113 浅井久政
前話の根拠と補強になります。
深夜に織田信長が帰ってきて面談の運びとなった。
まさかの金ヶ崎での全軍撤退により、織田家の威信は暴落した。そもそも将軍家からの要請である越前侵攻に失敗したのだ。武家の面目丸潰れといえるだろう。
それを理解しているのか、撤退後の織田信長は積極的に方々に顔を出し、自分達が健在であると誇示している。
そんな忙しい中に現れた予定外の訪問者オレ。
『突撃!アポなし戦国大名訪問』とか、首がいくつあっても足りないな。
とはいえ、こっちだってもっと余裕をもって接触する気だったことを弁明させてほしい。
緊急会談を求めたのは向こうで、そのために不当に拘束(強調)され強制連行されたのはオレである。
被害者はオレ。ここを間違えてはいけない。
場所が本能寺であり夜も遅いためか、供の者を一人つけただけの織田信長。まあ、こっちには堀殿もいるので、実質織田家の供の者は二人だ。
ろうそくの火で、信長の顔色が白い。見えづらいが、もしかしたら顔色を隠すために、信長は化粧をしているかもしれない。
しばらく見ていると、信長が口を開く。
「浅井にどう対処する?」
「敵とする以外ありますまい。他にすべなどありません」
オレの言葉に、信長の片眉がピクリと動く。主君の雰囲気を察したのだろう、横から堀殿がオレに声をかける。
「しかし、月斎様。先ほど…」
なんでもいいから言えという事なのだろう。心配して声をかけてきた堀殿に微笑みかけると、上座の織田信長を向いて口を開く。
「今回の件について、浅井家に責任を取らせることは必須となります」
過去に戻れぬ以上、浅井家は己の失態の責任を取らなければならない。
浅井長政の罪。それは、織田家の越前討伐の段階で、織田家につくか朝倉家につくかの意思表明も周知もしなかった事だ。
織田家との密約があったとしても、それはあくまでも秘密裡な約束事。大名として浅井家は中立であるとすら宣言していない。
つまりは、どちらについても問題はないのだ。
だから家臣が「長年の盟友朝倉家存亡の危機に際し、義によって浅井家が助勢仕る」として行動しても、名分として立ってしまうのだ。
もしここで浅井長政が命令違反として暴走した家臣を処断すれば、ならばなぜ織田家につくと宣言しなかったのか、それを家臣に周知する行動に起こさなかったのかと非難されるだろう。中立宣言でも同じことだ。
だからこそ、浅井長政は今回の行動を己の行動とすることで、優柔不断でどっちつかずの選択をした結果家臣に勝手な行動をとられた無能な戦国大名と評価されることを避けなければならなかった。
そして、勝手な事をした家臣を排除しつつ、己の優柔不断が原因ではなく、今回の行動をやむを得なかったとする方法は存在した。
「その為に、今回の騒動を浅井家の内紛とする事です」
浅井家家臣の暴走ではなく、浅井家家臣の謀反という形で責任を取らせるのだ。
浅井家家臣達は織田家に敵対したのではなく、主君の浅井長政に敵対した家臣が、浅井家に親しい盟友織田信長を攻撃したとするわけだ。
もちろん、家臣に叛かれた事は浅井長政の失点ではあるが、家臣の反乱という事なら責任を取る事は簡単である。謀反を起こした家臣達を粛清すればいい。その理由も名分も成立する。
きちんと対処すれば、傷は最小限ですむ。これに関しても前例は山ほどある。
とはいえ、内紛であるとするならその為の名分が必要となる。それも主君に歯向かう程の正当性を家臣が主張できる強い理由だ。
そして浅井家には、そのための格好の名分が存在した。
「その首謀者は、先代浅井家当主 浅井久政」
野良田の戦いで六角家に勝利し、家臣たちに力を示した浅井長政は浅井家の当主となった。とはいえ、先代の当主である浅井久政は死んだわけではない。隠居して浅井家に残っている。
隠居させられた事は動機として十分だ。先代当主という立場は反乱の旗印として申し分ない。
もっとも、浅井久政は政治的に言えば反朝倉派の可能性が高い。おそらく当主時代は六角派であったと思われる。
理由は、浅井家の成り立ちと浅井久政の浅井家当主としての実績だ。
元々、北近江の守護京極家の家臣だった浅井家は、越前朝倉家の力を借りて北近江の大名となった。北に越前朝倉家ありきで独立した浅井家は、南の六角家と争う事になったのは、当然ともいえた。
そんな浅井家の当主の父親が死に、浅井久政が継いだのが16歳の時。やがて、浅井家は六角家に服従している。
これだけを見ると、浅井家が負けたので服従したからとも思われるが、久政が36歳の時に、おかしな事が起こる。
久政の子である浅井長政が、野良田の戦いで六角家に勝利し浅井家当主となったのだ。
この一文だけなら「フーン」で済むが、前後のことを考えると、色々説明が足りないように思われる。
まず、野良田の戦いの後に浅井長政が当主になったという事は、野良田の戦いの時点では浅井家当主はまだ浅井久政だったということだ。
つまり久政の視点では、なぜか服従していた六角家と戦う事になっていて、しかも勝ったら息子が当主になっていたという事である。
浅井久政が六角家と敵対して勝ったというなら、浅井長政に継承する必要はない。つまり、これは浅井久政ではなく、浅井長政が六角家に敵対したという事だ。
ようするに、この時すでに浅井久政は実権を失っており、浅井長政が浅井家を掌握していた…ように見える。
ここで疑問形なのは、長政が生まれたときには、すでに浅井家は六角家に臣従していたという事。浅井長政は、浅井家が六角家に敗れて従った事を憎む理由が薄いことだ。
そんな浅井長政が六角家に反旗を翻したのが初陣前の15歳の時。
合戦すら未経験の長政が、15歳になるまでの間に、当主にして実の父親である浅井久政に悟られることなく家臣達を味方につけ、一大勢力六角家の目を潜り抜けて浅井家の実権を手に入れたのだ。
当然、この行動によって六角家と争いになる事は確実であり、実際に野良田の戦いが起こる。
この時、浅井長政の集めた軍勢は、六角家の半分以下である。初陣前である以上、浅井家家臣はもとより長政本人も、己の合戦指揮の能力については未知数だっただろう。
当然、負ければ粛清は免れない。
もし、弱冠15歳でここまで想定して行動できる傑物だったとしたら凄い事なのだが、それならそれで命を懸けるにしては不安材料が多すぎる賭けだと予想できるだろう。
現代風に言えば、親の金で始めた高校1年生の株トレーダーが、大手グループ傘下の会社をM&Aして、さらにグループからも独立して社長になって一部上場企業に急成長するようなものだ。
そんな妄想を実現可能と思う前に、中二病から抜け出す事の方が先だろう。
何が言いたいかというと、これら浅井家の一連の行動の流れが浅井家家中の派閥争いの結果とみると、意味不明だった浅井家当主達の行動のすべてに納得ができるのだ。
中二病の高校生に、経験豊富なファンドプレイヤーの叔父がいたとすれば、妄想じみたサクセスストーリーにも多少は現実味がでてくるわけだ。
そもそも、朝倉家にとってみれば、浅井家を支援して大名としたのも越前の南を守る盾とする為だ。
しかし、浅井久政は六角に従った。それが強大な六角家から浅井家を守るためだったのか、いつまでも傀儡の当主であることを良しとしなかったのかはわからない。
ただ、六角家に従いその役目を捨てた浅井久政を、朝倉家はよくは思っていなかっただろう。さらに、この当時六角家は急速に勢力を拡大していた。浅井家を従わせた事からもわかるが、そんな一大勢力六角家が隣にある事を越前朝倉家は脅威と感じた。
だから、当主を交代させた。
武田信玄の時と同じだ。浅井家朝倉派閥の後押しがあったからと考えれば、意味不明だった浅井長政の行動に納得できる理由が出来るのだ。当時浅井長政を支持した家臣達を調べればその辺の確証は得られるだろう。
浅井家に古くから仕える家臣。つまり、浅井家独立に際し朝倉家からの支援を受けた家臣。あるいは、北近江で越前と近い位置に領地を持つ朝倉家と縁のある豪族。こんな所だろうか。
ともあれ、こうして当主だった浅井久政の予期せぬところで、浅井長政の擁立と野良田の戦いが起こる。戦力差を見れば、まさに浅井家の命運を賭けた戦いだったろう。朝倉家に好意的ではない家臣達も己の存亡がかかるとなれば否やはない。それは、当時の当主である浅井久政自身が、表に出てこなかったことからもうかがえる。
こうして、浅井家は反六角勢力にまとまらざるを得なくなった。
南に強大な敵勢力を抱えた以上、友好的な北の越前朝倉家との関係は生命線だ。朝倉家の協力がなければ、浅井家に未来はない。
まるで、今回の金ヶ崎と同じように、未来は決まっていたのである。




