154 都合よき事
「…武田家を反織田家にしたい。そういう事か」
そう言ってこちらを睨む武田昭信の言葉を嗤う。
そう。織田家の敵となった天台宗を甲斐でかくまう事で、天台宗を甲斐に封じることができる。そうできるように準備したし、そうなれば武田昭信もそれを利用するだろう。
しかし、それは比叡山の残党が織田家への反抗をあきらめる事にはならない。
当然、彼らは武田家を反織田家にするべく暗躍するだろう。武田家に織田家と敵対するように要請するだろう。
「おや。それに問題がありますか?」
そして、そうなる理由が武田家にはあった。
織田家と幕府は反目している。
今川家にこれだけ要請があるように、当然武田家へも足利義昭から同様の要請も来ているだろう。
なぜなら、そもそも武田昭信が甲斐武田家の当主になったのは、今の幕府と将軍である足利義昭の後押しがあったからだ。昭信の名前にある「昭」の字は足利義昭から贈られたものだ。
武田昭信が甲斐武田家の当主でいられる理由には、幕府が保証しているからという要因もある。
完全に甲斐を掌握している訳ではない武田昭信にその要請を無視する事は難しい。
さらに織田家と敵対した石山本願寺。先代武田信玄の時代より、武田家と一向宗のつながりは深い。そこに天台宗の扇動まで加わるのだ。
「…」
「先も言ったように、甲斐は織田領とは隣接していません。あるのは徳川領か今川領。しかし、今川家は同盟国。下手に攻めようものなら、北条家が介入してくるでしょう」
とはいえ、幕府からの要請も、天台宗の説得をもってしても、三国同盟を破棄してまで、戦を仕掛けるほどの理由にはならない。
「今川家は、正当な理由なく同盟国を裏切ることはしません。それは、武田家であっても、そしてそれが織田家であってもです」
「幕府の要請であっても正当性はないと?」
「上意(公式命令)であるならまだしも、私的な手紙から察しろというのは、正当な理由にはなりませぬ」
「…」
今川家には何度も足利義昭からの手紙が来ている。その中には、織田家と親しくするのをやめるように露骨に書かれている物もある。
が、それは足利義昭からの私的な手紙であって、征夷大将軍からの命令ではない。
だからこそ、正論で返されても「無礼だ」以外の反論ができないのだ。
そして、現在の足利義昭からすれば公式に命令できないのも事実だ。なにせ、幕府のある京都を守っているのが織田家だ。
似たような状況で、後援する大名に敵対し実際に殺されたのが先代の将軍足利義輝である。
「確かに、北条家と連携を取れば動くこともできるでしょう。実際、すでにそう動いておられるのでは?」
「…」
「そして、今川家にとってはその方が都合が良い」
「北条家はともかく、今川家にとって都合がよいというのは?」
「幕府の意向に従いながら、しかし脅威にならぬ。それは、都合がよいと言えませんか?」
まず大事なことだが、甲斐武田家に他国を相手取って戦ができる力はまだない。
内紛ともいえる甲斐侵攻による被害から一年。かつては戦国最強とうたわれた武田家の戦力はまだ回復していない。
となれば、北条家と協力することが必要になる。そして、その流れは武田家にとっても悪い話ではない。
なぜなら、武田昭信が甲斐を手に入れる際に、協力した北条家が勢力を伸ばしているからだ。現在の甲斐武田家には、古来の武田家に従う勢力と、東の大国北条家に親しい勢力にわかれている。
武田家からすれば、北条家に協力することで、国内の北条派閥と協力体制を取れるなら国内の力を集めることができるのだ。
しかし問題は、立地的に北条家と協力して攻められる場所は今川家の駿河しかない。
信濃徳川家を攻めるには、北条家の軍勢に甲斐を経由させる必要がある。
今の甲斐に北条家の実働戦力を招き入れるのは危険であることは、武田昭信も承知しているだろう。
武田家にとって最良の方法は、国内の北条派閥と協力し、今川家の協力を得て信濃に攻め込むことだろう。
故に、わざわざオレが来て釘を刺したことに意味が出る。
今川家は武田家と北条家と敵対しても、大義は曲げないと告げたのだ。
だからこそ、わざわざ反織田派となる叡山の僧をここにまとめることができるのだ。
「勘違いなされますな。今川家は正当な理由なく同盟国を裏切りませぬ。それは、武田家であろうと同じ事です。しかして、反織田を掲げることが正当な理由でしょうか?」
「なに?」
「おや?武田様が織田家と敵対したからと言って、どうして今川家が敵に回るのです?織田家と同盟と結んでいるのは今川家。武田家と織田家はいかなる盟約も結んでおりません」
「…」
「武田様が反織田を掲げようと、それは織田家と武田家の問題。しかして、武田家と織田家の領土は離れており、争いようがありませぬ」
そして、甲斐武田家だけでは徳川家を攻めることはできない。北条家の支援は受けられても、協力して攻めることはできない。
となれば、武田家が織田家を攻めるには他家の力を借りる必要がある。
今川家が難しいとなれば、越後上杉家。
しかし、信濃にはすでに越後上杉家と親しい村上家がある。先代武田信玄により信濃から追放された村上家が、わざわざ武田家に協力する理由がない。
必要なら、村上家は上杉家に力を借りて信濃を攻めるだろう。
同様に、信濃諏訪家もまた先代信玄の血筋。協力を求めるわけにもいかない。
となれば残りは…
「…そうか、オレに望むのは北条家との仲介…いや、北条家との協力か」
武田昭信がオレの目的に気が付いたようにつぶやく。
武田家だけで反織田家に回ることは難しい。となれば、今川家を反織田勢力にするしかない。そのために必要なのが北条家の協力。
武田家と北条家が反織田派に回れば、今川家は北と東から圧力をかけられることになる。
そして、そこまでしても今川家は反織田に回ることはない。
同時に、反織田家に回ったとしてもそれを理由に今川家は武田家と北条家との同盟を破棄しない。織田家に敵対しようとも、実質争っていないからだ。
幕府の意向に従いながら、しかし織田家への脅威にならぬ。
「まこと、都合がよろしゅうございます」
ただ、織田家勢力とも反織田家勢力ともに、今川家の重要性だけが増す。




