145 佐和山城への見えざる手
「気を使われたかな…」
琵琶湖に浮かぶ千早船の上で、伊丹雅高は誰にも聞かれぬようにつぶやいた。
佐和山城を包囲して十日後。
浅井家からの救援物資を乗せた輸送隊が送られ、かねての作戦通り妨害するために出陣した伊丹率いる白建て水軍は、予想通りに苦戦していた。
水軍の強さは、兵の強さだけでは語れない。潮の満ち引きや風向き、その周期。さらには、乗る船にどれだけ慣れているかが重要になる。
今回の戦のために織田家が急遽用意してくれた船に乗ってはいるものの、かき集めただけの船の状態はバラバラで、中には戦闘に耐えられないような劣悪なものまで存在する。
さらに、今川家の水軍は、東海の荒波を乗りこなす猛者ではあるが、波も風も穏やかな琵琶湖では勝手が違った。
劣悪な戦備。不慣れな環境。数では勝るが、これでは統一的行動はできそうにない。
それに対して、敵である浅井家の水軍はまさに琵琶湖を縄張りとしている。地の利は浅井家側にあるといってよいだろう。
そのような状況では、浅井軍の船を完全に締め出すことはできなかった。あるいは、浅井長政もそこまで読んで、佐和山城に救援物資を送ったのかもしれない。
結果、半数以上を阻止したとはいえ、取りこぼしが佐和山城へ向かう。
もっとも、だからといって問題とは感じていなかった。
元々それが、白建て内で求められていた事だ。だからこそ、全力でも無理だと見越した月斎殿が気を使って失敗にならないようにしたのだと伊丹は感じたのだ。
そして、もう一つ。
パパパパーン!!
見れば、庵原元政率いる鉄砲隊が伊丹隊の封鎖を抜けた輸送船に岸から銃撃を加えている。
火縄銃は威力や射程こそ優れているが、連射速度が悪いという欠点を持っている。故に機動力に優れた部隊を相手にしたとき、次の弾を打つ前に斬り込まれてしまう。
しかし、慣れているとはいえ、船足は馬足はおろか人が走る速さにすら劣る。ましてや流れの緩い琵琶湖では尚更だ。
遮蔽物のない湖上の船など、まさに的といえるだろう。封鎖突破のために陸への警戒が薄れていたことも幸いだった。
そして、船の数が減れば更に鉄砲が集中し、残った船もみるみる沈んでゆく。
こうして「半数を通過させるように」という、月斎殿の命令はものの見事に無視された。
しかし、それが咎められることはない。
月斎殿はあくまでも助言者。軍監(軍事顧問)でもなければ大将(指揮官)でもない。その意見を聞かねばならぬ理由はない。
だからこそ、伊丹雅高は助言の通りの状況を意図せずに作っただけであり、庵原元政の鉄砲隊はその助言を破って敵を全滅させても問題はない。
そして、この戦の白建て総大将の瀬名氏詮は、白建てによる佐和山城包囲戦で、敵の救援部隊を壊滅させたという功績を手に入れる。
「残った船を回収する。生き残った者に注意せよ」
伊丹の命令で配下の船が琵琶湖に浮かぶ浅井の船を拿捕していく。浅井家の船に乗っているのは佐和山城への救援物資だ。当然その拿捕は今川軍の権利であり掣肘されるいわれはない。
もちろん手に入れた物資を独占する事はできないが、手に入れた今川水軍の意見が優先されるだろう。
中でも、今回入手した浅井家の船などは他の二将には使えぬもの。織田家から与えられた劣悪な船と交換させることで白建て水軍の練度を増すことができるだろう。
練度という意味なら、庵原元政の鉄砲隊もそうだ。今回の戦で織田家より大量の弾薬を提供されている。それを遠慮なく使用することでどれほどの経験が積めたことか。
今回は敵を全滅させたが、よしんば失敗したところで、月斎からの意見である半数を通してよいという言葉に従ったとすれば、庵原元政にとっては失態にはならない。
伊丹が過半数を阻止し、庵原が残党を全滅させ、瀬名は勝利という武功が手に入ったのだ。
「太観月斎か…」
伊丹はこの戦の絵図面を引いた今川家の軍師の名を呟いた。
白建ての初陣であるこの戦いで、三者三様に武功を上げる結果となっている。もし助言がなければ、水軍で全滅させようと逸るあまり被害を出したり、鉄砲で追撃したりといったことを考えなかったために作戦自体が失敗していたかもしれない。
三将がほぼ同列の白建てにおいて、その三人に不満のない采配を導き出す手腕は流石といえるだろう。
確かに指示が無視されたが、結果から見れば非難されるいわれはない。
そして、なによりその指示を無視した者が、白建ての中で太観月斎に最も親しい庵原元政だ。あるいは、無視するように言い含めていたのかもしれない。
そして、そこまでして見せた黒衣の宰相の策が、この程度で終わるわけがない。
たった一つの助言で、三将に満足できる結果を提供しているのだ。その本命が何であるのか、どこまで見通しているのか、伊丹には想像もできなかった。
視線を見上げれば、今回の攻略目的である佐和山城が見える。
山中に作られ守るに易く攻めるに難い堅城だ。
しかし伊丹には、それがただ甲羅に籠っただけの無力な亀に見えた。
「哀れなるかな佐和山の城よ。貴様はどうやら、眼中にもないようだぞ」
城へ一歩も踏み入れていないにもかかわらず、伊丹はこの戦に勝利する事を確信した。
*******
「浅井家からの援軍を全滅させました」
佐和山城が見える百々屋敷に張った本陣で瀬名殿とその報告を聞いて、笑みを浮かべる。
浅井家の救援部隊は、予定通り伊丹雅高殿の封鎖を抜けて佐和山城に向かった。
だが、身を隠すことのできない湖上で、湖岸で準備していた庵原鉄砲隊の餌食になったそうだ。
「お見事。さすが白建て。鎧袖一触とはこのことですな」
おべんちゃらのように、称賛の言葉を口に出してその功績を誉める。
べつにゴマをすっているわけではない。オレの意見(命令じゃないぞ)を無視した庵原元政に、オレが悪意を持っていないと理解させるためだ。なにせ、報告を受けながら今川家の家臣達もチラチラこちらを見ていたからそれに配慮したまでだ。
ここで、オレと庵原元政に確執があるとか思われると面倒な事この上ない。
別にオレの「お願い」なんてどうだっていいんだ。もし本当に必要なら、断れないようにするだけだ。
要するに、そこまでする必要もない内容だったのだ。初戦だから気負うなよという程度の代物である。見方を変えれば伊丹隊と庵原隊で協力して、浅井軍を撃退したようにも見える。どれも白建てとしてプラスになる内容だ。
結果、初陣勝利という功績を上げた総大将の瀬名様を賞賛しているのだ。
オレの行動に、様子をうかがっていた周囲の家臣達は少しほっとした様子で、オレと同じように戦果の祝いを述べる。
「うむ。これで、佐和山城の兵の士気は大いに落ちよう」
瀬名殿本人もオレの言葉に裏がない事がわかったのか、オレの笑顔を見てから、ようやくうれしそうに声を上げる。
…あれ?もしかして、オレって恐れられている?
いや、待ってくれ。オレって別に今川家家中の人間に変な事はしてないぞ。基本的に他国との調整ばかりだからな。織田家とか織田家とか織田家とか、たまに徳川家?
武田信虎の反乱の時に遠江の豪族を嵌めた事もあったが、アレはもう何年も前の事だし、怖がられる理由が見つからない。
師匠の名声が高すぎたからかもしれん。おのれ師匠。死してもオレの前に立ちふさがるというのか(現実逃避)
まあ、面倒な事はさっさと終わらせるとしよう。
立ち上がると、瀬名殿の前に立って一礼してお願いする。
「では、佐和山城についての話を詰めてきます。それまで城から誰も抜け出せないように包囲を続けてください」
「うむ。わかった」
瀬名様もそれを聞いてうなずく。
これも別に命令ではない。ただのお願いというか事実確認だ。現在今川白建ては佐和山城を包囲している。簡単に抜けられるような甘い包囲体制ではないだろう。ようするに、現状維持を続けてくれればいいだけの話だ。
忘れているかもしれないけど、佐和山城の磯野軍の総数は一千未満に対し羽柴軍+今川援軍で五千の包囲網である。逃がさないように封じ込めるだけなら精鋭じゃなくても簡単な話だ。
「では、羽柴様。手をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「拙者ですか?拙者に出来る事なら何なりと」
オレの言葉に、陣中にいた織田家家臣の羽柴秀吉の顔に笑顔が浮かぶ。
今川家の家臣しかいない陣で、織田家の家臣は羽柴秀吉のみである。さぞ、居心地が悪かろうと思うのだが、それでも今川家の人間を立ててくれたり、岐阜の織田家との仲介をしたりと、様々なフォローをしてくれており、白建ての中での評判は悪くない。
この辺は「人たらし」と言われた人格故なのだろう。
さらに白建ての兵糧などは、羽柴様のいる横山城からの提供だ。
そういう意味でも、裏方作業を嫌な顔一つしないで、そつなくこなせるのは流石である。
そこに、さらにお願いするのは心苦しいのだが、別に手間がかかるような事ではない。
「案内と護衛に人を借りたいのです。東近江の事なら、羽柴様の方がお詳しいでしょうから」
「案内といわれますと、どちらへ?」
羽柴秀吉に聞かれたので、にこりと笑って答える。
「小谷城です」




