える程に、込み上げる激情……
僕の握った拳は、怒りで震えていた。
「お前なんかに……晴希は、絶対に渡さないからな」
「だったら阻止してみろよ。大切なバイトを放棄してまで僕の家に来る勇気があるならね」
「どっ、どうしてその事を……」
僕が勤務変更を出来なかった事を冨幸は知っている様だが、いったい誰が情報を漏らしたのだろうか?
――まっ、まさか……
思い当たる人物は二人、店長と添田だ。陰ながら、冨幸に買収されていたのでは無いかと考えを巡らせると、今まで感じていた違和感が、淡雪の様に解けてゆく様だった。
「まあ、そんな訳だから是非、来てくれたまえ。超一流シェフのosethiぐらいは振る舞ってあげるからさ」
「あっ、ちょっと……」
そう言うと、冨幸は颯爽と出て行ってしまった。
僕がその場で、暫く固まっていると……
ピンポーン
再び、玄関のチャイムが鳴った。
恐る恐る扉を開けると、冨幸が笑いながら……
「あははは……言い忘れたけど、これはサプライズだ。呉々も晴希には黙っておいてくれよ。以前、婚約発表会から逃げられた事が……」
バン……ガシャ
あまりにも身勝手な言い分に、苛立ちを隠せなかった僕は、無言で扉を閉めると鍵を掛けた。
ピンポーン……
ピンポーン……
ピンポーン……
ガシャガシャ……
ドンドンドン……
妬けになっているのか何度もチャイムを押しまくる冨幸……終いには、ドアノブを無理に回したり扉を叩き出した。
――もう、しつこいな。
「もう、いい加減にしろよ。近所、迷惑になるだろ」
「あぁん?」
ついに我慢が出来なくなった僕が扉を開けると、目の前にいたのは……
― 晴希の家 ―
――ごめんね……直樹さん。私は……
晴希は布団の中で一人、涙を流していた。
秘密の計画は、水の泡……
何も抵抗出来ない無力な自分……
冨幸に対しての抗う事は叶わず、未来に絶望した晴希は、あの時の事を思い出していた。冨幸との婚約発表が、嫌で飛び出したあの日の事を……
― 晴希の回想 ―
「えっ? だって、あの誓約書はナツが……」
「あれは偽物じゃ。そう拒むで無い……慶恩寺の倅は、お前を触れられる唯一の異性では無いか。それに春日野家の未来を見据えれば、大変に喜ばしい事なんじゃぞ」
婚約発表を影で計画していたのは、晴希のお祖父さんの策略だった。
「それはお祖父ちゃんの身勝手な考えだよ。私、冨幸君とは、絶対に一緒にならないから……」
「おっ……お嬢様どちらに」
――冨幸君と結婚するくらいなら、私は……
この日、晴希は逃げ出した……
降り出した雨を物とせず……
ただひたすらに……
目に溜めた涙は、雨へと混じりながら静かに消えて行った。涙と雨を服の裾で擦りながら走っていると……
「うわぁ」
「きゃー」
ドサッ……ドサッ……
交差点だ誰かとぶつかり……
その場で座り込んだ二人……
これが僕達の……出会いだった。
・
・
・
運命によって導かれた二人を再び迫う危機……それぞれの想いを胸に、夜が明けた。




