132 小田原密談
オレをじっと睨みつける北条幻庵。
正面から見返していると、忌々しそうに唇を曲げて「チッ!」と大きく舌打ちをした。
最低最悪な対応である。多分、殴りかかっても許されるだろう。誰が許す?オレが許す。
まあ、大人な社会人のオレは我慢だ。
「まあええじゃろう。確かに、甲斐に手を回せば、駿河を攻めるには手持ちではちと不如意。だが、上杉が信濃に出ればそうそう楽観もできまい」
「そこまでには決着がつくでしょう。信濃を上杉が手に入れるには、決定的に足りないものがあります」
「ほう」
「人です。上手く小笠原家を取り込んでも、徳川の助けのない小笠原家は知れているし、ましてや上杉家のみでは信濃を支配するための人手が足りない」
普通に支配できるなら、そもそも上杉謙信は越中を落としているだろう。
不幸なことに、上杉謙信は己の名声である「義」に縛られている。関東管領である上杉謙信に、関東ではない信濃を差配する権限はない。
略奪によって領民を生かすための生存戦略ならともかく、私利私欲での侵略は、己の求心力を根底からひっくり返すようなものだ。
「それゆえに、信濃の武田を甲斐へ引き抜いたか」
「武田家が北条家と共にあるなら、味方となった上杉家にとっては武田家もまた味方。逃げ出すのを掣肘はできますまい」
そもそも、現時点で信濃を支配する人間が足りていない。
武田信玄の支配に始まり、武田家の衰退と、徳川家による信濃侵攻により、信濃の支配体制はボロボロだ。徳川家がわざわざ小笠原家と村上家を呼び戻すほどに、信濃を支配する人材が足りていない。
そんな信濃から旧武田家を抜いている現状で、さらに新支配者(予定)の徳川家まで抜ければ、信濃はもうスカスカだ。
そうでなくても、地元に根差した豪族達に、先祖伝来の土地を離れて新しい領土を手に入れようという意欲は低い。もともと、豪族は自分たちの土地を守る為に力を求め、力ある大名の庇護を求めているのである。周辺との諍いの理由も、あくまでも「自分の領地に利益を得る」為だ。元の領地を捨てて、新しい広大な領地を願う豪族というのは少ない。
そういったものを求めるのは、家の継げない次男三男。あるいは歴史の浅い家や新参者達だ。
織田家と同じである。
浅井家朝倉家と敵対した織田家は、両家を討伐した場合、代わりに領地を治める人員をかき集める事になるだろう。
現在の越後上杉家には、そういった対応が決定的に足りていない。
「そうとなれば信濃を上杉謙信が手に入れるには時間がかかるか」
「そこまでにはこちらの決着がつきましょう」
「織田の決着がついても、上杉との決着にはならんぞ」
「いいえ。北条家が上杉家を味方にした段階で、上杉謙信は詰みです」
「…」
オレの言葉に、半信半疑な視線を向ける幻庵老人。
実際、上杉謙信はわかりやすい行動原理をしている。義と利がかみ合えば信長よりも合理的に動く。
だからこそ、敵に回す。軍神と称えられる戦争の申し子であるからこそ、戦争をさせねばその力は発揮されない。
戦争という無駄な争いをしている間に、問題を解決させればいいだけなのだ。
「決着はいつつける?」
「それは両者がどこまで我慢できるかですな」
「無為の我慢比べを見てるだけの貴様ではないか…」
納得したように、うなずく幻庵老人。そして、にやりと笑いつつこちらを見る。
「東駿河。取っても良いといったよな?」
口を滑らせたとは思わない。最悪の場合の損切として提示しただけで、取られないに越したことはない。
なので、けん制はかましておく。
「無駄な努力でよろしければ。どうせ返していただくのですから」
「簡単に返してもらえると思うでないわ」
「簡単に返していただきますよ。場合によっては利子も付きます。後悔したくなければ、はしゃぎすぎないように」
そう言って笑ってやる。
子か孫ほどの年齢差のオレからの余裕の言葉に、再び苦虫を噛み潰したような顔をする幻庵老人。
「チッ!」
もう一度、大きく舌打ちをした。




