127 新生武田家
徳川家での交渉を終えて駿河に戻ろうとすると、今川氏真から手紙が届いた。
甲斐の国に寄るように要請があったのだ。
ついでに、徳川家との交渉結果を、武田昭信に連絡するよう書かれていた。
「ついでに」である。では本命は何なんでしょうかねぇ。嫌な予感しかない。
とはいえ、命令に逆らうわけにもいかない。用事がないわけでもないので、三河での状況を手紙に書いて駿河に送り、三河から信濃経由で甲斐の国に入る。
甲斐の国境付近にはすでに武田家からの迎えが来ており、そのまま甲斐武田家本拠地躑躅ケ崎館に案内される。
躑躅ケ崎館の評定の間へ通され、作法にのっとって頭を下げる。
「太観殿。無理を押して来てくれたこと感謝する」
上座に座る甲斐武田家当主武田昭信の言葉に、頭を上げて答える。
「大したことではございません。それで、急ぎ話をしたいとのことで」
「うむ。今川殿からの手紙で、信濃に残る武田家の家臣達について、徳川殿と話をしていると聞いてな。先代に仕え武田家を支えた家臣達だ。できる限りの事をしたいと思っていたのだ」
今回の話の最後の難題がこの甲斐の新当主武田昭信だった。
なにせ、信濃にいるのは正真正銘武田信玄に従った家臣達だ。敵でもあった先代当主の信玄の影響力を排除したいと思う可能性もあった。
「よろしいのですか?」
「先の戦いで棚上げになった領地が残っているからな」
先の信玄との戦いである程度調略して味方に引き込んだとはいえ、甲斐だけで見れば勢力を二分しての戦いであった。
昭信側が勝利した以上、敗者にはそれ相応のペナルティが課せられる。
降格に領地没収。
そもそもこの戦いの理由を突き詰めれば、突然現れた武田昭信に甲斐での確固たる地位を与える為の戦争でもある。
甲斐で己の意志を貫くには、やはり力が必要不可欠だった。
そして悲しいかな、甲斐武田家当主としてならまだしも、武田昭信個人に忠誠を誓う人間はあまりにも少ない。
「縁者や知己を頼られては?」
「ある程度は与えているがそれ以上はな…様子見だ」
そもそも昭信自身が甲斐で生まれた人間ではないため、甲斐の人間との面識があまりにも薄いのだ。甲斐に返り咲くにあたり、父親の武田信虎が駿河時代に作っていた関係者や、京都で召し抱えた家臣などを連れてきているが、当然彼等も甲斐とのつながりはないに等しい。
ましてや、そんな彼らが甲斐豪族の上に立って円滑に領地を運営できるかと言われたら、疑問が出るだろう。
「親族衆にこれ以上、力を持たせるわけにはいくまい」
「御屋形様…」
昭信の言葉に、評定にならぶ家臣が明らかに不満気な表情で声を上げる。
どうやら彼は、現在話題に出てきた親族衆らしい。
「言ったはずだ。北条に対抗するには武田家の力を集めるしかない」
「しかし…」
「ここで武田家で内紛を繰り返すか?それこそ北条に付け込まれよう。信濃の家臣はワシが抑える。それでようやく北条家の無理を退ける事が出来るのだ。それとも、小山田。お前が東の矢面に立つか?」
「…いえ」
「安心せい。此度の立役者である親族衆をないがしろにするようなことはせん。何を置いてもお前たちのおかげである。信濃の新参衆を加えたとしても、新参は新参、出戻りに大きな顔はさせぬよ」
なるほど。どうやら武田昭信と言う男は、政治にも長けた人間らしい。
信濃からの家臣を取り込むことで、自分自身の勢力を伸ばし、親族衆の台頭を抑える。そして、親族衆と新参衆の確執をあおる為の共通の敵が、甲斐で影響力を増した北条家という事だ。
その方向に話をもっていく事で、武田家勢力で最も力を持つ親族衆を抑えつけたのだ。
先の戦いで最も矢面に立ったのは甲斐で裏切った豪族達。次がその後援をした今川家。そして最も被害が出なかったのが、そもそも武田信玄と矛を交える事すらしなかった北条家だ。
そして、今川家は当初の約束通り、後援のみで甲斐から引き揚げた。
あとは、婚姻をした事で甲斐への影響力を増した北条家だ。誰が見ても、漁夫の利を得た北条家が脅威に見える。
そして、その北条家を抑えるには親族衆だけでは心もとない。もちろん、最後の手段として再び今川家の力を借りる事で対抗できるかもしれないが、それこそ自分たちの無能を喧伝するようなものだ。
武田家で甲斐を支配するためという理由なら、武田信玄を裏切った親族衆も信濃の家臣達を受け入れる事もできるだろう。
今回、信濃の武田家家臣について交渉を始める前に、今川氏真に昭信との交渉を任せていたのだが、甲斐侵攻後に今川兵を駿河に戻して、北条家の脅威を甲斐の豪族に印象づける事で対処していたわけだ。
「はい。信濃侵攻において、今川家が仲介して、武田家家臣を甲斐に戻す事については、徳川元康様に承知いただいております。ただ、あくまでもそれは当人が望む場合の事。信濃に固執する場合に無理は出来ません」
「それは承知している。甲斐への帰参を望む者についての話だ」
「そのお言葉が頂けただけで、信濃に残っている者達も安堵するでしょう」
あえてぼかして「信濃に残る者」という表現で、信濃で交戦する者と、徳川家に仕える者も含まれるように口に出す。
まあ、その結果の確執は当人同士の話だ。
そして、今回徳川家と武田家を仲介した今川家は、その確執の仲裁を出来る家として両家の選択肢に残る。
マッチポンプと言うなかれ、今川家の家臣として、今川家にも利益を与える要素が少しは必要なのだ。
まあ、徳川家の了解と武田家の許可が下りた事で、信濃に残る武田家家臣の逃げ道を用意する事が出来た。信濃で徹底抗戦という無駄な選択の可能性が減るわけだ。
つまりは、当初オレ達が望んだとおりに、両家に恩を売った形で、徳川家による信濃侵攻が加速する事になる。
金銭的支援による加速ではないが、ゼロでもマイナスでもない次善の策と言う所か。
交渉が一段落ついたところで、上座に座る名家の甲斐武田家当主武田昭信は少しすまなそうな表情をすると、少し言いにくそうに口を開く。
「さて、月斎殿。実は貴殿にどうしても会いたいという方がおってな」
「拙僧にですか?」
「無理を言っている事は分かっている。どうだろうか?」
相手は名家の当主で甲斐の大名。こちらは無位無官の一家臣である。どうみてもパワハラです。本当にありがとうございました。
そうか、こっちが本命か…




