141 今川家の実弾
今川家の実弾(隠語)の出所の話
信濃での事前連絡を終えて、駿府へ戻る。
帰りはカモフラージュもかねて、天竜川を下り遠江へ抜け、秋葉城で鵜殿氏次に会う。
師である自分を慕ってくれるかわいい弟子だ。喜んで歓待してくれた。
…へえ、もうすぐ氏次君の子供が生まれるんだ。
最初に会った時は兄である氏長君の後ろに隠れるような子供だったのだが、成長って早いな。
「名前を付けてくれますか?」とか言うので、笑顔で請け負う。
『地獄に落ちろ助』とかどうかな。もちろん、口には出さないけど。
へえ。もう側室までいるんだ。
地獄に落ちないかな。
もちろん、口には出さない。
「殿様。信濃の件、終わりました」
遠江経由で駿河に戻り、駿府の今川館で諏訪家との交渉成立を今川家当主今川氏真に報告する。
座って手紙を読んでいた氏真が視線を上げる。
「諏訪はこちらにつくか?」
「さて、どうでしょう?」
実際に諏訪家が今川家の味方になると決まったわけではない。所詮は口約束だ。
だが、それで十分だ。
諏訪家はその立地上、双方の家にとって無視できない存在だ。徳川家に敵対した場合は、徳川家の支配する信濃から甲斐を守る防壁となり、武田家に敵対した時は甲斐に蓋をする役割を担う事になる。
どちらであっても、その時に今川家の協力が得られれば、諏訪家の負担は大きく減る。
だが、今川家にとって重要なのは諏訪家が味方に付くかどうかではない。
「おい」
「ですが、これで諏訪家が他家と結ぶ事はなくなります」
氏真の険を含んだ言葉に、笑顔で返す。
今回の口約束を行った理由は、諏訪家を安定させるためだ。不安がなければ動く必要もなくなる。
越後上杉家と協力して信濃徳川家を攻めることは不可能ではない。だが、それをして諏訪家が得るものはない。上に立つのが信濃村上家を傀儡とする越後上杉家に代わるだけで、今の諏訪家の状況は変わらない。そうなれば、甲斐武田家が諏訪を攻めない理由もないし、本音では諏訪家に弱体化してほしい上杉家が諏訪家を助けてくれるとは限らない。
今川家としては、三国同盟破棄により発生する徳川家と武田家の争いに、他家の介入は好ましくない。同盟破棄の混乱が拡大すれば、今川家にも予期せぬ影響が出るからだ。
そのために諏訪家を今川家に結び付け、第三勢力の参入を排除したのである。
だが、オレの報告を受けても今川氏真は少し口を曲げたままだ。
「そのために、祝いの品を甲斐から通さねばならん。流石に見栄えの良いものを送らねばならぬが、今川家の金蔵も無尽蔵という訳ではないぞ。実際、最近は減る一方だ」
三国同盟以降、今川氏真の上洛からの京都の貴人たちの招聘。精鋭部隊である白建ての新設に、織田家との婚姻の準備と出費が続いた。
そこに、徳川家と武田家を牽制するだけの祝いの品を送ることが追加されたのである。
その負担は少なくない。
困ったように額をかきつつ今川氏真が口を開く。
「先の戦でも今川家の領地が増えたわけではないからな」
武田信玄の侵攻を食い止め、尾三駿三国同盟を結んだものの、信濃は徳川家に、甲斐は新武田家に渡してしまった。
この時代の財産は土地の生産力。これは食料生産量である石高に比例する。
そして、旧今川領である三河を徳川家が手に入れた上に、遠江の西側まで割譲してしまった。
氏真の父親である今川義元時代からみると、その領土を半分近く失っている事になる。それは当然年貢という税収にも反映される。
「友野屋に出させればいい」
「戦もないのに、そう頼るわけにはいくまい」
オレが駿河を拠点とする今川家の御用商人の名を出すと、氏真は眉間にしわを寄せた。
恐ろしい事に、この時代には商業に対する税金が存在しない。一応、関所で徴収はするが、領地で商人がどれだけ儲けようと定期的な税は存在しない。
そこで、大名は商人に「矢銭」という資金援助を要求していた。
だが、名前からわかるように、戦争のための資金援助だ。なので、支援内容も物品から金銭までさまざまで、支払われる額も明確になっていない。
更に、名目が戦争用である以上、周辺国に敵のいない今川家が、商人から資金援助を受ける理由がない。
「話をすれば、二つ返事で友野屋は銭を出すだろう」
「ほう」
指を一本立てて笑って見せる。
「一つ目は、友野屋は儲けている理由を知っているからだ」
何を隠そう。二つの三国同盟によって、今川領内で一番得をした存在が御用商人の友野屋なのだ。
まず、武田信玄の駿河侵攻の際、友野屋に貸し付けていた船を雇い入れた傭兵の代金にそのまま提供している。
これだけなら、友野屋から現金がなくなっただけだ。
問題はそのあとだ。
三国同盟により伊勢、志摩、尾張の織田領。三河の徳川領。遠江駿河の今川領。伊豆相模の北条領という東海から関東への一大同盟を結んだことになる。
さらに、上洛の際に織田家が求めたのが商業の中心都市、堺。その東への海路は東海につながる。
そして、この両方の同盟に名を連ねているのは今川家だけだ。
当然だが、友好国の御用商船を妨害するのは立派な敵対行動だ。
つまり、この広大で安全な商業海路を自由に使えるのである。尾張津島(織田家)の商人も、相模小田原(北条家)の商人も利用できるのはこの海路の半分だけ。
それも、今川家が三国同盟締結直前に商業船を大量提供するというインフラ強化までした状態でだ。
それだけではない、安全になった駿府に京都より公家貴族を呼び寄せた。彼らの新住居のための木材をはじめ、上流階級が必要とする嗜好品の取引が増加する。
周囲を同盟国に囲まれた駿河という安全な立地は、商品を保管する上でこれほど適した土地はないだろう。当然、商業倉庫を管理するのもその土地の商業組合『座』の仕事だ。
そんな神立地の駿河で最大の商人が今川家の御用商人友野屋である。
これで利益が出せなかったら、それこそ御用商人失格だ。
そして2本目の指を上げる。
「もう一つは、金を出させるあてがある。茶の栽培とそれに伴う輸出に向けての話だ」
「それは、すでに友野屋に話してある。友野屋の力を借りぬわけにはいかないからな」
今川家の国家事業でもある茶の栽培とその輸出については、現在準備中だ。新規の植物の育成にはまだまだ試行錯誤が必要となる。
まあ、そのための職人を育成し、さらに本場の京都から貴人が来ている駿河において、その品質は急速に改良されている。
後は、商品として輸出する際に商人達の手を借りることになるだろう。
「なればこそだ。茶の販売先の斡旋を出来る」
「そんな相手がいるのか?」
とはいえ、友野屋はあくまでも駿河の大商人だ。他国となればそう簡単にはいかない。他国には他国の商業勢力が存在する。輸送のための船の準備や保管用の蔵の用意などはできるかもしれないが、そもそも初めて作る商品だ。売り込むのは簡単ではない。
国家事業の取引相手である。商品を購入できる財力に、取引するだけの信用、さらには商品への深い造詣が必要になるだろう。
つまりは…
「京の町衆の一人長谷川宗仁殿だ。著名な茶人でもある」
「茶の縁も広く、うってつけだな。先方への話は通さなくていいのか?」
「京にいた時にすでに話してある」
「…そりゃ、準備の良い事で」
呆れるように氏真は答えると、手紙を書き始める。
後は、オレから友野屋宛に一筆いれれば、うまく回りだすだろう。
「さて、これでオレも一段落か」
ここのところに西へ東へと移動しっぱなしだった。
のんびりと駿府で書作指南所で宿題の採点と講師でもするか…
と思っていたが、そうは問屋が卸さなかった。
「いや、お前の手がいる」
「何かあったか?」
「面倒事だ」
そういうと、文箱から一通の手紙を取り出した。
「…美濃和紙」
その手紙の見覚えのある材質を見て眉間にしわを寄せる。
別に美濃和紙の品質を問題視しているわけではない。産地から送り主の推測をしただけである。




