138 師の影
長らくお待たせしました。投稿を再開します。
鵜殿氏長は布団の中でまんじりと眠れずにいた。
理由は一つ。師匠である太観月斎様の「三国同盟を破棄する」という言葉の意味についてだ。
これには二つの可能性がある。つまりは、織田家と徳川家との同盟破棄か、武田家と北条家との同盟破棄だ。
まず、言える事は両方の同盟が破棄されることはない。そうする理由も意味も今川家にはないからだ。
ではどちらか?
わざわざ自分にそれを伝えたという事は、家中となる徳川家との同盟破棄と思いがちだが、鵜殿家のいる小諸城の場所を考えると隣国武田家との同盟の可能性も否定できない。
ただ、どちらを破棄しようと鵜殿家の立場は今川家に与すると変わらない。鵜殿家は同盟破棄によって今川家と敵対した徳川家か武田家と戦うことになるだろう。
そうなると、鵜殿家にとって重要なのは諏訪家との関係だ。
鵜殿家と諏訪家は徳川家の信濃侵攻の際に協力する縁を取り持った関係で、両家の子を婚約させ縁戚関係を結んでいる。
問題は、だからといって必ずしも鵜殿家に味方してくれる確証があるわけではない事だ。
諏訪家の当主諏訪勝頼は武田信玄の実子であり、甲斐の武田昭信とは叔父と甥の関係だ。徳川家においても、先の信濃侵攻で武田信玄を見限り徳川家に協力した信濃侵攻の立役者ともいえる。
諏訪家のために実の父親である武田信玄を切り捨てる決断ができる大器の持ち主だ。自分自身、その才気を認めている。だからこそ、鵜殿家を切り捨てる可能性もある。
「悩みは晴れませんか」
同じ褥で寝ているはずの直姫の囁くような声に我に返る。
肌を合わせている自分がまだ寝ていないことに気が付いたのか、腕に乗せた妻の顔が動く。視線を向けると微笑むようにこちらを見ている。
「師の遠謀を知ろうとすると、いつもこうだ」
かつて、武田信玄の駿河侵攻を読み、先回りに協力することで師の智謀の一端に触れたと思った。わずかでも、それに自負も持っていたのだ。
だが、それは三国同盟を結ぶ為の師の策の一端でしかなかった事に愕然とした。
影を捕まえたと思えば、するりとすりぬけ、その背がはるか遠くにいることに気が付く。
そんな師が、わざわざ今川家の重要機密ともいえる情報を教えてくれたのだ。正しく行動しなければ、師に合わせる顔がない。
「一人で考えすぎですわ」
「考えずにはいられないのだ。いずれにしても、鵜殿家の行動に変わりはない」
「となれば、重要なのは諏訪家の動向」
「そうだ」
再び天井に視線を向けて考えを続けようとしながら、氏長は妻の知略もまた頼りにしていた。
年下とはいえ夫の意地から、そうそう弱みを見せられないのだが、その辺まで察して話をするあたり尻に敷かれていると言われても仕方ない。
だがそれでも、夫には夫の矜持というものがある。
「では、諏訪家はどう行動できるでしょう」
「徳川につくか、武田につくか」
「ですが、諏訪は徳川にとっても武田にとっても信玄の残滓」
たしかに。
鵜殿家が諏訪家に切り捨てられるように、諏訪家もまた徳川家と武田家に切り捨てられかねない存在だ。
信濃侵攻に協力した事で、徳川家に諏訪家は領地を安堵された。
結果、諏訪の地に君臨する地元豪族として諏訪家は残った。徳川家の支配が及ばない領土になってしまった。
信濃を支配しているのは徳川家だ。しかし、外様の力で返り咲いた小笠原家でも村上家でもなく、信濃の領地を守り通した諏訪家に寄せる信濃の民の信頼は大きい。
そんな地元勢力を、さらに隣国武田の縁戚にして、仇敵武田信玄の遺児である諏訪家を、信濃を支配する徳川家が危険視しないほうがおかしい。
そして、それに気が付かない諏訪勝頼ではない。
事実、それを危惧した諏訪家は徳川家との縁を強くするべく働きかけてきた。私心がない事を証明するために、徳川家の肩を持つこともした。
しかし、成果が出たのかと言われれば微妙だ。鵜殿家も協力していたが、鵜殿家も徳川家中では外様である。
このままでは、徳川方からの無理難題に反感を持って独立するか、縁を頼って甲斐につくか。どちらにしろ、それをするなら3国同盟の破棄は絶妙の機会ともいえる。
だが、そのどちらにも先はない。
独立するには諏訪家だけでは力が足りず、甲斐を頼るにも諏訪勝頼は旧主の血統だ。新しい武田家では騒動の元にしかならない。
となれば…
「となれば!!」
何かに気が付いたように布団をはねのけ、鵜殿氏長が身を起こす。
乱れた肌着によって晒された肌が外気にふれ寒さを知らせるが、もう一つの可能性に気が付いた鵜殿氏長にはどうでもよい事だった。
彼の思考はめぐる。
実の父親を切り捨てたように、諏訪勝頼は徳川家を切り捨てる事だってできる。同じように今の甲斐武田家を見限る事もできるだろう。
つまりは、第三の選択。
そのために必要なもの。
なぜ、師は明朝ここを立つと告げたのか。いつもなら、数日滞在して歓談するのに、今回に限っては一泊だけ。よほどの急ぎということか?ではなぜ、今回鵜殿家に立ち寄ったのか。
わざわざ信濃まで足を運び、手紙で済む鵜殿家の近況を確認して終わり?まさか。
では、師は明日ここを立ちどこへ行く?
「そういう事か!」
勢いよく布団から飛び起き、乱れて落ちた肌着を気にも留めず、壁際によせていた机を出すと、文箱を開けて手紙を書く準備を始める。
諏訪家にもっとも親しい家は信濃徳川家家中では鵜殿家だ。
ああ、くそ。悠長にしている余裕なんてないじゃないか。
もし、諏訪家がこの第三の選択を選ぶなら、諏訪家が最も必要とするのは鵜殿家との関係。
いつものように数日滞在しなかった不自然さも、突然三国同盟破棄を告げたのも、今すぐこの問題に意識を向ける為、そのために鵜殿家がとる次の一手を示唆していたのだ。
遠くで背中を見せていた師が振り返ってこちらを見ているようだ。まるで、自分が今どこにいるのかを確認するように。
「直。早馬で諏訪家に手紙を送る。夜に馬は走らせられぬが、馬を引いて徒歩で向かい日が昇ると同時に騎乗させればそれでよい。その準備をさせよ」
「夜道を歩くため、松明も用意させましょう。馬に乗せれば負担にはなりますまい」
「ああ、そうだな。頼む」
「はい。ですがその前に」
こちらを見もしないで墨をする夫に、直姫は自分も乱れた肌着を直し、乱れて落ちた夫の肌着を丁寧にたたむと、書き物の邪魔をしないように夫の脇に置く。
「鵜殿家の当主が、だらしのない格好で使いの者に会う気ですか?書き終わったら身だしなみを整えてください」
「わかっている」
ぶっきらぼうにそういう氏長に小さくため息をつくと、直姫は夜番の小姓を呼びにそっと部屋を出た。
布団の中で、夫のぬくもりで暖かかった肌を外気が容赦なく奪っていく。
二人っきりの閨でも心ここにあらずの夫から、部屋から出るのに睦言一つなかった事実を改めて認識し、直姫は唇を付き出して誰にも知られずに不満をあらわにした。
「…いけず」
リハビリがてらに、とりあえず地獄に落ちろ…っと




