140 悪だくみ
徳川家の信濃侵攻に協力するという諏訪家の対応は最善手と言えた。成果も出した。
だが、だからといって問題がなかったわけではない。
ようするに、やりすぎてしまったのだ。
その結果、諏訪家は隣国の甲斐武田家だけでなく徳川家からも危険視される事になった。
武田家からは仕方がない。理由があったとはいえ武田家を切り捨て徳川方についたのだ。旧武田信玄の家臣からすれば裏切り者だし、武田家当主の武田昭信からすれば旧体制の残滓である。
では、味方の筈の徳川家はどうか、これも諏訪家との間に確固たる信頼関係があるわけではない。領地を守りたい諏訪家と、一刻も早く信濃を平定したい徳川家との利害が一致して協力体制を取っただけに過ぎないのだ。
現在、信濃には大きな勢力が三つある。
徳川家の力を背景に信濃を支配する小笠原家。
名目上小笠原家に従ってはいるが、越後上杉家の支援を受けている村上家。
そして最後が、徳川家に協力して領地を安堵された諏訪家。
現在、小笠原家と諏訪家が徳川家支持という事で、信濃は徳川家の支配下という形式をとっているが、村上家が従っているのは、徳川家と上杉家の間で約束がある事と、徳川派との戦力差があるからだ。
しかし、そんなナンバー3の勢力である諏訪家だが、その統治において徳川家の力を必要としていない。
元々、諏訪地域を古くから支配する一族であり、その地を守り続けた事で、地元勢力の完璧な信頼を得ている。
徳川家にとって、諏訪家は村上家と手を結ぶことは可能だし、それは信濃の徳川支配を根底から覆すのだ。
さらに、信濃には諏訪家に味方する潜在的勢力がいる。
それが旧武田勢だ。諏訪勝頼は確かに武田信玄を裏切り徳川家に味方した。
しかし、その矛先を甲斐や武田家に向けたわけではない。信濃の豪族と徳川家の仲を取り持っただけである。
さらに、武田信玄の正当な血統だ。武田信玄を自害させた今の甲斐武田家に従えない旧武田勢が協力するには十分な理由だ。
良くも悪くも信濃支配を急いだ徳川家は、交渉による調略を主体に信濃を支配した。多少の戦闘こそあれ、その被害は多くない。それは当然、信濃にいる旧武田勢にも言える。甲斐に戻ったものや、信濃の豪族に仕える者もいるが、自由に動ける者も少なくない。
名門諏訪家に、今は亡き英雄武田信玄の血を残し後世に伝える。彼らが力を貸す名分としては十分だろう。
不確定要素もあるが、諏訪家が信濃で立つ事は可能なのだ。
そして、その問題を解消する方法が徳川家にはなかった。
諏訪家を排除しようにも、地元勢力との関係は強固であり、強行すれば残った諏訪の民は反徳川勢力となるだろう。諏訪家を排除した結果、諏訪勢力が村上家に着いたら本末転倒だ。
三河を侵略したらどうなるかと同じようなものだと三河武士を統べる徳川元康には身に染みて分かるはずだ。
かといって、婚姻関係を結び諏訪家を取り込もうにも、そもそも徳川家と諏訪家の家格が違いすぎる。
鵜殿家との婚姻が結べたのは、諏訪家の方が立場が高いから可能な婚姻だったのだ。また、小笠原家のように落剥しているわけではない。
家格が下の徳川家が上位になるような関係は結べない。強行すれば信濃の民は徳川家に蔑ろにされたとみるだろう。
優遇して味方に取り込むこともできるが、それで諏訪家の勢力が増しては元も子もない。そもそも、そこまで深い信頼関係があるわけでもない。
さらに、実質的にはどうであれ、名目上信濃は小笠原家が支配している事になっている。
現時点で徳川家への協力者である諏訪家に無体を働けば、同じように従っている信濃の豪族達の不信感は一気に増すだろう。
そしてこれは、諏訪家側にも言える。もちろん、理由も無く敵対するわけにはいかない。
そして、諏訪家側から徳川家に歩み寄ることもできないのだ。良くも悪くも武田信玄の血筋で、名門名家の諏訪家である。信濃守護職である小笠原家に仕えることはできても、縁も所縁もない三河の大名に従う名目がない。してしまえば家の名を汚すことになる。
諏訪家は信濃侵攻で本領の安堵を願い出た。加増ではなく安堵だ。諏訪家としては協力に対する最低限の保証を求めたに過ぎない。それゆえに、それ以上差し出せるものがない。
となれば、諏訪家にできるのは、徳川家の命令に従い発言を支持する程度だ。長い時間があればそれは信頼関係に発展する事もあるが、信濃が平定されたばかりの現在ではどうしようもない。
つまり、両家共に袋小路だ。
故に、オレは別の選択肢を提示する。
「今川家が当家につくと?」
オレの笑みから読み取った勝頼が笑顔のまま言う。
当然、その目は笑っていない。軽い口調だが諏訪家の存亡にかかわることだ。そして、諏訪勝頼は武田信玄の敗退以降の信濃の争乱を乗り切ってきた戦国大名でもある。
だからこそ、諏訪家を選んだともいえるのだがな。
「徳川家も諏訪家もこのままでは歩み寄りはできますまい。となれば、手を差し伸べるのもやぶさかではない。なにせ、諏訪様は今川家とは縁戚にあられる」
「そして、同じ縁者を敵とした者同士か」
勝頼の言葉に軽く唇を曲げる。
ちょっと皮肉っぽいかな。その辺は性格かもしれない。ま、そんなものは個性だ。
「すでに、両家が協力する場は出来上がっておりましょう」
「…ほう」
オレの言葉に片方の眉毛を上げる勝頼。
目を細めて笑みを崩さずに言葉を続ける。
「諏訪湖から流れる水は天竜川に合流し海に流れます」
「そうだな」
「遠江を流れる天竜川左岸にある秋葉城の城主は鵜殿氏次様。鵜殿氏長様の実弟です」
さらに鵜殿氏次は、今川家の有力豪族朝比奈家から嫁を取り、先の対徳川の遠江侵攻をはじめ武田の駿河侵攻でも活躍した武闘派だ。
「なるほど。信濃と遠江で連携すれば、甲斐に西と南から圧力をかけられる。甲斐の取りまとめをしている武田殿には十分な牽制となるだろう。しかし、敵は甲斐だけではないぞ」
言外に徳川家と敵対した場合の話を勝頼は促す。
「徳川様は信濃に手を出すことはできますまい」
「ほう。それはなぜ?」
言葉を続ける。
「天竜川の河口にあるのが浜松城。そこには今川家より正式に西遠江を割譲された徳川家嫡男徳川元信様がおります」
徳川家が諏訪を攻めるなら、今川家が浜松を攻めればいい。そうなれば、徳川元康は遠江の防衛に戦力を分散せざるを得ない。
徳川元信を失うことは、嫡男を失う事による問題はもちろんとして、徳川家が遠江を手に入れる正当性すら失う事なのだ。簡単に諦められるものではない。
これまでは、一応は今川義元の娘を正室に迎えていることで、遠江と駿河を手に入れる大義名分があった。だからこそ、三国同盟の時に西遠江の正式な割譲を許された。
徳川元信は、徳川家の嫡男であると同時に、公式に西遠江を統治する領主なのだ。
つまりは、徳川元信は浜松城から逃げることは許されない。それは徳川家の西遠江放棄であり、それを理由に今川家が西遠江の支配権を取り上げることができるからだ。
浜松城を攻めるための軍勢が天竜川対岸(今川領)まで来ても、徳川元康は大事な嫡男を安全な三河に退避させることができない。それを理由に今川軍が西遠江の支配権の奪取を目的に攻め込みかねないからだ。
嫡男を守るには、浜松城に対抗できるだけの戦力を派遣するしかない。
信濃はまだいい。信濃の統治者は名目上は小笠原家だ。影響がないとは言えないが、切り捨てる事ができる。しかし、遠江は違う。徳川家の正当な権利になってしまった以上、それを失うことは徳川家の失態だ。
それも、徳川元康の失態ではなく、嫡男であり次代の当主である徳川元信の失態となる。
浜松城のある西遠江は徳川家にとって信濃以上に大切な場所なのだ。
「そして、徳川領である西遠江には井伊谷があり、鵜殿氏長様の正室直姫様は井伊家当主の一族でございます」
「…しかし、その井伊家がこちらにつくとは限りますまい」
「すでに井伊家には、手の者がおりますゆえ」
オレの言葉に、諏訪勝頼は探るような視線を向ける。
何を隠そう、井伊家の筆頭家老小野道好はオレと内通している。遠江徳川家の地元勢力の1派である井伊家だが、実質に井伊家を取り仕切っているのは家老の小野道好だ。
オレは遠江がまだ今川領土だったころから、小野道好と密約を結び井伊家の存続に力を貸してきた。
武田信虎の起こした遠江騒乱では、信虎に協力する勢力として討伐されるのを免れるように取り計らったし、徳川家の遠江侵攻に際して、策を授けて徳川家に味方するように取り計らったのもオレだ。
井伊家の存続という密約の条件をオレは誠実に守ってきたし、道好はその意味を十分理解している。
「その者は信用できると?」
「さて…しかし、そうでなければ別の手を打つまで」
しょせんは密約。口約束だ。だがたとえ小野道好に裏切られたとしても、筆頭家老が他家と内通していた事実を暴露するだけで、徳川家の遠江勢力を混乱させることができる。
三河の徳川本家だって遠江地元勢力を信じられなくなるだろう。必然的に徳川家にとって遠江の危険度が増す。
歴史は多くを教えてくれる。徳川元康の祖父も父も配下である味方に殺されたのだ。嫡男がそうならないとどうして思えよう。
今川家が浜松城を攻めれば、徳川元康は信濃に手を出す余裕はなくなる。
その隙を、信濃村上家が見逃すわけもない。
小笠原家と村上家の争い。上杉家の支援を受けられれば、徳川家の支援を受けられない小笠原家は窮地に陥るだろう。
助けに来ない徳川家の代わりに、諏訪家が小笠原家に助勢して村上家と対抗するのもいい。
武田信玄に見捨てられた信濃の民は、信濃を見捨てなかった諏訪勝頼を、信濃を見捨てた徳川元康をどう見るだろうか。
「では、今川家がいかなる助力をしてくれるというのかな」
「まずは祝いの品などどうでしょう。鵜殿様は今川一門に名を連ねます。この度の諏訪様との婚姻に、当主の今川氏真様より両家に祝いの品を送るよう取り計らいましょう。武門として」
「…名分は通りますな」
そして、笑いながらさらに一手を示す。
「そして、それを甲斐を経由して諏訪から小諸へ」
「!!」
オレの言葉に納得しかけた諏訪勝頼の顔が驚きに包まれる。
甲斐にとっても信濃の入り口にある諏訪家は無視できない。しかし、その家が自国の南方の同盟国今川家と深い縁を持つと知れば、容易には手を出せなくなるだろう。
武田家と徳川家は何の同盟も結んではいない。結んでいるのは同じ同盟国である今川家だけだ。今川家だけが武田領土から徳川領土へ、安全に移送させる名分がある。
これだけで、徳川家と武田家の双方に、諏訪家に対する強硬手段を躊躇させる一手となるわけだ。
「なるほど、確かにこれは悪だくみだ。ははははは」
そういって、諏訪勝頼は声を上げて笑った。




