84 宍原の戦い①
永禄八年六月十日
武田家は三国同盟の破棄を一方的に宣言。軍勢を率いて駿河侵攻を開始。
当時、甲斐から駿河に最短で南下するには、「長峰三里」と呼ばれる難所があり、大軍での移動は困難を極めた。それ故に、武田信玄は甲斐から駿河に流れる富士川沿いに迂回南下し、内房(富士川西岸・現富士宮市)から駿河に入る。
しかし、そこで物見よりの連絡が入り、庵原郡宍原にて今川軍が陣を敷いていると報告された。
「……早いな」
意外な展開に、武田信玄は声を出した。今回の駿河侵攻は時間との勝負でもあった。三国同盟破棄により、北条家が兵を出している。牽制である事は明白だが、駿河での戦いが長期化すれば、いつ本腰を入れるか分かったものではない。
それゆえに、足の速い騎馬隊六千を先行させ、僅か6日で甲府から駿河に入ったのだ。
敵の数は四千程。こちらの数は六千と多いが、強行軍の武田軍と宍原ですでに陣を敷いた今川軍。数ほどの差はない。騎馬であるがゆえに人馬共に疲労している。そして疲労は、騎馬の長所である機動力に大きな影響を及ぼす。ここで無理をすれば、今後の駿河侵攻に差し障る。
「後続は?」
「もう、一日二日はかかるかと」
部下の言葉に、武田信玄はなにか奇妙な違和感を覚えた。
おそらく、今川軍も後続の部隊が合流する事になるだろう。今のうちに個別撃破する事もできるが、武田信玄はすぐにその選択を捨てる。
武田信玄は、遠江でも徳川家と争う今川軍が今回の戦で用意できる兵数を、詳しく計算していた。
おそらく一万を超える程度。こちらの後続四千を加えれば、数では互角。違うのは、武田信玄が用意したのが、武田軍の象徴ともいえる精鋭の騎馬隊だということ。
北条家が甲斐に差し向けた兵が牽制である事を見抜き、腹心でもある内藤昌豊と原昌胤に数を揃えた足軽のみを預け対処している。
武田の精兵なら、駿河の兵をほぼ同数で圧倒する事ができる。そして、今川軍の1万余が倒れれば、駿河に兵は残っていない。
『仮名目録』により膨大な兵力を有している国だからこそ、武田信玄は今川軍の優位である数に何よりも注意していた。
三河の領土を失い、総兵数の三分の一を失った。さらに、徳川家に対処する為に残りの半数を動かせない。東駿河の豪族を内通させこちらに付ける事で、本拠地駿河の兵をも分断している。
「こちらも陣を敷け。後続と合流次第決着をつける」
「……ここまで積極的な将でしたか。今川氏真は」
「若いのさ。牽制の策が裏目に出たのよ」
その言葉に、武田信玄は視線を向ける。武田家きっての知恵者といわれる真田幸隆の言葉に、信玄が何かを言う前に小山田信茂が笑う。
当初、武田家が駿河を侵攻するにあたり、富士川沿いに内房から一気に海にまで出る予定であった。海沿いに駿府へ向かうには、難所である「薩埵峠」がある。あの室町幕府を作った足利尊氏が、弟の足利直義と戦った場所でもあり、守りに適した場所である。
そこで守りを固め、北条家と連携して武田軍を挟み撃ちにするという策を取る可能性も今川家にはあった。
しかし、北条家が甲斐に牽制の兵を出してしまい、駿河で武田軍の背後を突くには時間がかかる。
その為に、薩埵峠での防衛をあきらめたのだろう。
すべては想定の内。
しかし、それでも武田信玄の中には、なにか言い知れぬ違和感があった。
「一手早かったな」
『風林火山』の旗印がそのまま攻めかかるのではなく、警戒しつつ展開していくのを見ながら、今川家重臣庵原忠胤は大きく息を吐いた。
もしここで武田軍が攻めてくれば、相手は歴戦の武田の騎馬隊だ。厳しい戦いになる事を覚悟していた。
「早かったのは一手だけですか?」
忠胤の言葉に、伝令とのやり取りを終えた息子の庵原元政が尋ねる。
伝令からは、明日の午後には駿河からの援軍と合流できる旨が記されている。すべては予定通りだ。
「元政。お前は落ち着きすぎだ。相手はあの武田信玄だぞ」
「父上だって、承豊の話は聞いていたでしょう」
「だからこそだ。ここで武田に攻められたら、すべて水の泡だ」
そう言って肩をすくめると、父親と同じ位置から、同じように武田家の動きを見る。
「昔、同じことをあいつに言ったんですよ。「もし違っていたらどうするんだ?」ってね」
「なんと言われた?」
「あいつの返事は、「そのためにお前がいるんだろ」でしたよ」
「はあ?」
素っ頓狂な返事をする父親を見て元政は笑う。
「もしここで武田軍が攻めて来たら、父上は戦うでしょう」
「……」
「だったら、何も変わらない。策の成否と我等の行動は何も変わらない。そういう事らしいです」
言われて納得する。どのみち自分に出来る事は、武田軍への対処しかない。さっきも自覚したが、もし武田軍が攻めてきたのなら、自分は劣勢になろうとも戦う覚悟を決めている。
その判断に、息子の学友から聞かされた策の成否は関係ない。
「なんだか、十英殿の策を聞いたから、余計な不安が増えたような気がするな」
「それはいつもの事じゃないですか父上」
言われて思い出す。あの遠州騒乱においても、十英殿の指示に従い武田信虎を泳がせて一網打尽にした。しかし、一手間違えれば取り返しのつかない事になっていた。根拠を聞いて納得こそしたものの、事が成るまで気が気ではなかった。
「お前は不安に感じんのか?」
「まあ、付き合いが長いですからね。余計な事はせずに、自分に出来る事をやるだけですよ」
「それもどうかと思うぞ」
信頼と言うべきか、責任放棄というべきか、何とも言えない返事に父として忠胤は顔をしかめる。
可笑しそうにそれを見ていた元政も、ふと何かに気が付いたように笑顔を消す。
「ああ、でもオレも一つだけ懸念がありました」
「ほう。それはなんだ?」
「実はですね……」
父親の問いに、肩をすくめて答える元政。その答えを聞いて忠胤は口をへの字に曲げた。
「……聞かなきゃよかった」
自分ではどうしようもない不安が増えただけだったのだ。




