119 甲斐の行方
元亀二年(西暦一五六七年) 三月末
駿河に戻る為、堺から船に乗ったオレは予定を変更して三河で降りた。
その理由は、徳川家の織田家援軍の情報を確認する為だ。
当初、岡崎に向かったオレは学友でもある石川数正を訪ねたのだが、残念なことに留守だった。
まあ、徳川家でも数少ない外交のできる人間だ。織田家に援軍を出すにあたって折衝役として出向いているのだろう。
手紙を書いて軽く近況報告だけして帰る事にする。律儀な助さん(数正の綽名)の事だ、これを読めばオレ宛てに返事を書いてくれるだろう。
そんなわけで次の情報源へと足を運んだ。
「確かに、元康様は近江へ軍を出すようです」
次の情報源。つまり、岡崎に近い上ノ郷に領地を持つ鵜殿氏長の館である。
かつての弟子であり、徳川家と今川家に仕える彼は情報源としては申し分ないだろう。
一応、京都土産を渡して一方的に搾取しているわけではない事をアピール。実際、東海地方の一豪族では国を出る事すら一生ない事も珍しくない。土産話は重要な情報源だし、都の品というだけで貴重品だ。
そんなわけで、オレが京都で得た織田家と浅井家の近況を提供する。今後も徳川家が織田家の援軍として浅井家朝倉家と争うなら、役に立つ情報になるだろう。
「ただ、私は今回の援軍に参加する事はありません」
少し残念そうにそう言う氏長。
なので、笑顔で指摘しておく。
「それは良かった」
「…と言いますと」
「信濃攻略は順調であるという事だろう?」
「…はい」
オレの言葉に、残念そうな表情をくるりと変えニヤリと笑う。
以前、話を聞いた際に信濃の豪族諏訪家と縁を繋いでおり、信濃攻略が始まる際に徳川元康に進言するよう助言を与えていた。
事実、徳川家は信濃攻略に当たり調略を用いて介入しており、当然事前に交渉していた鵜殿氏長と諏訪家の関係は、すくなからず効果を出していた。
「お主の代わりに諏訪家と取り持てる者は徳川家にはおらん。そうなるよう動いたのだとは思うが、それゆえに無用な戦場に連れていくことをやめたのであろう」
三河に領土を持ったと言っても、鵜殿家の領土はかつての半分以下。この時代の保有兵力は領土に比例する。鵜殿家当主であったとしても、その数は微々たるものだ。周囲に分家があるとはいえ、かつて裏切った者達であり、今川家から戻ってきた本家の人間をよくは思っていない。
それを理解してか、氏長も了解するようにうなずく。
「おそらく、元康様は信濃を手に入れた後、特定の家臣にお与えになるつもりかと」
「となると、信濃には徳川の分家を置くか。徳川殿の御子はどうであったか」
「嫡男元信様は遠江。次男はまだ赤子。上の姫は織田家との婚姻を控え、可能なのは下の姫かと」
「信濃への大義名分を持つ家に嫁入りか」
「探りを入れますか?」
氏長が聞いてくるので首を横に振る。
「無用だ。名分なら探らずとも時が来れば声高に教えてくれる。今は、徳川家が信濃侵攻の大義名分を手に入れた。これだけで十分」
「はい」
良くも悪くも鵜殿氏長は今川家と徳川家に仕えている。故に、どうしても徳川家では部外者と目される。それが身内同士で固まる三河の豪族達であればなおさらだ。
だからこそ、余計な行動は慎むべきだろう。
「さて、小難しい話はここまでにして、京都で学んだ茶の湯について教えてやろう」
話を変えつつ明るい話題に移ろう。
別に、覚えたての京都文化のパイオニアを気取りたいわけではない。あくまでも、同好の趣味を持つ者を増やす。それは駿河で茶の栽培を推進している昨今、顧客の増加につながるという草の根活動である。
京都のお土産に、安物だが茶碗が多いのはそういった理由だ。
他意はない。
鵜殿家での歓待を受けて駿河に戻る。
駿府の今川館に戻ったものの、今川氏真以下主要な家臣は甲斐侵攻に向かったままで、まだ戻ってきてはいない。予定ではそろそろ戻ってきてもよかったのだが、甲斐で何かあったのだろうか。
ただ、今川館の雰囲気は明るく、甲斐侵攻が滞っている不安感のようなものは感じられなかった。
自室に戻ると、不在の間に送られてきた手紙がまとめられていたので中を確認する。
今川家による甲斐攻略は、いくつかの障害はあったものの終始今川軍の優勢に進み、起死回生を狙った武田信玄との決戦においても圧倒した。
元々、三万対八千という圧倒的な戦力差での戦いであり、さらに今川軍の1万は寝返った甲斐の豪族達。自分達を信じてもらう為、また勝利後の武田昭信統治下での勢力維持の為に、必死の信玄軍に崩れずに戦ったらしい。
結果的に見れば、今川家には大した被害もなく勝利を収めたそうだ。
敗走した武田信玄は躑躅ヶ崎館を捨て甲斐北部の谷戸城に逃げ込んだ。
誰の目にも武田信玄の滅亡は避けられないものとなっていた。
実際、ここで甲斐に固執するのではなく、まだ自勢力が残っている信濃に逃げれば、生き延びる可能性はあった。しかし、武田信玄には甲斐を捨てる事が最後まで出来なかったわけだ。
もっとも、信濃に逃げたとしても幕府も認める甲斐武田家の当主武田昭信がいる以上、そのまま甲斐を支配されて信玄の系譜は終わる。
甲斐から逃げた段階で、信玄は武田家の当主の地位を失うのだ。
信濃に逃げずに危険な甲斐にとどまった武田信玄。それは自分が一生をかけて積み重ねてきた『甲斐の虎』『武田家の英雄』であった人生を捨てる事は出来なかった事の表れだろう。
そして、最後に残った手紙を手に取る。
もっとも新しい日付の手紙だ。差出人は今川氏真。甲斐から態々オレ宛てに送って来たらしい。
中を開けると、一枚の紙にたった一文だけ記されていた。
元亀二年三月二十三日 武田信虎 自刃
※最後の理由は次々回に判明します。




