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121 老虎必敗の一手

オレが駿河の今川館で、留守役の三浦様と一緒に雑務をこなしていると、甲斐攻略に出ていた今川軍が帰ってきた。

結果的に、谷戸城に籠った武田信玄は降伏勧告を受け入れ投降。

武田昭信は武田家本拠地である躑躅ヶ崎館に入り、武田家の家宝『御旗』『楯無(という鎧)』を継承し甲斐武田家第二十代当主として名乗りを上げた。

武田信玄降伏により、国内の反乱勢力も消え、武田昭信の新しい武田家の始まりとなるのである。

こうして甲斐侵攻が終わった為、一部の軍勢は引きあげてきた。東は同盟国の北条家で、西にはいまだ旧武田残党が残ってはいるものの、当面の心配はないとの事だ。




帰ってきた今川氏真に呼ばれて私室へ入ると、開口一番、楽しそうな笑顔で聞いてきた。


「悪鬼羅刹の住処はどうだった?」


その笑顔に渾身の右ストレートを入れたら多分ストレス発散できそうな気もするが、オレは大人だ。瞳に浮かぶ少し疲れた雰囲気を読み取ってぐっと我慢する。


「お前のお札は役に立たなかったぞ」

「丑三つ時まで待つような煩わしい事もなく、物の怪に会う事が出来ただろ」


この野郎…

まあ、実際に無位無官のオレが、まともに偉い人に会おうと思ったら、紹介状のツテとコネをたどっていくしかない。そのはずだった。

それが堺政所の長官から始まり、京都の豪商、さらに大和の大名だ。紹介状関係なしに次々とワンランク上の人に会う事が出来た(尾張の大名はプライスレス)。

まあ、プラスとマイナスのどちらにワンランクアップかはこの際置いておくとしよう。


「で、状況は」

「織田家と浅井家は手切れとなる」

「勝っても負けても織田の歩みも止まるな」


北近江の土地は陸路は美濃から京都までの道。さらに琵琶湖の水運は中央交易の要と重要な土地だ。だからこそ身内にまでした浅井家に任せていたのだが、その浅井家を滅ぼす以上、その重要地を治める人間が必要になる。織田家本拠地の岐阜と京都の間にある重要地点だ。それなりの立場の人物で無ければならない。

そうなれば、親族や譜代の家臣を据える事になるのだが、新興勢力である戦国大名織田信長の率いる織田家が抱える一番の問題が、その信用のおける家臣の数だ。

美濃攻略時にも指摘したが、尾張の南半分の代官のさらに家臣だった織田信長の直属の家臣である。どうみてもその数はたかが知れているのだ。

さらに、その地を統治させるための時間が必要になる。その時間はそのまま、家臣の少なく代替の効かない織田家の進軍が止まる事も意味しているのだ。

まあ、だからこそ『仮名目録追加35条』なんだけどな。


「で、そっちは?」

「じいちゃんにしてやられたよ」


今川氏真の祖父に当たるのが、武田信玄の父親武田信虎だ。

少し笑みを曇らせて氏真の語った話はこうだった。

三月二十日に今川北条軍は武田信玄軍と戦闘を開始。本陣にいた武田昭信の代わりに前線で指揮していた武田信虎は鬼気迫るものがあったそうだ。武田昭信に味方する甲斐豪族達が崩れなかった要因の一端を担っていたほどらしい。

そして、武田信玄が敗走し勝利を収める。

武田昭信達が武田家の本拠地である躑躅ヶ崎館に入る中、武田信虎は敗走した武田信玄を追撃。甲斐の谷戸城を前に陣を敷き、睨み合いとなった。

そして、三月二十三日。

躑躅ヶ崎館で部隊を再編成した本隊が到着する数刻前に、陣中で自刃している信虎が発見される。

その事に、暗殺の疑惑を氏真に向けるが、それを察して氏真は首を横に振る。


「…手紙があったよ」


一通は、今川家および武田昭信宛ての手紙。

生きて再び甲斐の地に足を踏み入れ、その地にて果てる事に悔いはない。

また、かつて今川家において謀反を画策した自分という存在は、生きているだけでいらぬ疑惑を生みかねず、禍根は残さぬようにすべきである。

今後の武田昭信はついてくる家臣を信じ、武田家当主として勤めを全うに果たすように。

助力頂いた各大名には、今までの禍根を深くお詫びし、今後も昭信を助力いただくよう、伏してお願いする。

といった内容のようするに遺書だ。


もう一通が、武田信玄への降伏勧告に、自分の首と手紙を添えて送る事。

手紙の内容は、武田晴信は武田家の正当な第19代目当主であり、名声と実力において父を超えた見事な大将である。父はそれを誉とし、かつて疎んだ己の無能を嘆き、無用な苦労をさせた息子に深く詫びる。

無力な父に最後に出来る事は、親より先に死ぬという不徳を与えることなく、武田家当主としての務めを全うする事を切に願う事だけである。

と武田信玄本人へ宛てた手紙であった。


「…さすがは怪物だな」

「ああ、遺言通りそれを送り武田信玄は降伏を受け入れた。今は恵林寺にその身を預けている。じいちゃんの四十九日の後、処断する予定だ」


事実、命運尽きたとはいえ谷戸城は堅城だ。そこを守る武田信玄が最後まで抵抗すれば被害が出る。そして、何よりも英雄武田信玄の威光が、今後の武田昭信統治下で永遠にくすぶり続ける事になる点が問題だった。

英雄武田信玄の名を借りての一揆や反乱。今回武田昭信に従った甲斐豪族とて、信玄の名を掲げて反旗を翻す名分とするかもしれない。

出来るか出来ないかという事ではなく、選択肢として残るかどうかという話だ。

故人が降伏に納得して決着がついたのなら、その選択肢を排除する事が出来る。反乱を起こそうとも、故人の意思に反しているのは自分達であるわけだからだ。


そうなると、残りの問題は武田信玄本人についてだ。


「見張りは?」

「いや。逃げ出す先はない。この話を甲斐中にふれまわったからな」

「そうか…」


氏真の方策に小さくうなずいて同意する。

実際、武田信虎の首を武田信玄の前に差し出した段階で、武田信玄は降伏を受け入れるしかなかった。

なぜなら、武田信玄にとって武田信虎は敵だったのだ。

降伏を受け入れる事で、武田信玄は武田信虎に敗北を認めさせて勝利を得る事が出来る。

しかし、降伏しなければ実の父親を無駄死にさせたことになる。その配慮に泥を塗った”生き汚い”武田信玄は、死を賭した”潔い”武田信虎に敗北する事になる。

それだけで、武田信玄が築きあげてきた名声は地に落ち、追放した父親の踏み台となってしまうのだ。

武田信虎は、自分の命と敗北を与える事で、武田信玄の逃げ道を完全に封じた。

もはや、武田信玄に再起の芽はない。ここで逃げのびても、見事な父親と、比べるまでもない恥知らずな息子でしかなくなる。

織田信長にとって、信念を曲げた浅井長政が死んだも同然のように、武田信玄自身にとって、追放した父親に最後に負ける事は、自分のこれまでの人生の否定であり死んだも同じなのだ。


武田信虎は、おそらく覚悟の上だったのだろう。

駿河に来て、最後にオレが武田信虎に会った時に、すでに覚悟は決まっていたのかもしれない。今なら、あの時の発言に深い意味があったこともわかる。

それが、滅ぶしかない息子の事を思う父親としての心情なのかはわからない。ただ、オレを含めて誰にも悟らせる事なく、往年の怪物は一命を賭けた必勝の策を講じていたのだ。


「月斎。お前は、よくこんなじいちゃんに勝つ事が出来たよな」

「だから、無害を装って騙し討ちにしたんじゃないか」

「なんて、恐ろしい男だ。どうすればこんな非道な性格になるのやら」

「幼い頃に、名門の童の面倒を見させられ続けるとこうなるらしいぞ」


オレの返事に、今川氏真は少し暗い雰囲気を和らげて笑う。

今回の事は、今川氏真にとって祖父の死以上の意味がある。

今川氏真は隣国への侵略戦争に勝利したという明確な実績を手に入れたのだ。自国を守るだけではなく、家臣達の反乱を治めるだけでもなく、隣国に攻め入り滅ぼしたという名声を得る。

それは味方を守るだけの統治者ではなく、敵を滅ぼす支配者でもあるという証。

もはや、周辺各国は政戦共に今川家と今川氏真の力を見くびる事はしないだろう。

名実共に、他国を攻め取る大名今川氏真の誕生でもあるのだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 遅ればせながら、第121部分の感想を。 と言っても、書くべき事は他の人が大体先に書かれているので、一言だけ。 「文字通り自らの命を賭した最善手、信虎天晴れ!」
[良い点] 予想できない信虎の最後でした。 [一言] うん?親今川の新党首の下に一つにまとまった甲斐? スベスベマンジュウガニの策略だと後世に語られるのかな?w
[良い点] おじいちゃん 全額支払いして前倒しさせてもらった感じか 今川家にケツ持ちさせられる唯一の一手ですかね 史実考えるとおじいちゃん大勝利よ。覚醒前の氏真でさえ大名ジョブを切り捨てることで多才…
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