128 すべてを奪われた男
元亀二年(西暦一五六七年) 五月
オレは、甲斐の国にある臨済宗の恵林寺に立ち寄る事になった。
「今川家御伽衆 太観月斎です」
「くるしゅうない。面を上げよ」
顔を上げると壮年の男がいた。頭を剃り立派なひげを蓄えた姿からは威厳すら感じる。これが、戦国時代を代表する戦国大名武田信玄。
武田昭信との戦いに敗れて降伏し、その身を恵林寺に幽閉させられる事になった。当然、ホイホイ外出できる身分ではなかったため、オレの方から出向いて会う事になったわけである。
「一度な。会ってみたかった。今生の我侭という奴よ」
武田信虎の四十九日の後に信玄の処罰が決まる。といっても、生き残る道はない。後の禍根にしかならないし、信虎の死を美談にしている以上、その後を追う以外に信玄に選択肢はない。
同時に、義理を通して信玄が死ぬことで、甲斐と信濃に残る信玄の家臣を穏便に取り込むことにもつながる。武田昭信にとっても、領内の信玄シンパの取り込みは重要な問題でもあった。
それは、信玄自身も理解しているのだろう。
どういう心境なのかはオレには分からない。その上でオレに会って何をしたいかも不明だ。
「一つは、信濃家臣達の処遇に苦心しておられるようで、その礼とな…」
穏やかな声だった。
そして、穏やかな声のまま続けた。
「…恨み事よ」
日が陰った。
「よもや、ワシを嵌めた相手が、このような若造であったとは気が付かなんだ」
流石に気が付いたのだろう。遠江での敗北の後に、決定打ともいえる尾三駿三国同盟の締結。そして、オレ自身による太観月斎の名乗り。
十英承豊としての武田信玄との細いつながり。今川家から提供する情報をコントロールできる立場であった事を考えれば、その黒幕と断定しても間違いではない。
「ワシからすべてを奪った男か」
「…それ以外に、武田信玄を討つこと叶いませなんだ故に」
だからこそ、オレは武田信玄からすべてを奪った。
実の父親を追放してまで手に入れた武田家の名を。生きるために命がけで手に入れた戦国大名としての名声を。少しでも豊かにするために守り続けた甲斐を。
そして、己のすべてを譲るべく育てた輝かしい未来。嫡男の武田義信を。
「なぜ、ワシを討つと決めた?」
「強きがゆえに」
「強きを討ちて何を望む」
「眠れる龍の目覚めを」
その為には、贄が必要だった。天才の退路を断つような絶対的な贄が。
別にその為なら武田信玄でなくてもよかった。北条氏康でも、織田信長でも、徳川元康でも。だが、その中で天才に逃げ道を失わせるほどの強い相手が武田信玄だった。
「そうか、龍の子は龍であったか…」
ふと気が付けば、声から穏やかさが消えていた。達観した雰囲気すらなくなっている。
そこに、戦国最強の英雄がいた。
穏やかな雰囲気に隙を見せていたら、あっという間に食い殺される事になるだろう。正しく虎だ。
幸運なのは、オレがもう一匹の虎である武田信虎を知っていた事だ。
正直、見くびらないでよかったと心の中で安堵しているくらいだ。名を伏せ、暗躍し、不意打ちのように信玄を嵌めなければ、オレに勝ち目なんてなかった相手だ。
「子を父に討たせる策か」
「はい」
「鬼よな」
「はい。すべては拙僧の操る外道の業にございます」
認める言葉を吐いたのに、オレの返事を聞いた信玄の表情は、予想外に驚いた様子を見せた。
そして、何かを納得したように呆れたような笑みを浮かべる。
「なるほど。望んで怨恨を纏うか。難儀な師の名を継いだものよな」
そして、再び穏やかな表情に戻る。
「ワシは太原雪斎に会ったことがある。そして、氏真の父である今川義元公にもな」
「…」
突然な話の変わり様を訝しみつつ信玄の言葉を聞く。
「義元公は太陽のようなお方だった。明るく激しく曇りない。憧れるような、そんな大陽の化身ともいえる奇跡のような存在だ」
そして、懺悔するかのように閉じた扇子で自分の首を叩く。
「清濁併せ呑むといえば聞こえはいいが、ワシの濁は他人よりちと濃い。だからこそ、そういったまっさらな者を見た時、後ろめたさを感じる。それが己の限界だと理解してしまう。そして、それを知った者は、二つの事しかできぬ。認めるか、認めぬかだ。そして認めぬ選択の末が桶狭間だ」
ようやく信玄の言っている事が分かった。これはオレに対して言っているのだ。
「義元公を認めたワシは、織田信長を認める事はない。同類であるがゆえに、決して認める事が出来ぬのだ。それは、ワシだけではない。当の信長にも言えよう。濁濃き者は決して信長と相容れぬ」
史実でも織田信長と武田信玄は争った。面白い事に、武田信玄が織田信長に従う未来や、織田信長が武田信玄に従う未来を想像する人があまりにも少ない。
それは当人同士にも言えるだろう。史実では織田信長は決着を引き延ばそうとしていたが、決着をつける事を想定していたし、武田信玄も織田家と同盟こそ結んだものの、最終的には織田信長と雌雄を決する為に牙をむいた。
この二人に関しては、争って決着をつける未来しかなかった。
だからこそ、
「お主が、救いとなれ」
信玄の言葉の意味を悟って笑みを浮かべる。
それは、オレが敗北を認めた笑みだ。正しく、正面から名乗りを上げて戦ったならオレに勝ち目などなかったのだ。
「ワシが義元公に従ったのは、今川義元ただ一人のせいではない。そこに、陰を纏う者がいたからよ。その者が陰を受け持つがゆえに、太陽となった義元公を認めたのだ」
信玄は懐かしむように目を細める。
自分が認めた手。三国同盟を結んで味方となり、天下人になる事を認めた、己の上に立つことを許した人物の姿を思い出すように。
一度目をつぶり、その姿を反芻するように堪能すると、武田信玄はゆっくりと目を開けてこちらを見た。
「甲斐武田家第十九代当主武田晴信が命ずる」
背筋を凛と伸ばし正面からそう言う信玄に、床に手をついて頭を下げて命を待つ。
「大器に天下を納めて見せよ。このワシからすべてを奪うのだ。その程度の事をせねばワシの腹の虫がおさまらん」
そして、言葉を続ける。
「それが出来たら、此度の件許してつかわす」
「…心して承ります」
今川家の家臣であるオレに武田家の命令を聞く必要はない。
その理由を理解した。
自分を嵌め、息子を殺させた事を許すと言ってくれたのだ。
ただ、オレの為に。
その言葉に、オレは深く頭を下げた。
元亀二年 五月十二日
武田信虎の四十九日の法要を終えた武田信玄は、恵林寺の住職快川和尚に遺言を託し自害した。




