143 羽柴秀吉
近江国の佐和山城城主の磯野員昌を調略する事になったのだが、改めて言うがオレは今川家の家臣であって織田家の家臣ではない。
なので…
「織田様にはいくつか条件を飲んでいただくことになります」
今川家の家臣である以上、今川家に利益がないと協力できない。
そうでなければ「織田家に手を貸すのは楽しかったですか?」と、愛人宅から帰った浮気旦那のような針の筵に駿府で座らされる羽目になる。過去に似たような経緯で今川家重臣に詰められたことがあるので、反省なしと思われて再度詰められるとシャレにならない。
そういうわけで、いくつかの提案をする。そのいくつかは想定内だったのか堀殿は快諾したものの、それ以外については堀殿も難しいと言わんばかりに眉間にしわを寄せた。
「費用に関しては、大殿より裁量を任されてはおりますが、こちらの条件に関しては…」
「では、こう付け加えて織田様にお話しください」
そういって、織田家が浅井家と事を構える上での保険である事を説明する。
そのかいあってか、堀殿はとりあえず納得したようにうなずいた。
まあ、問題が起こらなければ何の恩恵もないのが保険だ。その場合は、こちらの利益総取りである。
「とりあえずは、出来る事から始めてしまいましょう。横山城にいる織田家の武将はどのような方でしょう?」
「羽柴秀吉殿です。実力のある方で、金ケ崎の戦いでは殿を務めたほどの人物です」
「…羽柴?」
「はい。ああ、ご面識有りませんでしたか。織田家に古くから仕える家臣ではありませんが…」
「いや、言葉は交わしていませんが、顔を合わせた事はあります。確か、以前は木下殿でしたか」
「ええ、ご存じでしたか」
それ、後の天下人豊臣秀吉じゃん。この時期そんな危険地帯の最前線に赴任していたんだ。
まあ、しぶとそうな印象はあるから適材適所か。
「では、手紙を書きましょう。向こうにとって大した手間にはなりますまい」
「紙と硯はこちらに」
堀殿がそつなく部屋の隅に寄せてあった文机をだして準備をする。
「月斎殿が手紙を書いている間に、大殿との会合に都合の良い刻限をお伺いしてきます。何かほかに入用なものは?」
やっぱりこの後で信長と面会するのね。やる事は決まっているのだから、事後承認でもいいんじゃないかな?
常識的に考えて、他国の人間の主導で好き勝手を許すわけはないか。
「白湯を一杯」
出来る限り手紙はゆっくり書こう。
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「半兵衛。どう思う?」
岐阜から来た手紙を読んで、羽柴藤吉郎は軍師でもある竹中半兵衛に聞く。
差出人は大観月斎。驚くべきことに、今川家の人間だ。
何度か顔だけは見たことがある。その智謀は大殿も認めるほどで、一目も二目も置いている。同盟関係の相手ではあるが、油断のならぬ相手といえよう。
ただ、この手紙の件は大殿もご存じとのことで、堀秀政の添え書きもある。堀秀政は一時期木下家(現羽柴家)に仕えていたこともあり、その才気から大殿に小姓として推薦した経緯がある。
こちらを陥れるようなことはないだろう。
「離間の計ですな」
手紙を読んだ半兵衛が答える。
そこには、小谷城城下町に「磯野員昌が織田家に内通している」という噂を流すように記されていた。
「有効な手ではあります。が、まだ時期尚早かと」
「ほう」
「浅井家家中は一枚岩とはいいがたい。それは、織田家と敵対した今も変わりません」
織田家に対抗するためにまとまってはいるが、それは浅井家当主の器量によるものではない。
かつて、織田家と同盟していた時の浅井家には親織田派と反織田派が存在していた。それが、金ヶ崎での裏切りによって、親織田派も反織田派にならざるを得なくなっただけだ。
浅井家当主 浅井長政の存在は反織田家でまとまる為の神輿でしかない。
それを何よりも理解しているのは、ないがしろにされた主君の浅井長政本人だろう。
そんな浅井長政にとって、家臣の裏切りは絶対にあり得ないとは決して言えないだろう。
故に、ここで元織田派に対する疑心暗鬼を産む策は理にかなっている。
なにせ浅井長政本人がそれを否定できないからだ。
「そこに裏切りの噂。浅井長政は、豪族でしかない磯野を擁護する事はできないでしょう」
「時期尚早というのは?」
肯定的な言葉に、秀吉が半兵衛の懸念を尋ねる。
「裏切った後です。こちらが騙して裏切らせたとすれば、磯野本人の心証は悪くなります。磯野本人には腹を切らせ、首級を浅井家に届けて、浅井長政の失態を浅井家に喧伝する事も可能ですが、磯野家の家臣達の反感を買う事になります」
「それに磯野員昌の武勇は惜しい」
そう言う秀吉に、半兵衛は同意するようにうなずく。いつだって、この方は欲張りだ。
そうでなくとも、織田家の人材は不足している。さらに浅井家の裏切りによって、現状人手はいくらあっても足りない状況だ。
もっとも、だからこそ羽柴秀吉が横山城城主という大出世を果たしたともいえる。
立身出世を果たしたといっても、織田家以上に羽柴家には人が足りていない。なんの後ろ盾もなく、他人から仕官を望まれるほどの家でもない新参の羽柴家では、家臣に提示できるものは利益しかない。
そして、利益による関係は、わずかな感情の綻びからでも崩れる危うさを持っている。
騙して裏切らせるというのは、十分な心の皹となるだろう。
「もしもの際は殿から大殿に助命嘆願を願い出て恩を売ればよろしいでしょう。最悪、磯野本人は無理でも家臣や親類縁者を抱き込むことができます」
「ははは。頭を下げる事に関してなら、ワシはなかなかのモンじゃぞ。それで磯野の命が助かるなら、いくらでも地面にこすりつけるわ」
そう言って、声を上げて笑う羽柴秀吉に笑みを見せる半兵衛。
しかし、その笑みに隠して思案する。
差出人である太観月斎。
織田家、今川家、徳川家の三家を結び付けた三国同盟の立役者だ。
その手腕には自分自身も舌を巻いた。もし、それがかつての主家である斎藤家であったなら。稲葉山城乗っ取りなど何の意味もなくなり、その結末にいたるまで、自分は蚊帳の外で何もできなかったであろう。
戦場で相対して後れを取るとは思わないが、こと戦場の外においては隔絶した手腕を振るう相手だ。
だからこそ、自分の中で一つの確信があった。
かの者の一手が、それで終わろうはずがない。
自分はあくまでも武士としての範疇で答えを出した。そして、自分も考えたこの策を示したのは武士ですらない。違う立場で出した答えが同じであろうはずがない。
そして、だからこそ同時に確信する。
武士でしかない磯野員昌にもこれ以上の答えを出すことはできない。
もし、自分の想定どおりなら、太観月斎はそれを理解した上で策を示している。自分では手を出せない領域で策謀をめぐらしているのだ。
あの三国同盟のように、自分達ではその舞台に上がる事すらできずに趨勢は決まるだろう。
勘でしかないこの答えが正しいかどうかはすぐにわかる。
もし、事が自分の想定通りに決着するのであるなら、自分は正しく大観月斎を評価する事ができたといえるだろう。
かの男は怪物なのだと。
残念ですが、争う舞台が違うので竹中半兵衛と対決することはありません。




