146 小谷城交渉
ムチャな願いかと思ったのだが、羽柴秀吉は意外なほど好感触を示し、小谷城への護衛と案内役を用意してくれた。
羽柴家の手勢30人ほどを同行させて、小谷城へと案内してくれた。
もっとも、今川家からの使者という体を装っているため、織田家の羽柴勢一行は小谷城には入れず、無力なオレ一人で小谷城評定の間へと通されたのだが。
まあ、そうなるために羽柴家に協力を求めたんだけどな。
「お初にお目にかかります。太観月斎と申します」
そう言って頭を下げる。
小谷城評定の間の中央に座るオレに対し、浅井家の家臣が囲むように左右に並び、正面には浅井家当主浅井長政が座っている。恰幅の良い男だが、その表情は険しい。
風通しが良いはずの評定の間は締め切られており、オレが入ると入り口を塞ぐように浅井家の配下が移動する。
つまり、包囲されているという事である。逃げ道はない。もちろん、圧力をかけてくる彼らの視線に友好的な感情はない。
もっとも、それは当然ともいえる。
現在進行形で今川家の軍は浅井家の重要拠点佐和山城を包囲しており、つい先日そこへ向かう浅井家からの救援部隊を壊滅させたばかりだ。
つまり、ここは現在交戦中の敵の本拠地というわけだ。
こんな状況にデジャブを感じる。初めて岡崎城に行った時とかな。とはいえ、慣れてしまったのか、あの頃のような胃袋へのダメージはほぼ感じない。
こんな状況にも慣れてしまうって怖いな(マジレス)。
「して、太観殿。本日はいかなる用件か?」
「佐和山城の降伏を認めてもらいたい」
「何を馬鹿な事を」
オレの言葉に、上座に座る浅井長政は即座に切って捨てる。が、そんなことは想定済みだ。
「城に籠るのは千にも満たず。攻め手は八千。救援の船も沈められ、これで守れると思う方がおかしいでしょう」
数字は少し盛る。この程度はご愛敬である。というか、わざわざ正確な数字を教えてやる必要はないからな。
盛ったとはいえ、戦力差は理解しているのか相手は渋い顔をする。
実際、佐和山城に関して浅井家に出来る事はない。何せ、現状浅井家は小谷城から出て戦う事すらできないのだ。
それは過去の浅井家の行動が教えてくれる。
織田家との戦いである姉川の戦いにおいて、織田家2万8千の兵に対し、浅井家は1万3千の軍で戦った。
しかし、その内訳は朝倉軍八千と浅井軍五千。
本拠地である小谷城を守るために、浅井家だけで用意できた兵の数はたった五千である。
つまりは、佐和山城を取り返すために浅井軍が出てきても、その数は五千に満たないと言う事だ。それも、姉川での敗戦で被害を出している上に、先陣をきった猛将磯野の精鋭兵は佐和山城に籠っており小谷城にはいない。
佐和山城を包囲する今川軍の八千(実質五千)に対してよくて五分。決定打となりえないのだ。
だからこそ、浅井家は直接軍勢を率いて佐和山城に援軍に来るのではなく、救援物資を送り籠城で時間を稼ごうとしたのである。
実情がどうであれ、浅井家からすれば、正面から戦っても勝てる確証がないという事だ。
もちろん浅井家が領内から兵をかき集めれば数は集まるだろう。だが、それには時間がかかる。その時間はそのまま織田家が兵を集める時間に繋がる。
姉川で負けた浅井家だけでは、勝つことはできないのだ。
そして現在一月。朝倉家の本拠地越前では雪が降り軍を動かすことが難しくなる。それは、冬が深くなればなるほど増していく。
それが分かっているのか渋い顔の浅井長政が吐き捨てるように言う。
「ならば、攻め落とせばよいではないか」
「取れというなら取りましょう。しかし、それでは今川家に旨味がない」
そういって目を細めて言葉を続ける。
「佐和山城を落とし、磯野の首級を上げてその後は?城は織田家に返し、首級は浅井家に返し、今川家は兵を失って、得るのは織田家の謝礼だけ」
「援軍であるならそれは当然の…」
「旨味がないのは浅井家とて同じこと!」
長政の言葉を遮るように声を上げる。
まあ、負ける浅井家に得る物がある方がおかしいのだが、そんな自明の理を指摘する。
「磯野殿が降伏するのは織田家にあらず。今川家にございます」
なので、得る物を提示する。
「そんな事が…」
「今なら可能です。佐和山に出陣している織田家の武将は羽柴秀吉殿のみ。彼の者の位は低く家格は言うに及びません。しかし、今川軍の総大将瀬名様は、相伴衆という幕府の重職である今川氏真様の名代であらせられます」
「今川軍は、織田の援軍ではないか」
「それは今川家と織田家との話。浅井家に何の関係がありましょう。降伏する相手のどちらを“上”とみるかの話でございます」
「それで織田が降伏を認めぬ時はどうする」
「それはおかしなことを言われる。降伏は武家と武家との約定。今川家と浅井家が交わした約定に、他家である織田家が横車を入れられる謂れはありますまい」
そんなことをしたら、今川家の武家としての面目を潰すことになる。
降伏はあくまでも浅井家と今川家の取り決めであって、同盟国であるとはいえ織田家がそれに口を挟めば立派な越権行為だ。社会的地位と言う意味では、今川家の家格は織田家のはるか上にある。
それをないがしろにすれば、それだけで十分同盟破棄の名目になるだろう。古今、戦後処理に失敗してさらなる騒動に発展する例は珍しくもない。
朝廷にでも幕府にでも審議を願い出ればどうなるかは明らかだ。
「法の下に平等」という概念は後の時代の事だ。大事な事だから強調するけど、「法の下に平等」って明記しなければならないという事は、それより前の時代では法適用が平等ではなく、特権という優遇措置がなされているわけである。
もっとも、この件については信長本人とも調整済なので、万が一にも問題になる事はない。
織田家には佐和山城を表向き譲渡する事で了承を得ている。織田家が必要とするのは、横山城の安全と、美濃から京都への安全なルートだ。
織田家単体で佐和山城を攻略するなら、要所である佐和山城を守る守将が必要になるが、常時援軍の今川家の精鋭で代用すれば事は足りる。ということにしておく。
三千の兵士を駐屯させる場所として、近江の対浅井家への援軍派遣の前哨拠点として佐和山城は絶好の条件だ。
「織田様がそれに不服があるというなら、磯野殿を含めた今川軍が佐和山城に籠りましょう」
そう言って笑って見せる。
信長と調整済みだから、どんな約束でも取り付けられる。一種のボーナスステージである。
ちなみに、佐和山城降伏についての調整はしたが、織田家が約束を破った時の調整はしていない。つまりどんな結果になっても自己責任だ。
もしそうなったら織田家はどうなるだろうか。無理を通して脅威だけが増す悪循環だ。典型的な戦後処理失敗による泥沼である。
大事な事なので再度いうが、万が一にもそうならないように信長とは調整済みだ。
だからこそ、今回の佐和山城攻めでは、武士としての誇りやメンツにこだわる織田側からの武将を極力排除し、織田家からは羽柴秀吉唯一人が参加しているのだ。
「そこまで覚悟して、今川家が得る旨味とは何か?」
「敗軍の将。磯野員昌殿の身柄を今川家で預かります」
「「おお…」」
浅井長政からの問いに正直に答えてやると、家臣達が騒がしくなる。
これが今川家と、そして浅井家の旨味だ。
反織田家として今川家を取り込みたい浅井家ではあるが、残念なことにその為の工作は遅々として進んでいない。
理由は明白で、浅井家の成り立ちにある。
近江の地元豪族で下克上を成した戦国大名浅井家。
その出自と立身の経緯に、名門名家や上流階級との縁がないのだ。ましてや、近江の地元大名浅井家と、東海地方の名門今川家とのつながりは皆無といっても過言ではない。
オレですら、他国の人間とは宗派のコネや学友のコネを使って交渉していたのに、浅井家にはそれすらないのである。
だから、その縁を与える。
「また、小谷城にて保護されている磯野殿のご家族については、そのままお計らいくださって構いません。駿府につけば、磯野殿から連絡をつけられるよう取りなしましょう」
磯野員昌の家族が小谷城に集められていることは知っている。そして、それがそのまま浅井家にとどまれば、人質以上の意味を持つことができる。
それを浅井長政にもわかるように笑みを浮かべて強調する。
「無論。ご家族から磯野殿に手紙を送られてもかまいません。ただ、今川家では法度『仮名目録』により諸外国からの手紙は、今川家当主今川氏真様の目が通る事はご了承くださいませ」
「…」
これで、浅井家は今川家との連絡ルートができる。
そして、今川家は織田家すら一目置く優秀な前線指揮官を得る。現在今川家では武勇に優れた精鋭部隊である白建てを絶賛増強編成中だ。
そのうえで、さらに織田家から援軍の謝礼ももらう。
これが今川家の提示する「旨味」だ。
その為に、羽柴秀吉に事前に連絡をして、磯野員昌が裏切ったという噂を小谷城下に流した。これにより、浅井長政は佐和山城に後詰め(援軍)を出すことを躊躇う事になる。
兵力は五分。博打ではあるが、浅井家が織田家(今川家)を撃退する可能性は皆無ではなかった。織田家と今川家の連携は不確定だし、今川白建ては精鋭とはいえ、今回が初陣だ。その戦力は未知数であり、想定以下の可能性もあるのだ。
しかし、その目的である磯野が裏切っていたら、博打をうってまで得るものが無くなる。その決断が鈍るのだ。姉川での被害を早急に回復させなければならないこの状況で、これ以上の被害を出す危険はおかせない。
だが、それはあくまでも噂。だからこそ、兵糧を運び込むことで援助したという体裁を整えることができる。
故に、それを止める。その結果をもって、浅井家は白建てを撃退するには、兵力をもってあたるしかないと思うだろう。当然、そんな危険を犯せるわけがない。援助失敗の結果、裏切りの可能性はより高くなったのだ。
もし、こちらの要求をはねのけても、時間と共にこの噂が浸透すれば、救援物資を送る事すら難しくなるだろう。そうなればより容易に佐和山城は落ちる事になる。
何を隠そう、今川家にとって佐和山城攻略に何の価値もない。あくまでも織田家への援軍でしかないのだ。極論でいえば、初陣に勝利する事すら名声的な意味合いでの利点しか存在しない。浅井長政に言ったように、佐和山城も磯野の首級も、今川家とは関係ないのだ。
ぶっちゃけると、たとえ佐和山城攻略に失敗しても織田家が白建てを手放すことはない。織田家が軍事的に手が足りないことに変わりはないし、なまじ援軍を追い返せば今川家との友好関係が悪化していると喧伝するようなものだ。
白建てにとっても、滞在中の兵糧は織田家持ちだし、高価な鉄砲での軍事訓練までさせてもらい、さらに水軍用に船まで購入してもらっている。このままを維持するだけで、損はないのである。
白建てが何よりも恐れているのは、再び起こる桶狭間だ。
だからこそ、浅井長政に見捨てるでも切り捨てるでもない第三の選択肢を与えるのだ。
その選択肢こそが、白建てにとって被害なく勝利をおさめることができるという最良の結果なのだ。
オレの言葉に、浅井長政が考え込む。
「使者殿にはしばしお待ちいただきましょう」
「良き返事が来ることを願います」
まあ、考えるのは自由だ。
佐和山城を見捨てるしかない以上、何もかも捨てるか、少しでも得るものを拾うかの差でしかない。
戦国大名がどちらを選ぶかなんてわかりきっている。
そして、オレの予想が外れたとしても、結果的に佐和山城は手に入る。




