110 仮名目録 追加35条
今川館の一室で行われたつるし上げも終わった夕方。小姓に呼ばれて今川氏真の私室に入る。
「できたか」
「まあな」
いつもは、きれいに整理整頓された部屋だが、現在はものの見事に散乱していた。
床や壁には墨が飛び、そこら中に丸めた紙が転がっている。
そして、疲れ果てた顔の氏真がオレの前に置くのは、一冊の冊子だ。
オレが草案を作り、氏真がそれを現実に落とし込む。十数年前に臨済寺で師匠の太原雪斎に言われたときと同じような状況だ。
手に取ってみると、表紙には「仮名目録 追加35条」の文字。元の21条を一部改正し、さらに14条項目を追加したものだ。
主な内容は、同盟国間での騒動の解決手法について。周囲を同盟国に囲まれた今川家は、周辺諸国との問題発生時に、豪族同士が勝手に対応し悪化、もしくは複雑化されては困るのだ。それを避ける為に、他国の豪族との問題に今川家が口を出すという事が明記されている。
それは同時に、隣国間の問題に今川家が出てくる事で、相手の豪族だけでは力関係に一方的な差が出るという事だ。
それを避けるためには、相手国側も大名が出てくる必要がある。つまり両国間の問題や意見を調整する場が必要となるというわけだ。
お互いが「知っている」だけで、早期対応と事態の悪化を避けられるよう取り計らえるのだ。まあ、致命的な問題に発展する可能性もあるのだが、それでも事態に早期対応できる利点が大きい。
それともう一つ。
昔師匠に提出した際、廃棄された八条の数項目をさらに発展させた新しい軍事制度。
オレが読むのを後ろから覗き込みながら、感慨深く氏真がその概要を口にする。
「旗本御家人の制定か」
「仮名目録追加21条」には寄親寄子の記述がある。この寄親寄子制度は、地元に住む農民足軽や、彼らを管理する庄屋や土豪などの小豪族など全兵力を管理する制度だ。
実際、この原形は年貢徴収から始まる法治体制を明確化したものだ。つまり、農民(寄り子)が年貢を作り、庄屋(寄り親)がそれを集めて、統治者(今川家)に納入する管理体制だ。
これを年貢ではなく、命令系統に置き換えたものと言ってもいい。
だが、それでは足りなくなった。
これはあくまでも大軍団を維持管理するための物で、特定目的の為の集団ではないのだ。
全校集会の整列と、鼓笛隊の整列とは違うわけだ。
そこで、今回その中から合戦にかかわる専門兵である「旗本」を選出するのである。寄親と寄子の中から、武勇に優れたものを、あるいは内部での選定により戦闘のための人員を確保する。彼らは領地管理や農作業といった日常業務を免除される代わりに、季節によらない随時の合戦に参加する義務を負う。
織田家の常備兵のような兵農分離とは、そもそもの理由が違う。
これは、合戦の被害により領地経営に支障が出ないようにする為だ。桶狭間の戦いにおいて、本陣を強襲され甚大な被害を出した今川家だからこそ、その重要性を理解させる事ができる。
つまりは、軍政分離。
管理者側の平時の作業を免除されるという事は、平時の政の権限を有していない。例え被害が出ても、支配体制への影響を出さない制度作り。
そして、寄り親寄り子は選出した旗本御家人を後援し、戦争に専念できる環境を作る。
武家としての家名を背負いながら、支配体制に影響の出ない軍事体制。
織田家のように経済力があるからできる常備兵とはちがう、寄親寄子制度が浸透している今川家だからこそできる純戦闘部隊の抽出。
戦国乱世の世にあって、周辺諸国がすべて同盟国という戦乱の空白地帯。「仮名目録」により領内の紛争に介入ができる文治の状況。
すべてのお膳立てが整った今川家だけが、戦国時代に力の根源の兵数減という最も危険な軍事改革が可能なのである。
「数は?」
「当初三千。目標は五千。予備を入れて最終的に七千を予定している」
「そんなものか」
「現況ではな」
今川家は『仮名目録』により大軍団を形成することができる。武田信玄の侵攻を撃退し、徳川家とも正面衝突を避けて、桶狭間の戦いから温存し続け、周辺諸国と同盟を結んだことにより後顧の憂いなく動員できる数は約三万。
とはいえ、それを向ける矛先はない。今川家の周囲はすべて同盟国。つまりは、今川家は侵略する敵対国が存在しない。
大は小を兼ねるが、同盟国との関係を考えると、大きすぎても問題なのだ。
だからこそ、そこから精鋭の常備兵を選出する。
戦闘集団から、戦闘軍団の選出だ。
「援軍として体裁が整う程度。侵略するには足らず、しかし精鋭として戦場に存在する事が敵に脅威となる数か」
オレの想定した数に、納得するように氏真がうなずく。
今後の今川家の戦いは、隣国の戦いでの援軍や調停によるものだ。戦場の主役ではなくなる。
だからこそ、今川家の旗本制度の意味が出てくる。
もちろん、今後も今川家が戦いをするときは、今川家の兵を集める事になる。だが、援軍として派遣されるとどうしても「他国の為か」という心情から士気は上がらない。大軍勢となり負担が増えるほど厭戦気分は増す。だからこそ、援軍専門の軍団を組織するのだ。
侵略されると脅威に思われるほどの兵力ではなく、しかし侮られるほどの弱兵ではなく、援軍として必要とされる程度の力を備え、さらに季節によらず常時出陣が可能。
仮名目録により招集から出陣までの時間は短縮されており、それは対象の数が減ればさらに加速するだろう。
武田家の赤備え数千の軍を常時出陣可能にして、援軍として派遣できる体制と思えばわかりやすいだろうか。
それが、今川家の目指す精鋭『旗本御家人衆』だ。
国内で戦闘力基準の選定をクリアし、実家の後援を受けて名誉を重んじる戦う教育を受けた集団。
最大のデメリットは、人員の補充が容易ではないという点だ。
だが、そこに関してはあくまでも今川家は援軍という立場が意味を持つ。援軍を求める側も、精鋭だとしても援軍に手柄を独占されたら面目丸つぶれだ。しかし、援軍により数を多くして敵にあたるのは兵法の基本。
つまるところ、援軍として出向く今川家の精鋭部隊が、正面衝突をするような状況になることはまずない。そして、もしそうなったとしても名門今川家の家臣が、実家の名誉を背負って戦うのである。責任は本人の身でなく後援する故郷にもかかる。当然、彼らの覚悟が違う。簡単にやられはしない。
同時に、彼らの手柄がそのまま故郷の手柄となる。
「最大の顧客は織田家か」
にやりと笑いながら氏真が言う。さすがに、すべてを理解しているようだ。
援軍である以上、呼ばれた際の恩賞は領地とはならない。それに代わる何かが必要となる。新しい領地を求める他三家と違い、巨大な経済圏を保有する織田家なら金銭という代価を払う事で対応できるだろう。
季節によらず出陣可能であるという点は、最大の顧客となる織田家を意識してのものだ。
氏真の言葉を認めつつ、条件を付ける。
「無論。便利に使われるつもりはない」
「ほう」
「織田家から要請が来た時は、幕府に許可を得させる。逆に、公方様から要請が来た際は織田家に連絡するようにする」
「どちらかを取るでもなく、どちらも取らないでもない……幕府と織田家は上手くいかないか」
オレの言葉に、一つため息を吐いて苦笑した。
史実を知れば、織田家と足利将軍家は将来敵対する。たいていの場合、織田信長が野心満々で将軍家をないがしろにしたとなるが、現状を考えると一方的にそうとは言えない。
きちんと原因があり、理由があるのだ。
「織田家の忠義は「御恩と奉公」が前提。しかし、将軍家が求めるのは「滅私奉公」。相容れぬだろうよ」
「そしてそれは我ら今川家にも言える」
「足利家の分家とはいえ、本家の為に滅びるわけにはいかん」
すくなくとも、今の足利幕府の存在は100%織田家によるものだ。逆にいえば、この二つの家が反目した場合、足利幕府が次に使おうと思うのは、本家と分家の関係から見ても今川家の可能性が高い。
だからといって、今川家がすべてをかけて織田家と敵対するメリットは無い。それは文字通り、織田家と同じ理由でだ。
だからこそ、織田家と同じ事を今川家に求める足利幕府に、唯々諾々と従うわけにはいかない。それを足利幕府に明確に示す。
「そして、それは織田家にもだ。さて、お手並み拝見といこう。織田信長」
そう言って氏真は笑った。




