70 家庭板は乱世でも容赦ない
永禄六年六月
今川館より呼び出しを受ける。とはいえ、正式なものではなく通された先は、いつもの飛車丸の私室だった。
しばらくすると、飛車丸が入ってくるが、いつも陽気な飛車丸の顔はオレを見ると複雑な表情をする。
飛車丸はそのまま、机に置かれた文箱から一通の手紙を取り出し、オレに差し出す。今川家は仮名目録に他の国からの手紙は一度今川家に見せる事が定められている。つまり、これはオレに宛てられた他の国からの手紙という事だ。
誰から?当たり前だが、オレに身内はいない。前に出した三河善住寺の住職からの返事は受け取っている。
差出人をみると、案の定見知らぬ名前が書かれていた。
『築山御前』
いや、誰だよ。
「オレの義理の妹に当たる。今いるのは三河だ」
……瀬名の方?聞いてみると、敵対する今川家の姫である為に、居城の岡崎城には入れられず、築山に別館を構えて生活している為に、築山御前と呼ばれているらしい。足しげく夫の松平元康は築山の館に通っているらしく、仲は悪くないそうだ。
そういえば、捕まった時に子供が出来たと言っていたな。
うん。地獄に落ちろ。
で、問題は何で松平家の正室様からオレ宛に手紙が来るのかだ。
中を開いて読んでみる。
まず、オレが三河で捕囚の身になっていた事を知り、安否を心配していたそうだ。まあ、岡崎城に入れない築山御前からすれば、オレが三河で捕まったことが伝わるのには時間がかかるだろう。駿府で人質生活をしていた頃に挨拶をし、人質交換で三河に行く時まで気にかけていたのだ。オレが捕まり尾張に移送された事を知って心配をかけたようだ。おそらく、石川数正あたりから知ったのだろう。
こうして手紙を出されるほど心配されていたことに感謝しつつ続きを読む。
そして、その後に続く本題を読んで後悔した。
内容を端的に述べるとこうである。
『元康様が浮気している。ヒドイ』
「……」
「…」
子供ができたんじゃなかったっけタケピー。いや、妊娠中はいちゃいちゃできないから浮気に走るとか聞いた事はあるけどさ。三河統一後のゴタゴタで忙しいのは分かるけどさ。そういうのはもっとこう……あるだろう。なあ。
すでに手紙の中を知っている飛車丸に救いを求めるように視線を向ける。しかし、飛車丸の視線も雄弁に語っていた。「ま・か・せ・た」と。
冗談じゃない!
「あのな飛車丸。どうみたって独身者のオレが返すべき話じゃないぞ。お前がしろよ、自慢の嫁さん持ち」
「バカを言うな。オレは嫁一筋が自慢だ。こういった件は想像も出来ん」
「いやいや、お前の周りには百戦錬磨の家臣達がいるだろ。彼らから話を聞けばいいじゃないか。名君というのは、そうやって問題を解決するらしいぞ」
あえて飛車丸を持ち上げる。厄介ごとを押し付けるには相手を誉めておだてるのが基本。
だが、飛車丸は明確に拒否する。
「確かに、何度かそういった話を聞いた事はある。だからこそ至った結論はひとつだ。こういった問題には首を突っ込むべからずだ」
「お前の身内の問題に、オレを突っ込もうとしているお前の態度はどうなんだよ」
「部下に仕事をふるのも名君の仕事らしいぞ」
ここで飛車丸のインターセプト。まだだ、まだ終わらんよ!
「女性関係なら、女性にでも回せよ。女性経験のない坊主に回すとか、お前は鬼か」
「冗談じゃない。うちの嫁にこんな話をして、藪をつついたらどうする。そうでなくても今は大事な時期なんだ」
腕を振り回して力説する飛車丸。最近、飛車丸はひとつ罪を重ねていた。正妻の早川殿が第二子を懐妊したのである。
ちなみに、オレが捕虜になっていた時期に仲良くしていたのが原因らしい。
地獄に落ちろ。
飛車丸は、己の罪から目をそらし、他人を不幸に陥れようとする大罪人なのだ。
「お前は、アホみたいに書物を読んでいるのだろう。それで、ササッと解決しろよ!」
「師匠の書院に男と女の泥沼関係に対処する書物なんかあるわけないだろう。空想だって、当然現実だって総動員する知識も経験もないよ!」
言っていて涙が出そうであるが、悲しいかなコレが現実だ。
女性といちゃいちゃする奴等を呪う事二十数年。呪詛返しでも受けたのだろうか。呪うべき相手の問題解決を依頼されたでござる。
正当だが醜い言い争いを続けたが、結論として組織とは縦社会であり、御伽衆という役職で組織に組み込まれたオレは、主君の命令に逆らえないのである。
とりあえず、忠誠を誓った名君の尻に蹴りを一発入れておく。
地獄に落ちろ。
館に戻って内容を読み返す。手紙を読むだけなのに目頭を押さえて眉間に皺を寄せる。
「暗号とかで、重大な秘密が隠されているとかじゃないよな……」
ロウソクの明かりに透かして見るが、文字が浮き出るようなトリックはない。
もちろん現実逃避だ。もしそうなら、宛先は今川氏真になるだろうし、和歌に造詣の深い氏真なら、そういった文面に秘められた内容を読み解いているはずだ。
つまり、現実は非情であるということだ。地獄に落ちろ。
現実逃避をやめて問題を解決させよう。
まずコレは愚痴だ。それは築山殿も理解しているだろう。
何せ、今川家と松平家は敵対している。今川家側の要求を松平家側が聞く必要はないのだ。
故に、この手紙に対して必要なのは、明確な対処法ではなく、愚痴に付き合う聞き手上手な回答である。面と向かってであれば「うんうん」と適当に相槌をうつだけでいいのだが、手紙となると相槌だけでは文面は埋まらない。
次になぜそれが今川家に来たのか。
おそらくは築山御前すなわち瀬名の方様が今川家の娘であるという事だ。敵地である三河松平家に縁者はなく、駿府からついてきたのは女中ばかり。外に愚痴を言う相手がいないのだろう。夫の転勤先についてきてママ友がいない状態だ。子供はまだ手がかかるが、自分は臨月で、夫は繁忙期でなかなか家にいない。
そんな状況に不安になるのも仕方がない。
実の母に相談するというのもあるが、自分は敵地である三河に出向いた娘である。ヘタに地位のある両親との関係を密にすると、今川家からの内通を疑われる可能性がある。
程よく疎遠で、程よく交流があり、さらに今川家当主である氏真と仲の良いオレを標的に選んだことを考えると、あのはかなげな印象を吹き飛ばすように結構したたかだぞ。
そんな正室を持つタケピーを「がんばれよ」と応援したくなったが、考えてみればそもそもの元凶がタケピーなので、「地獄に落ちろ」に変えておく。
状況の分析はともかく、避けられぬ現実に対応しよう。
まず、築山殿を落ち着かせる。愚痴を聞くのと同じだ。
「元康が浮気するなんて、本当にけしからん。なんてひどいヤツだ」的な言葉から始まり、手紙にあった不満をそのままリピートするように書き記す。その文末に、タケピーが祝言の時、美人の嫁をもらったと散々自慢していた分際で、こんな事をするなんて。と、まとめつつノロケを入れる。
次に、言い訳。
とはいえ、正妻を大事にしていないわけではない。人質時代の短冊のやり取りや、人質交換のために戦を起こしている点を記し、思い出補正を刺激しつつ妻と子供を大切にする人間であると伝える。
で、最後に、男とはどうしようもない生き物なのだと弁解。
綺麗な女性を見れば視線を向けてしまうし、イチャつく奴がいれば、「地獄に落ちろ」と考えるのが人間なのだ。
そして、正室には正室の仕事がある。一時の気の迷いで浮気する事もあるが、側室として受け入れる事も想定して、自分では足りない所を補うよう受け入れる事も考慮して欲しい。
と言う形で書き終えた。
「拙僧も男であるゆえ、煩悩に苦しむ事もある。心を落ち着ける事で克服しているが、誰でもそれが出来るわけではない。気の迷いは誰にでもある」
的な自虐とも取れる文章を書きながら、心の中で「オレは何をしているんだ……」と哲学的深い思考にはまる。
この一枚の返事を書く為に、筆を投げ捨てる事3回。壁に頭を打ち付けること1回。盛大に投げ出した足の指が壁にぶつかる事1回。
とりあえず要約しよう。
タケピーよ。地獄に落ちろ。
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