114 浅井長政
朝倉派に担ぎ上げられた新当主浅井長政に選べる道はなかった。
南の強大な六角家に対抗するには、北の朝倉家との関係は生命線だ。結果、朝倉家の思惑通りに浅井家は朝倉家の南の盾として争い続けることになる。
もっとも、すべてが朝倉家の思うように進んだわけではない。
六角家に対抗するために南に全力を向けた浅井家は、東の美濃を攻める織田家と同盟を結んだ。そして、これが予想だにしなかった展開を見せる。
当初は利害関係で結ばれた同盟相手だったはずの織田家が躍進し、六角家を滅ぼして上洛を果たしたのである。
自分が当主になった状況、望むと望まざるとに関わらず六角家と戦い続けた原因。浅井長政が、これを機に朝倉家の影響から脱却しようと考えても不思議はない。
もっとも、例え長政にその気がなかろうと、六角家の代わりに織田家が台頭し、朝倉家がそこに迎合できない段階で、織田家と朝倉家の対立は不可避なものであった。
そして、織田家と対峙するにあたり、朝倉家が浅井家を再び味方にしようと考えるのは当然の動きであった。
例え浅井長政本人が織田家に友好的であっても、浅井家そのものを朝倉家側にすることが出来るのは、先代久政の時に実証している。
金ヶ崎の戦いで、浅井家からの軍勢に浅井長政がいなかったことも、織田軍が最小限の被害で撤退ができたことも、浅井長政(あるいは浅井家織田派)から連絡があったとすれば納得できる。
問題は事件の後の浅井家だ。
事がここまで大ごとになった以上、家臣を処断するには理由が必要となる。
支配者が意思決定を怠ったことにより行動した家臣を処断するのではなく、支配者として勝手な行動をした家臣を処断できる正当な理由。
それが、かつて浅井家朝倉派が切り捨てた先代浅井家当主浅井久政による内乱。
正当性を主張できる旗印を担ぎ上げさせ反乱者として一掃する。
この方法なら、間違いなく今回の事件の首謀者に待つのは破滅だ。何せ旗印本人が好意的ではないという致命的状況だ。獅子身中の虫だが、その虫なしでは自分達の行動の正当性を主張できないのだ。
無理やりケツを拭いてもらおうとしている以上、どんな拭き方でも受け入れるしかないのだ。
「先代当主の浅井久政が、当初より織田家との同盟を快く思っておらず、朝倉家との誼を盾に、浅井長政に反旗を翻したとすれば、浅井長政はそれに賛同し朝倉家に与した豪族達を切り捨てる事ができます」
理由なんていくらでもでっち上げられる。勝者が決まっているのだから。
たしかに、内紛である以上、当主浅井長政の支配力に影をさす。
だが、その反乱者を討伐すればその失態は払拭できる。反乱の首謀者を倒して責任を取ったと、浅井家当主としての面目は立つ。あとは、浅井久政の首を織田家に差し出せば、織田家としても許す名目が立つ。
織田信長の義理の弟である。多少の失態はいくらでも挽回できる。
ただ一人、浅井長政の心情を考慮の外に置けばだ。
織田信長の苦渋の表情を見て、オレの予想が正しいことを確信する。
おそらく浅井長政という人間は良い男なのだろう。素直な、誠実な、実直な、不器用な、頑固な男なのだろう。相手を素直に心配し、怒り、悲しみ、悩み、笑う好青年なのだろう。
徳川元康のように不器用で頑固で、一生懸命感情を隠しながら本心がバレバレで、それでも隠し通そうとするような好感の持てる男なのだろう。
冷徹なまでに合理的な信長が、身内にしたいと惜しげもなく妹を差し出せる男なのだろう。
だからこそ、命惜しさに家族を切り捨てることができない男なのだろう。
オレが、人質であった瀬名の方様を、三河に返還するべく手を打った理由がわかるだろう。妻と子を大事にする人間味あふれる松平元康だったからこそ「妻子を捨ててでも三河に残る」という決意に、三河の豪族達は心酔した。
もしあの時、今川家が元康の妻子を殺していれば、たとえ松平家が滅びるとわかっていても、最後まで今川家と手を組みはしなかっただろう。
だからこそ、浅井長政は父親という家族を生贄にすることを良しとはすまい。
故に策はないのだ。
「…それを長政がのむと?」
それでも言葉を続ける信長。
残念ながら、その言葉が出る段階で、信長の予想している以上の答えをオレは持ち合わせていない。
だから、信長の視線を正面から見て答える。
それ以上の答えはないのだという事を。
「飲ませる方法はただ一つ。浅井長政様の御正室お市の方様以下御子を、織田家に出させ質とする事」
バキッ
信長の持った扇子が手の中で折れた。
言えといったのはお前で、言えといわれたからこそオレは言った。
浅井長政の道理を曲げさせるにはこれしかない。家族を何より大事にする人間なのだから、その家族を盾にする。
戦国時代の慣習的にも問題はない。かつて、甲斐の武田義信に嫁いだ今川家の嶺松院様が、駿河に返されたように、敵対する浅井家から織田家の姫を引き取る事に問題はない。
子供については、父である久政を切り捨てる事への保証だとすれば、浅井長政は断れない。
かつて、三河の松平広忠を配下にするために、氏真の父今川義元と師匠の太原雪斎が嫡男の竹千代(現在の徳川元康)を人質として盾に取ったように。
これで、対外的にも浅井家と織田家の関係は改善する。織田家の支配という形で。
「殿!」
「ならん!」
オレの話を聞いていた堀秀政が、片膝を上げて身を乗り出す。だが、即座に信長にさえぎられる。
「しかし」
「ならぬと言った!」
「ですが!」
「黙れ菊千代!!」
怒りに任せるように折れた扇子を堀殿に投げつけて止める信長。
だめだよ菊千代君(堀殿の幼名)。それは誰の為にもならない。
浅井長政にとっても、
織田信長にとっても、
そして、堀秀政にとっても、
それでも前に出ようとする堀殿を手で遮る。
「堀殿。控えなさい」
声に出してそれ以上の発言を抑える。オレの言葉に堀殿は動きを止めた。
それは悪手なのだよ。
もし、相手が織田信長なら、それが出来ただろう。悪辣非道の戦国大名である織田信長なら、家族を犠牲にしてその道を選べただろう。
かつて、実の弟にそうしたように。
だが、だからこそ織田信長はそれを選ばない。
合理的に必要な事なら、心情を抑えられる織田信長だからこそ、合理的にそれを選ばない。
なぜなら、それをすれば浅井長政は死ぬのだ。
家族を質にとり、己を曲げさせるという事は、信長が心から信頼する義理の弟浅井長政が失われる事を意味する。
水面に浮かぶ月を愛で、それに雲がかかるからと箱にしまえば、水月は失われるのだ。
大名家の家族を質に取る。それを実行に移せば、実行した者に待っているのは死だ。
そんな恥知らずなことを実行して成功しようとも、その無礼さを考えれば未来はない。要するに「妻と子の命が惜しければ、父親を殺せ」と友好国の大名に言うわけだ。
主君であってもそんな家臣を擁護できないし、隠し通すこともできはしない。失敗すればバカ丸出しで、成功しようとも恥知らずとして自ら腹を切るレベルだ。
今後も織田家と浅井家が友好的な関係を維持するならば、なおのこと父親を殺させた人間を処罰せざるを得ない。処罰する事で両家の問題を解決できる。
大名家の当主に面会ができるほど信頼のおける家臣に、どちらに転んでも死ぬしかない役目を与えて、その結果手に入るのが、心の死んだ浅井長政。
理に合わないからこそ、合理的に考えて織田信長はその選択を選ぶことはない。
だから無駄なのだ。
だからこそ、オレは最初に手はないと言ったのである。
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堀秀政は興奮していた。
尊敬する二人の人間が目の前にいる。
一人は、命を賭けて仕える主君織田信長様。
もう一人が、今川家の賢者太観月斎様。
今川家で無名の時から、主君の信長様が一目置いていた知識人。
その判断が間違っていなかったことは、すぐに証明して見せた。
かつて織田家でお世話をした際も、自分から聞いた話だけで、当時の敵国であった美濃一色家攻略の糸口を語って見せた。
そして、それすらも児戯に思わせるような尾三駿三国同盟の締結。織田家を支配し、美濃を侵略し、上洛して勢力を拡大させた主君の手腕と共に、その壮大さに身が震えるほどだった。
幸運なことに、知己を得て何度か手紙のやり取りまでできた。織田家家中では月斎様に近しい一人であろうと自負できる。
だからこそ、今回の不意の来訪を心から歓迎した。
金ヶ崎以降、信長様の機嫌は良くない。最悪と言っても過言ではない。信頼していた浅井家の裏切りは、かつて実の家族をも殺さねばならなかった信長様の因縁を思い起こさせた。
だからこそ、月斎様の来訪は一条の光明に見えたのだ。
しかし、月斎様の口から出た言葉は否定。
浅井長政を降らせる事が出来る策がありながら、それが害悪になるとは?
深夜。
戻ってきた信長様と月斎様との会談に同席させてもらった。
月斎様の口から語られることに一切の衰えはなく、理路整然と浅井家の状況を説明し、その解決策までもこのわずかな時間で語って見せた。正否を問うという意味では、褒められたことではないが、有効な手である事は間違いない。
その一助となるなら…
その一縷の望みに、自分は飛びついた。
「だまれ菊千代!」
信長様の怒声と共に、折れた扇子が飛んでくる。
しかし、自分は知っている。信長様の苦悩を。それを少しでも晴らせるのなら、どんなことでも成して見せる。
そう言おうと身を乗り出したところで、黒衣の袖が視界に移った。
「堀殿。控えなさい」
冷たい声であった。否定する事を許さない声であった。
それ故に、血の気を失った。
愚か也。堀久太郎秀政。
これは織田信長様と太観月斎様との対談。二人の会話。
いつから、そこに割って入れる程に偉くなったのだ菊千代よ。
将軍家の御城二条城の普請奉行をこなしたことで偉くなったと思ったか。近習からの出世頭であるからと優れたつもりでいたのか。
それが、この二人の間に入れる程の功名か?
初めから自分の役目は、お二人の話を聞き、その結果を正確に己の実とする事。
己の意見を入れる事でも語る事でもない。
なのに、自分はこの場に立ち会えたことで、彼らと同等になれたとでも思ったかのようにしゃしゃり出た。
そして、尊敬する二人から不興を買った。
尊敬するこの二人の間に、自分ごときが割って入るという無礼によって…
それまで、一挙手一投足を見逃すまいと見ていた視線が床を向く。
恥ずかしくて顔を上げられない。
あまりのふがいなさに、床を映す視界がにじんだ。




