125 格差による陰謀
三河に入る前に、西遠江で船から降りる。
向かうのは浜松城…ではなく、井伊谷と呼ばれる場所だ。ここは遠江の豪族井伊直親が治めている。元々今川家の家臣だった井伊直親は、徳川元康が三河を統一すると、いち早く徳川家に内通し、徳川元康が遠江を侵攻するきっかけとなった。
結果、徳川家は西遠江を手に入れる事となり、井伊家は徳川家の遠江での主要豪族になり、遠江徳川家の重鎮としてまだ若い徳川元信を支えている。
今川家からすれば裏切り者といえるが、実際は武田信玄を動かすためにわざと裏切らせたので、三国同盟締結時に井伊家と今川家も和解している。
「月斎様。一別以来です」
オレに頭を下げるのは井伊家家老小野道好。井伊家が今川家を裏切るために暗躍した人間だ。
とはいえ、彼等にも事情があった。徳川家が三河を統一し遠江を狙うその矛先が、三河との国境近くにある井伊家の本拠地である井伊谷だったのだ。
普通なら、今川家に救援を求めるところだったのだが、運悪く当時の征夷大将軍足利義輝が『永禄の変』で殺され、足利家の分家で幕臣でもある今川家は混乱し動けなかったのだ。
こうなれば、あとは生存戦略だ。井伊家を残すために三河徳川家に接触。いち早く徳川家に下る事で一族を存続させる…ように、オレが勧めたのである。
最終的に、尾三駿三国同盟を結んだことで徳川家とも友好関係となり、井伊家との関係も円満解決した。こうして、井伊家存続の立役者である小野道好は井伊直親の懐刀として(あと今川家とのパイプ役として)井伊家で力を振るっていた。
徳川家の次期当主である西遠江浜松城の城主徳川元信の腹心の家臣に、オレの影響力を持つ相手を潜り込ませることができたのはほんの余禄である。
「井伊直親様も徳川家でご活躍のことと聞いております。まだ年若い元信様を支えておられるとか」
「いえ。なかなかに三河の家臣との関係は一朝一夕とは行きがたく…」
おためごかしのようなヨイショ合戦。まあ、要するに会話のジャブだ。
当然、その後に来るのはストレート。
「…此度の来訪は、信濃侵攻についてでございましょうか?」
「左様」
徳川家は大義名分を手に入れた。だが、その先の戦略はいまだに不明だ。信濃侵攻の最前線である遠江徳川家の重鎮井伊家の筆頭家老なら、その情報にも詳しいだろう。
「甲斐で武田信玄が敗れ、烏合の衆と化した信濃を徳川様は脅威と見てはいません。取り込むことを考えております」
「調略ですか」
その方針は当初から定まっていた。といっても、大義名分がなかった時の話。紛争介入からの隷属化の効率と、侵略後の信濃の慰撫にかかる時間と費用を考えて、調略により時間をかけて地元豪族の取り込みを図るしかなかったのだ。
結果、甲斐が落ちても徳川家はまだ信濃の南部に足がかりを作った程度でしかない。
その遅れをどう取り戻すかの確認は重要だ。
「はい。井伊直親様は、一時期信濃にいた事がございました。その時の縁を頼りにいくつか功績を上げました」
「何を保証しました?領地の安堵?」
その時の領地を保証する「本領安堵」は調略の基本ともいえる。だが、信濃に徳川家の家臣を分家として置くならば、一定の徳川家直属領が必要となる。そのためには、領土の代わりになるものが必要だ。
「永楽銭でございます」
「それほどの蓄えが徳川に?」
確かに質素倹約につとめる徳川元康だが、人の心を動かせるほどの金銀財宝をため込んでいたのだろうか。
「いえ。銭の出所は岐阜です」
「…」
「ッ…」
そう言ってオレを見た小野道好が、一瞬言葉に詰まる。笑顔を見せて、先を促すと一度ツバを飲み込んで話をつづける。
「さ、先の姉川での援軍の謝礼としてかなりの財貨が動いたと思われます。直親様が信濃豪族を取り込む際に使用した額はざっと500貫文ほど」
現代の貨幣価値に換算するのは難しいが、あの徳川元康が竹千代だった頃に、三河の豪族が裏切って竹千代を織田家に渡した際に受け取った謝礼金が1000貫文。身内である当主の嫡男を敵に渡した額の半分である。
それを、重臣とはいえ徳川家の一家臣に与えたという事は、織田家から徳川家に贈られた総額は莫大な金額であることが推測される。
「さらに、徳川元信様と織田家の徳姫様との婚儀を、来月にも執り行う運びとなっております」
「徳姫様はこの浜松城に?」
「…はい。その為に浜松城に奥殿を作るべく、織田家から過分な支援がされており、すでに着工しております」
「左様か」
やられた。
織田信長は、オレの作った『仮名目録追加35条』を手にしながら、ほくそ笑んでいるだろう。
今川家『旗本御家人』制度。それは、織田家をターゲットにした傭兵制度に他ならない。日本経済の中枢を掌握し莫大な財を生み出せる信長にしてみれば、金で雇える精兵は喉から手が出るほど欲しいだろう。
顧客のニーズに合わせた商品造りという意味で、オレは織田家にあわせた傭兵部隊を編成したのだ。
では、それによって今川家は何を得るのか。
当然、謝礼として代金を受け取る。
では、もう一歩話を進めよう。その代金を今川家はどう使うのか?
その使用先が信濃侵攻をする徳川家だった。旧武田家豪族からの人質交換の身代金。今川家からその代価を徳川家が受け取り、信濃の豪族を調略する資金とする。
つまりは、織田家の資金を使って、徳川家に代価を支払い、甲斐に人を送る事で、今川家が武田家と徳川家に恩を売ると同時に影響力を増す作戦だ。
それを、織田信長に見抜かれて、さらに機先を制された。
今回、織田家から徳川家への嫁入りを必要以上に盛大なものにした。この行為は、そのまま、今後行われる予定の今川家から織田家への嫁入りに影響する。
この時代の大名家。いや、武門の家。それどころか農村の庄屋と小作人に至るまで、この時代の人間には大小様々な『格』と呼ばれる分類分けが行われている。
名門名家と口を酸っぱくするほど言っている今川家は、当然織田家よりも家格は上だ。その身分としては上の存在が、同じような冠婚葬祭をする時に、格が下の家よりも貧相な事しかできなければ、文字通り面目を失う。
つまり今川家は、織田家の徳川家との婚姻以上の規模で実施しなければならなくなった。
今回の徳川家への莫大な費用すら織田家の負担にはならない。短期的には出費が増えても、長期的に見れば十分元が取れるのだ。
なぜなら、今川家が膨れ上がったその費用を賄う手段こそ、オレの追加した仮名目録の追加条項『旗本御家人制度』。
オレが織田家の資金で徳川家を支援するつもりが逆となり、今川家の面目を立たせるために、織田家に協力しなければならない状況を作り上げられたのだ。
織田家に見栄を張るために、織田家から資金を得るために雇われなければならない今川の精鋭兵。
その資金は徳川家には流れずにそのまま織田家に回収される。
同盟国であることすら利用されて、資金の流れを大きく変えられた。
織田家が何よりも上客であるがゆえに、今川家は織田家に積極的に雇ってもらう必要が出てくる事になる。
「浜松城へ行きます」
「これからですか?」
外はすでに暗くなり始めている。予定ではこのまま井伊谷で一泊だったのだが、状況が動いた以上、対応は早い方がいい。
「井伊直親様へ連絡をつけてください。今晩中に話をして、明日の朝には徳川元信様に面会を求めます。急いで三河に行く必要が出来ました。」
「承知しました。直親様に早馬を出します。浜松城までは私も同行しましょう」
そういうと、小野道好は立ち上がった。
(時系列が違う事による双方の意識の違い)
主人公:信長から金をむしり取ろうと思ったら、こちらに巨額の経費をかぶせてきた。この費用を賄うには、むしり取る予定の金を使うしかない。徳川武田に恩を売る作戦ガガガ…
信長:経費拡大させて首を回らなくしようとしたら、こっちから金をむしり取る体制作って対処してきやがった。クソが!




