120 姉川の戦い
元亀二年(西暦一五六七年) 四月
小谷城から出てこない浅井家に業を煮やした織田軍は、そのまま浅井家支城である横山城攻略に乗りかかる。
これは小谷城から浅井軍を誘い出すためでもあったのだが、浅井家は横山城からの救援要請に沈黙で返していた。
それは浅井家が朝倉家の援軍を待っているのだと予測するのは当然の事でもあった。
織田家がそれを見越して要請した援軍の三河徳川家が現れたころ、朝倉家からの援軍も到着する。
その報告を聞きながら、織田信長はそばに控える堀久太郎秀政に声をかける。
「朝倉義景は出ぬか。久太郎」
「はっ」
「仕込みが生きたな」
「ははっ」
満足するように笑みを浮かべて返事をする秀政を見て、信長は顎に手を当てる。
そして、不敵にもにやりと笑った。
朝倉軍は援軍に朝倉景健を派遣した。それは、越前で中規模な一向一揆が発生し、それが足かせとなっていたためだ。義景は軍の一部を敦賀に置き、近江と越前の双方に派遣できる体制を取った。後詰めととれなくもないが、それは織田家との戦に全力を出せない事を意味していた。
「久太郎。奴が、いや今川氏真が何を考えているかわかるか?」
「いえ、某には…」
「奴は浅井家の行動の真相を知るために来た。だが、今川は浅井を、その裏にいる朝倉を敵とみなしていると思うか」
「…いいえ」
その言葉に、秀政は考える。
今川家は浅井も朝倉も敵として見てはいない。今回、月斎様の助言に従い、ささやかな勲功を得たが、それすらも、その場の思い付きといわんばかりの内容だ。
もし、本気で月斎様が浅井朝倉を潰そうと考えるなら、こんな小手先の策ではなく、今の甲斐の武田信玄のようなどうしようもない状況に陥れる策を講じるだろう。
「あの坊主はな、はなから浅井の動向など見てはおらぬのよ」
「では、何のため京に?」
「ワシの首の行方じゃ」
主君の言葉に、秀政は絶句する。
「…まさか」
「奴の目。すなわち今川氏真の目は、織田家の進退のみを追っている。その証拠に、奴は浅井の行動を読んでなお京にとどまり、駿河に戻るのは、我らが浅井討伐の軍を上げてから。そのくせ、この合戦の行方には興味もないといわんばかりだ」
確かに、有利ではあっても相手は歴戦の武田信玄だ。その戦いの最中に、わざわざ国元から離れている事は、それだけここにいる事が今川家にとって重要だという事になる。
そして、月斎様は浅井家の状況をあの場で語って見せた。もし、浅井家の離反について調べる事が目的なら、あの段階で達成している。そして、自分に助言した事以外に、浅井家と朝倉家に対して何かをしたという話を聞かない。
それでいて、早々に国元に戻るではなく京都に滞在していた。
それが、織田家の行動を確認する為だというのなら…
「しかし、今川家とは同盟を結んでおります」
「武田信虎を盤外に置いた時も、今川と武田との同盟は生きておったぞ」
その言葉に、堀秀政は返す言葉を失った。
確かに、同盟関係を結んだから安心だ。などと言えるわけがない。それは、月斎様がいる今川家であってもだ。
そしてそれは、今川家側にも言える。
だからこそ、織田家と浅井家の同盟関係が、どう動くのかを確認する為に、京都に滞在し、この時に駿河へ戻る事もつながる。
この合戦の勝敗ではなく、浅井家との関係が確定するこの合戦の有無を確認する為に来たというのなら、確かに月斎様が駿河から出てまで確認すべき事だろう。
そして今川家が織田家と浅井家の関係を確認しなければならない理由。
わざわざ、月斎様がその眼で確認するために京都へやってきたのは、同盟国織田家の窮状を鑑みてではなく、将来敵となった場合の織田家の情報を正確に掴むためという事になる。
「まさか、殿はそれを見越して口止めを?」
もし、今川家が織田家と敵対する事を想定して動いているのなら、そのために重要になるのは、両国との同盟をむすんでいる徳川家。
月斎様を迎える際に、あえて信長様が口止めするよう指示されていた事がある。徳川家に旧信濃守護 小笠原長時を送り、信濃統一の際はその子と徳川元康の娘を婚姻させ小笠原家の復興を計るように手はずを整えている事だ。
信濃侵攻の大義名分を求める徳川元康にとっては、願ってもない事である。
さらに、徳川元康は幕府を通じ家臣石川数正を越後へ送り、武田信玄に追いやられた旧信濃豪族の高遠家と、彼を庇護する幕府の関東管領職にある上杉謙信とも協力体制を取ろうとしている。
「氏真に娘をよこせと圧力をかける。浅井家と切れた以上、同盟関係の強化は必要だという理由からな。それで今川家への牽制になる」
秀政の言葉に明確な回答をせず、織田信長は笑みを浮かべて次の一手を示す。
答えないことで秀政も気が付く。今回、援軍を求めるために、織田家は徳川家に過剰なまでの支援をしていた。それはそのまま徳川家を東への盾とするための一手なのではないのかと。
つまり、月斎様が来る前、金ヶ崎の戦いが起こる前から、信長様はこの状況を想定して手を打っていたという事になる。
三国同盟の約束は、徳川家が信濃を、今川家が甲斐を。甲斐を今川家が手に入れようとも、信濃を手に入れた徳川家は、そのまま今川家への防壁となる。
それはたとえ、今川家が北条家や武田家との同盟を復活させても変わる事はない。
織田家が徳川家と同盟を結んだ当初の状態からこれだけ情勢が動いても、織田家の領土の東を徳川家に守らせるという戦略に変わりはないのだ。
探るように自分の思いついたことを口に出す。
「此度の戦で徳川様に加勢を頼んだのも?」
「援軍を頼む以上、礼をするのは当然のこと。商いと同じよ。値をつけるのは売り手。支払うのは買い手。だが、上客か否かを決めるのは、値ではない。支払い次第よ」
信濃を手に入れるための徳川家の戦略。
信濃攻略を武力ではなく調略で行うなら、必要なのはその代価だ。しかし、今の徳川家が提供できる利益には限りがある。だからこそ、そこを織田家が補填する。あの武田信玄が甲斐でとれた金を使って信濃の豪族達を調略したように、甲州金を永楽銭に変えれば同じことができるだろう。
今回の戦に援軍を出す為に、織田家が徳川家に支援した兵糧。さらに、加勢に対する謝礼。
それが、そのまま徳川家の信濃攻めの糧となり、徳川家を織田家に引き込むことにつながる。
何が恐ろしいかといえば、主君である信長様は、それを太観月斎様が京都に来られる前から手を打っている点だ。
月斎様が様子をうかがいに来ることすら、想定していたという事になる。
それに気が付いて言葉を失う秀政に、信長は薄く笑う。
「この戦が終われば、元康の子と徳(信長の娘)の婚姻じゃ。盛大な婚姻に、持参金をはずむとしよう」
徳川元康の嫡男元信がいるのは今川家と隣接する遠江の最前線。そこに婚姻に合わせて織田家の手を入れることで、今川家の動向を探る事もできる。
そもそもこれは、三国同盟締結直後に今川家との話し合いで決まった事で、今川家から文句が出ようはずもない。
月斎様はそれを知っているのか?それとも知っていてそれを許したというのか?それはなぜ?
「久太郎。話はこれまでじゃ、戦に注力せよ。命を懸ける戦場だ。気を抜くなよ」
浅井家との戦に向けて、横山城包囲を解いての行軍を指示する信長。
その後ろ姿を呆然と眺めながら、堀久太郎は予測する事すらできぬ自分の未熟さをかみしめた。
注意:この後、姉川の戦いで、織田軍は浅井家磯野隊に陣を13段中11段までぶち抜かれます。




