129 王道の始まり
甲斐での話し合いを終えて、駿府の今川館に帰ると、数名の鎧武者とすれ違う。
氏真の私室に入ると、大量の手紙に花押(承認印)を書いて手紙を発行している今川氏真がいた。
「何があった?」
「信長が下手を打ったようだ」
こちらを見もしないで手紙に筆を振りつつ、横にあった文箱をこっちに滑らせる。中にある一枚の手紙を取り広げて中を確認すると、ほんの数日前に堺から出されたものだ。
一向宗の本山である石山本願寺が織田信長に対して宣戦を布告。本格的に織田家と敵対したらしい。
「一向宗が、浅井朝倉と手を組んだのか」
「三好ともだ」
手紙を読むと、再び京都に攻め込もうとした三好家と織田家の争いの最中に、石山本願寺が敵に回ったらしい。
一向宗といえば、数年前に三河で一向一揆が起こったが、あの時はあくまでも三河国内の一向宗に限定されていた。今回、本山である石山本願寺が敵対したのなら、全国に散らばる一向宗に各国でそれぞれ個別に対応が必要になるだろう。
三河一向一揆の時にも言ったが、この時代の宗教は民衆の身近な存在だ。神を信じていないというのが異常なくらいだ。
当然、宗教関係者の各国への影響力は強い。
まあ、駿河には当てはまらないんだけどな。
なにせ、『仮名目録』により守護不介入である寺社への介入が認められているのだ。ちなみに認めさせているのは今川家というマッチポンプである。
ともかく、現在今川氏真は各寺社に「暴走するんじゃないぞ」と釘を刺す手紙を乱発しているわけだ。同時に、地元の豪族に寺社が勝手な事をしないように警戒する命令書も発行している。
それが、現在の今川家当主のこの忙しさというわけだ。
今川家だからこれですんでいるが、他の大名に関しては、もっと面倒なことになっているだろう。
なにせ、「余計なことするなよ」と命令する権利がないのだ。
「月斎。手伝え」
「あいよ」
帰って早々これである。ゆっくり休めやしねぇ。
日が落ちる頃に、手紙の発送は一段落ついた。
遅い昼餉兼夕餉を取りつつ氏真と話をする。
「今川と徳川は問題ないだろう」
「問題は武田と織田か」
武田家と一向宗の関係は深い。まあ、武田信玄の正室と、一向宗法主の顕如の正室は縁続きだ。
当然、武田昭信の親族衆や地元豪族にも一向宗を信じる者は多い。
織田に至っては、その広すぎる領土の大半が一向宗の布教分布範囲だ。どこで一向一揆が起こっても不思議ではない。
逆に、つい数年前に暴発して徹底的に抑え込んだ徳川家と、『仮名目録』によって制御された今川家は、その危険は小さい。
「北条を抑える必要があるな」
「頼めるか」
「仕方あるまい…が、それだけではすまんだろうな」
「動くか…」
上洛し近畿一帯を支配する織田信長の勢力は強大だ。石山本願寺の一向衆が強いといっても、それは「しぶとい」だけで、純粋な国力と戦力という意味で脅威ではない。
にもかかわらず、石山本願寺は織田信長に宣戦を布告した。
当たり前だが、勝てるという保証がなければ、わざわざ自分から敵対しようとはしない。勝つ目論見もなく戦いを挑むのは自殺と同じだ。
つまりは、石山本願寺は勝つ算段をつけて宣戦を布告したという事だ。そして、宗教団体でしかない一向宗が、純粋国家である織田家に対抗する手段。それは、おそらく外部勢力。
そして、大事な事なのだが、石山本願寺の最高責任者である法主は仏門であり宗教団体だ。そして、大名とは武門であり統治組織だ。
当然、仏門と武門を結ぶ橋渡し的な役目が必要となる。
その第一容疑者は、征夷大将軍足利義昭。
元坊主の現武門最高責任者。両者を橋渡しする要素を備えている。
織田信長が幕府に求める御恩と奉公と、足利義昭の求める滅私奉公との感覚の違いから、両者が仲たがいをするのは時間の問題だった。
そして、一向宗の掲げる「王法為本」。
端的に説明すると、仏法の道を学ぶのはよいことだけど、社会の法を守ってからにしろよという事だ。
うん。こんなことを言わなきゃいけない段階で、この時代の宗教界の状況は理解できるな。
まあ、法云々はともかく、社会の道理に従う事を良しとしている。
武家の棟梁である足利義昭をないがしろにする織田信長という構図。
これらを名分として一向宗は敵対したわけだ。
「となれば、幕府の本命は今川家。遠くないうちに連絡が来るだろう」
「織田家と一向宗が本格的にぶつかってから、決定打として当家を頼るか」
「なるほど。それは大変だな」
「誰が大変なんだ?」
笑みを消して聞いてくる今川氏真。
それに、薄く笑みを浮かべたまま答える。
「決定打を打たれる織田か。それとも、決定打を打つ幕府か」
「…それを決めるのは当家だ」
主君の言葉に、歯を見せるように笑みを深くする。
ようやく準備が整った。
今川家の立て直しも、近隣諸国との同盟も、これまで積み重ねた実績も。
すべては、ここからだ。
さあ、戦国大名 今川氏真の王道を始めるとしよう。




