106 協力体制
上ノ郷で鵜殿氏長の歓待を受けて休んだ後、三河徳川家居城岡崎城へ。
すでに上ノ郷から使いを出しており、岡崎に入った所で出迎えに来た三河武士の一団に取り囲まれる。
そう言えば、以前もこんなふうに取り囲まれて牢屋に直行したことあったような…
トラウマを刺激されつつもついていく先は、岡崎城の客室だ。一応、客人待遇である。
まあ、だからといって歓待されるわけではないのが悲しい所だ。
「失礼します」
「どうぞ」
そういって客室に入ってきたのは、徳川元康の腹臣石川数正。
徳川元康と一緒に今川家に来て、共に臨済寺で学んだ仲だ。幸か不幸か、今川家に仕官したオレの立場を理解してくれていて、徳川家側の外交の窓口になっている。
まあ、何を隠そう三河で外交できるような人間というのがこの石川数正くらいしかいないのも重要である。
何せ、徳川家自体が三河の豪族から頭角を現した一族で、地元内の結束が強い反面、他の国との縁が薄いのである。まあ、それは今川家にも言えるわけだが、まだ今川家の家臣は官位などを持ち名門の歴史を背景に外交できるのだが、新興国の徳川家にはそれすらない。
だからこそ、臨済寺で太原雪斎様からこれらの教えを受けた石川数正達の存在は徳川家では貴重なのだ。
そもそも、徳川家は同盟前まで今川家と敵対していたが、その前は織田家と敵対しており、やはり険悪な関係なのだ。その両国と同盟を結ぶにあたり、隔意を持たない数正の存在意義は計り知れない。
そんなわけで、わざわざ三河にやって来たオレの対応をするのが助さん(学友時代の数正の綽名)である事は、当然予想はついた。
「本日は、どのような用件でしょうか」
「この度、今川家は幕臣武田信虎様の実子武田昭信様を甲斐武田家当主と認め、北条家と協力し甲斐を奪還する運びとなりました」
取りあえずオレの来訪目的を伝えた事で、助さんの顔が引きつる。
実際、事前に浜松城で話をしていた内容とはかけ離れており、向こうからすれば不意打ちに近い。事前に連絡を受けていたが故に、内容の違いに驚いた事だろう。
まあ、この程度は外交上ではまだほんの小手調べ。初級のテクニックだ。もっとも、ここで思考停止してしまうのが外交の出来ない武将であり、だからこそ遠江浜松城ではこの話を出さなかったともいえる。
オレがなぜ岡崎城に来たか、正しく理解してくれないと話をする意味がないのだ。
おーい石川ー、外交交渉しようぜー(善意)。
岡崎城評定の間。
徳川家の家臣が並ぶ中、上座に座る徳川元康に頭を下げて、甲相駿三国同盟の話をする。
その内容に、評定の間に集う徳川家の家臣達はまさに寝耳に水と騒ぎ出す。
しかし、すでに石川数正経由で話を聞いている一部の者は落ち着いたものだ。
そして、徳川元康は騒然とする空気を圧して、力強くしかし落ち着いた声で問いかける。
「月斎殿。先の同盟の折に信濃は徳川家に、甲斐は今川家との取り決めをしたはず。その甲斐を武田家に返すとして、武田家が信濃を狙うとは考えられぬか?」
「その心配はもちろんの事。故に、その点は武田昭信様にも十分言い含めております」
「それだけか?」
「それだけではありません。もし、万が一武田家がその約定を破り信濃に進むのであれば、今川家は徳川家に御味方しそれを掣肘いたします」
「武田家が北条家と手を組んでもか?」
「無論。その為の徳川家、織田家、今川家の同盟にございます」
これが事前に話し合う事による効果だ。初めて内容を知った家臣達が混乱している中で、冷静に対処する徳川家当主。その姿は何も知らない家臣達の目にどう映るだろうか。
他人の評価なんて評価する人の印象一つである。
また、同時にオレが尾三駿三国同盟を重視すると明言する事で、混乱している三河武士たちにこちらの三国同盟を今川家がより重要視していると印象づける事が出来る。
太観月斎の名を名乗り、知名度を得たオレの言葉は、紙っぺら一枚の約束より大きな意味を持つ。
その大きさは、土牢に放り込まれた頃とは大違いだ。
大事なことなのでもう一度言うが、評価する人の印象一つだ。
「さらに、今川家の今回の同盟は徳川様の信濃侵攻にも影響を与えます。それは我々が甲斐を攻める事で、信濃の武田家勢力の結束を揺るがせるからです」
そんなわけで、ようやくオレは本題に入れる。
それは、武田信玄の支配体制による弊害だ。
前にも述べたが、武田晴信が父親を追放し武田家の当主となった時、彼は自分を支持する豪族達の力がなければ何もできない甲斐の大名だった。
まあ、大小の差こそあれ、豪族たちが従わなければそもそも大名は何もできないのだが、そこまでして強引に当主となった晴信は何を思ったのだろうか。
少なくとも、武田晴信は名門甲斐武田家を旧体制の守護大名から脱却させ、戦国大名として打って出た。それこそが、大名として部下たちを掌握する最善の方法だった事は、それが出来ずに没落していく他の名門名家を見れば明らかだろう。
結果、信濃を侵略し領土を拡大させ、自分に忠誠を誓う武将を武田家に取り込み、家中での力を拡大させて、名実ともに武田晴信は武田家の当主となった。
笑みを浮かべたまま、オレは口を開く。
「武田信玄は甲斐あっての武田信玄。では、甲斐と信濃を攻められた際、武田信玄は信濃をどう扱うでしょうか」
武田信玄にとって、甲斐の国と信濃の国のどちらが大切なのか。
まあ、国語のテストではないので、正解は本人に聞くしかないだろう。
だが、聞かなくてもわかる解答がある。
武田信玄は甲斐武田家の当主であったがゆえに、武田信玄だという事だ。
甲斐の豪族達は、武田家当主を甲斐の支配者と認めている。なにせ、鎌倉幕府ができる前から甲斐の支配者は武田家だったのだ。
三河の松平家は地元出身の英雄ゆえに三河の国民に支持されている。数百年支配者の地位にあり、甲斐豪族の庇護者であった武田家の代わりを甲斐の豪族達が簡単に認めるだろうか。
十中八九、他からの支配者に対して反乱が勃発するであろう。長い年月と地元豪族とのつながりを考えれば、多かれ少なかれ武田家と縁続きの人間が存在する。つまり、反乱の旗印だらけだ。
それを抑えるには反乱されても即鎮圧できる戦力を常駐させる必要がある。地元農民兵である足軽主体のこの時代に、そんな余剰戦力を持つ勢力は織田家ぐらいなものだ。
だからこそ、今川家も甲斐の直接統治を諦めたし、北条家も傀儡の当主として武田昭信を認めるのである。
そして、それを分かっているからこそ甲斐の豪族がこちらになびくのだ。
武田信玄であろうと武田昭信であろうとも、甲斐の豪族の主は甲斐武田家であるという保証を提供する事で、実効支配が出来るのである。
「秋山、高坂、真田、諏訪。武田信玄に忠誠を誓う彼らは、どれも名将猛将ぞろい。しかし、彼らのいる信濃を守るために武田信玄は甲斐を見捨てられるでしょうか?」
甲斐は地元豪族がひしめく土地だ。信玄と言えども簡単に取り上げたりはできない。当初の力のない晴信の時代ならなおの事だ。故に信濃を攻めた武田信玄は、己の腹心達に信濃の土地を与え、後継ぎの絶えた名家の家名を与えて武田家家中に勢力を築き、その力を背景に名実とも甲斐武田家の当主となった。
当然、信濃の家臣達も自分を取り立ててくれた恩に報いようと考えるだろう。
彼等の忠誠は本物で、彼らの結束は強固だ。武田信玄が力を示した英雄であるがゆえに、武田信玄に恩があるがゆえに、武田信玄に利益を与えてもらったがゆえに。
武田信玄を英雄と心酔し、忠誠を誓うが故に、信玄の武田家に命を賭けるだろう。
しかし、武田信玄は甲斐武田家の当主だ。
以前、武田信虎が陰謀を企て、遠江で自勢力を確立しても、それでは目的達成にはならないと話したことを覚えているだろうか。遠江での武田家は甲斐武田家の本筋にはなりえないのだ。
甲斐なくしては、清和源氏の名門甲斐武田家たりえないのだ。
武田信玄が武田信玄であるためには、甲斐を切り捨てる事が出来ない。断腸の思いで、自分を信奉する信濃の配下を切り捨てる。かつて、武田家の為に自分の息子を切り捨てたように。
「今川家が甲斐を攻め、徳川家は信濃を攻めるとして、信濃も攻められているのに甲斐だけを守ろうとする武田家を、信濃の豪族達はどう見るでしょうか?」
では、切り捨てられた信濃はどうなるだろうか。
確かに、武田家の家臣達には歴戦の武将がそろっている。それは信濃にも言える。しかし、誰も武田信玄の代わりになる者はいない。どんな優秀な駒も「王に成る」事だけはできはしない。
武田信玄が信濃を切り捨て甲斐を死守すれば、後にはバラバラになった信濃の家臣達が残る事になる。
一方で、信濃の豪族達も甲斐を守るために自分たちの領地である信濃を見捨てることなどできない。
当然、甲斐を守る武田の兵の数は減る。
「武田昭信様と北条家との婚姻が成り同盟が強化されれば、甲斐を攻めるのは今川家と北条家の二家。武田信玄と言えども苦戦は免れません。当然、他に割く力などあろうはずもなく。それは信濃を求める徳川様にも有用な事ではありませんか」
「そしてそれは、信濃の勢力を甲斐に合流させたくない今川家の意向にも沿うという事だな?」
そう言って、オレの言葉に返すようで実は徳川家家臣に話の本題を伝える元康の言葉に、頭を下げて同意する。
「はい。正しく同盟による相互の協力という事になります」
隣国の使者と、自勢力の当主の同意。それは、混乱している徳川家家臣達に異を挟む隙すら与えない。
後は同調圧力という奴である。「あの時お前は何も言わなかったじゃないか」という奴だ。つまりここにいる者達の同意が成されたという事である。
武田家を攻める為に徳川家と今川家が歩調を合わせる事が、双方にとって有利に働くという事を印象づける。かつて敵対した両家の協力関係がここから始まる。
もう一度言おう。
他人の評価なんて評価する人間の印象一つである。




