51話 タースティレイク
和訳『安らぎの喪失』
― 5年前(晴希 中学1年生) ―
隣組の担任だった立花は明るくて、誰にでも優しく、情に厚い……そんな理想の教師だった。
晴希も少なからず、好意は抱いてはいたのだが、恋愛には発展しなかった……何故なら立花には婚約者がいたからだ。
晴希も立花の幸せを願い、このまま普通に結婚するものだと思っていたのだが……
――えっ? 何、これ?
その日、教室の黒板には立花と晴希の写真が所狭しと貼り付けられていた。
『手を繋ぎながら見つめ合う写真……』
『ベンチで寄り添う写真……』
当然、二人は疚しい事などしておらず、実際には、なんの変哲も無い日常の写真を加工した物だったのだが、噂は瞬く間に広がり……当然、晴希のお祖父さんの耳にも入ってしまったらしい。
「慶恩寺の倅以外に、まだ晴希へ触れられる異性がおったとは……疑いしきは罰する、念には念を入れとおくかのぉ」
躍起になったお祖父さんは、教育委員会に駆け込むと、圧倒的な権力と財力を乱用して立花を学校から追放してしまうのだった。
だが、この話……これで終わりでは無かった。
地方へ左遷させられた立花には、更なる悲劇が待ち受けていた。
心機一転、気持ちを切り替えて教室教室へと向かった立花だったが、黒板に張り巡らされた身に覚えの無い女性との卑猥な写真に驚愕した。
これは偽物……つまり合成写真だ。
だが、悪い噂は瞬く間に広がり、変態教師のレッテルを貼られてしまった立花は、ついにはノイローゼとなり、教師を辞めてしまう。
そして、それから数日後……
― 立花の家 ―
ギシッ……ギシッ……
窓から風が入る度に……
何かが軋む異様な音……
真っ暗な部屋の中で、立花は……
トントン……キィ……
すると、扉をノックして部屋へと入ってきたのは、婚約者の女性だった。どうやら、立花が心配になって駆け付けた様だが……
「ちょっと、いるなら電話ぐらい出てよ。私、心配したん……えっ?」
夢だった教師の道を断たれ、未来を見る事が出来なくなってしまった立花は……ドアノブで首吊って死んでいたらしい。
「うっ、嘘でしょ。ねぇ、幸樹君、目を覚ましてよ。ねぇ……お願い、幸樹君っ」
奇しくも立花の第一発見者は婚約者であった……亜紀だった様だ。
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神妙な面持ちで話を聞いていた僕に、晴希は……
「立花先生の訃報は風の噂で聞いたの。最初は信じられ無かったけど、亜紀先生も暫くの間、学校を休んでたから、本当だって事が分かって……」
「…………」
確かに、立花は学校から追い出された事が発端で自殺したのかも知れないが、それだけで晴希のお祖父さんのせいにするのは飛躍し過ぎているのではないかと思っていると……
「私も最初は信じられなかったんだけど……全部、あの人の仕業だったの」
お祖父さんの嫌がらせは合成写真だけに留まらず、他の教師達を買収して立花を孤立させると、精神的に追い込んで行ったらしい。
立花は夢だった教師を辞めると次第に引き籠る様になり、唯一の連絡手段だったスマホを盗みだすと、偽装した亜紀の手紙で別れ話までデッチ上げたそうだ。
極限状態だった立花は、ドアノブにロープを括ると、静かに首を吊って死んでしまったらしい。苦しくも、それは亜紀が到着する……ほんの30分前の出来事だった様だ。
「あの人が先生のスマホを持ってたから間違い無いと思う。立花先生は……亜紀先生の婚約者はね、私のお祖父ちゃんに殺されたんだよ」
「晴希……」
晴希は、自分のせいで立花や亜紀を不幸にしてしまったと泣き続けていた。そんな晴希を慰め様と僕が近付くと……
「だからね……もう私には関わらない方が良いの。私、直樹さんまで不幸にちゃったらって思うと……グスッ」
「…………け無い……」
「えっ?」
涙を流しながら訴え掛ける晴希に……
僕は俯きながら小さな声で呟く……
「良い訳、無いじゃないか。それじゃ晴希があんまりにも……可哀相だ」
「……直樹さん」
晴希の家庭の事情を知って、本当は凄く不安だった。もしかしたら殺されるかも知れないと思うと恐怖で体が震えた……
だけど、こんなに寂しそうな顔をしている晴希をもう一人にはしたく無かった……晴希にだけ、こんな運命を背負わせたく無かったのだ。
「僕はそれでも、晴希と一緒にいる道を選ぶよ。どんな事があっても絶対に屈しないから……約束する」
「直樹さん……うわぁぁん……」
余程、思い詰めていたのだろう……僕の言葉を聞いた晴希は、力無く座り込むと激しく泣き叫んでいた。
そんな晴希を抱き寄せると……まるで僕達の復縁を祝福するかの様に、白い雪達が舞い降りた。
「好きだよ……晴希」
「私も……直樹さんの事が大好きです」
チュッ
イブの夜……
静寂の屋上で……
僕達は、優しいキスをした。
「あっ……ごめん」
「ふふっ……何で謝るんですか」
初めてのキスは、少し甘いミントの味がした。僕は照れていたが、晴希は嬉しそうに笑っていた。
こんなに幸せそうな晴希を見たのは……
一体、いつ以来だろう……
「晴希の唇は、その……柔らかいんだな」
「そうかな? 普通だと思いますけど……」
そこには小さな幸せが広がっていた。何気無い会話をしながら、僕達は今、この瞬間の幸せを噛み締めていた。
「そう言えば、トライフルランドで言ってた晴希のファーストキスの相手って誰だったんだ?」
「んっ?」
此処ぞとばかりに、僕は気になっていた事を聞いてみる事にした。きっと、このタイミングを逃せば一生聞く事が出来ないと思ったからだ。
「ええっ? 直樹さん、覚え無いんですか?」
眉を曲げると……
ジト目でずっと見つめてくる晴希……
何だか少し、怒っている様に見えた。
――なっ……何だよその反応は?
僕は少し焦った顔をしながら後退りすると、晴希はふぅーっと息吐きながら少し呆れた様子で……
「でも仕方無いですよね。だいぶ酔ってたから……」
「へっ?」
――ま・さ・か……
「私のファーストキスの相手は……直樹さんだよ」
予想外の話に、僕は驚愕していた。どうやら晴希の話では、出会った『あの日』にキスを交わしていたらしい。
― 出会いの夜 ―
「私の乙女を奪って下さい」
「はっ……ハジメテ?……えっ? なななっ……なんて事を……あっ、いや……ダメだ……」
露になる白いパンツ……赤いリボン柄。顔を真っ赤にしながら向かってくるパンツ姿の晴希に、僕は驚きを隠せずに戸惑っていた。
「あっ、ちょっと……ごめん僕が悪かったから……だだだっ、だからその……えっと……」
高鳴る鼓動に僕の呼吸が荒くなると……
バタンッ……
「あっ……ちょっと草原さん、大丈夫ですか?」
ついにオーバーヒートしてしまった僕は、なんとその場で倒れて込んでしまったらしい。
慌てて駆け寄って来た晴希だったが……
「がぁああ……がぁああ……」
突然の失神に驚いた晴希だが、大鼾で寝ている僕の姿を見て、少しホッとしたらしい。
とは言え、このまま地べたに寝かしていては、風邪を引かせてしまうと、晴希はベッドへ移動させる事にした様だが……
「うぅーん、草原さんって結構重いんだなぁ……よいしょ、よいしょ……ふぅ……ああっ!!」
僕をベッドに運び込んだ晴希が一息していると……晴希は、体制を崩して倒れてしまったらしい。
「痛たたっ……あっ、ごめんなさい。草原さん、大丈夫だったかな」
――この人が……私の運命の人。こんな気持ち始めてだよ。
晴希は優しく微笑みながら、僕の寝顔を暫く覗き込んでいたらしいのだが……
「きゃっ……」
起き上がろうとした瞬間に寝惚けた僕が晴希に抱き付いたらしい。そのまま身動きの取れない晴希に迫ると……
「うーん、晴希ちゃん……チューしよ……むにゃむにゃ……」
「えっ?」
なんと、僕は口をパクパクとしながらキスを要求したそうだ。一瞬、戸惑った晴希だったがクスリと笑うと、僕の頬に優しく手を宛てながら……
「ふふっ……じゃあ、私のファーストキス、受け取って下さい」
チュッ
晴希は迷う事無く、僕と唇を合わせたらしい。どうやら、この時から僕の事を名前呼びに変更した様だ。
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唖然呆然と立ち尽くしていた僕は、現実を受け入れる事が出来ず……
「うっ……嘘だ……」
「嘘じゃ無いです。私のファーストキスだったんですからね」
秘かに嫉妬していた晴希のファーストキスの相手がまさか自分だったとは思いもせず、中々受け入れられないでいたが、これが真実だと分かると……
「ごめんな、付き合ってもいないのに無理矢理キスをせがんだりして……」
「ふふふっ……相手が直樹さんだったから、別に嫌じゃ無かったですよ。それに、ほらっ……私達、こうして一緒になれたじゃないですか」
晴希は、僕の腕に手を回すと優しく寄り添って来ると、ふわっと香る晴希の匂いが心地良かった。
そして、僕達はお祖父さんを説得しようと、強く意気込むのであった。
※ファーストキスのエピソードは『3話 オールドメイド』と『4話 モーニングロッキー』の間の出来事になります。




