104 遠江徳川家
武田家と北条家との婚姻や、同盟の再締結に関しては、あくまでも国の上層部での仕事。名家の血縁者でもないオレのような一坊主の出来る事なんてほとんどない。せいぜいが、締結時の観客(証人)として参席するぐらいだ。
まあ、それでも仕官時に無位無官だったオレにとってはすごい出世なんだけどな。
そんなわけで、締結当日まで時間があるので、次の作業に出向く。駿府の町を出て船で西へ。
まず向かったのは浜松城。旧名曳馬城だ。ここには三国同盟の条約の一つとして三河徳川家の嫡男が城主となった。徳川家がまずしたのは城の名前を変える事だった。
次期徳川家当主が入る城が「曳馬=馬を曳く=撤退=敗戦」という縁起でもない名前なのはよくないという理由だ。
ひどい風評被害ではあるが、言いたいことはわからなくもない。実際近年二回(今川家の粛清と徳川家の侵攻)も落城している。ただ、新生浜松城自体の立地条件はかなり良い。遠江の東西境界線である天竜川の下流に位置して河口輸送が使える上に、尾張から関東へむかう東海の主要港の一つだ。
さらに曳馬城が、遠江で独立しようとしていた旧豪族飯尾家の居城であり、勢力の拠点として手を加えた立地である上に、徳川家の遠江侵攻でも前哨基地として強化をつづけた堅城である。
海洋交易と河口輸送をあわせもち平地も多い堅城とくれば、この時代においては十分神立地といえる。
まあ、川の反対側の今川家と友好関係を保っていればという前提があり、それが出来ないとその利益も半減するだろう。出口を狭めれば当然人の出入りも少なくなるのだ。
とりあえず、浜松城に登城。評定の間で謁見をする。
上座に座るのは弱冠七歳(実質六歳)の徳川元信(幼名竹千代)様。
まあなんだ。自分でやっておいて罪悪感がパネェ。小学生を無理やり成人させて最前線に責任者として据えているんだ。どう見ても鬼畜の所業である。
この荒業には父親である徳川元康も苦労したようだ。
それは、元服したことによる名前からも受け取れる。通例から見れば、同盟の条件として元服させた場合、友好国として親密度を示すためにも、友好国の大名から名をもらうよう配慮をすることが多い。今回の件でいえば、徳川元信の「信」は織田信長の信だ。
しかし、もう一つの同盟国の大名今川氏真からは名前をもらっていない。まあ、ついこの間まで敵対していた相手であり因縁も深い。徳川元康本人が幼少のころ今川家に人質に出されていた過去があり、今回の遠江城主の実情も人質としての側面があるため、今川家のいいなりになっているのではと、徳川家家臣達を刺激しかねないのだ。
そこで、苦心の末に編み出したのが自分の名前の徳川元康から「元」の字を継がせる方法。あくまでも、父親である自分の名前を引き継がせたのだと家臣達には説明する。
しかし、そもそも徳川元康の「元」の字は、人質時代に今川氏真の父親である今川義元の「元」の字をもらったものだ。つまり、見方を変えると「義父である今川義元からもらった字名を継がせた」という形で、今川家との関係は良好であると示しているのだ。
いやあ、息子の元服一つとっても徳川元康様の苦悩が知れますねぇ(超他人事)。
そんな父親の苦悩はともかく、浜松城城主になった徳川元信様の左右には、徳川家から来たであろう重臣が控えている。
問題は、その控えている重臣達に面識がある点ですかねぇ。
一人は、酒井忠次。駿府時代の苦労人役で、今川家と敵対していた時に、オレを牢屋にぶち込んだ人だ。
もう一人は、平岩親吉。
徳川元康が駿府で人質時代の小姓の一人で、臨済寺で学んだ仲だ。正直、物おぼえは良くなかったし、境内でやっていたチャンバラごっこなどでも秀でた活躍をしていなかったが、それ以上に人と人の間を取り持つのがうまかった。
なんというか実直で律儀な性格なのだ。喧嘩などの仲裁を任せると、後腐れなく解決させたりする。
その辺を徳川元康も理解しているのか、元服したがまだ若い徳川元信の傅役とした。今後急務となる西遠江の豪族達の懐柔で、その能力を発揮させようというつもりなのだろう。
そして最後の一人が、井伊直親。西遠江の井伊谷の領主であり、徳川家に離反鞍替えして遠江侵攻のきっかけを作った遠江の豪族である。
まあ、その点に関してはオレが唆したのであり、徳川家との同盟締結にあたり、井伊家との遺恨なしの書状を今川氏真に発行してもらっている。
遠江を入手するにおける最大功労者として、また西遠江の現地豪族代表として、浜松城でも重要な地位を占めているようだ。
全体的に、重臣関連の年齢が若い。多分、まだ年若い次代の徳川家を担う人材という事なのだろう。
「面を上げよ」
「はっ」
上座から若い声で命じられ、顔を上げる。
とはいえ、若君の仕事はそれほどないらしい。すぐに隣に座る平岩親吉が言葉を続ける。
「月斎殿。本日はいかなる用件か?」
「はっ。本日は徳川様が北の信濃を攻めるにあたり、今川家からの提案をお伝えに上がりました」
もちろん、この辺の内容は事前に酒井と平岩と話をしているので、向こうも合意している。公的な発表という奴だ。
威圧も駆け引きも必要なく、笑顔で詳細を説明する。
「三河から信濃へ入るには、北部の山麓が邪魔をしております。道は細く守るに易く攻めるに難い地形です。しかし、先の武田信玄による遠江侵攻を思い起こせば理解は早いかと思いますが、三河からではなく、遠江の天竜川を溯れば信濃へ軍を進めるのは易うございます」
以前武田信玄が遠江の徳川領に侵攻したルートは、そのまま信濃に侵攻するルートとなる。
「そうなれば、三河からの軍を遠江に移動させ、軍の休息もしくは再編成を行うのに、この浜松城はうってつけの立地となります」
「なるほど。それを見越して兵糧や矢玉を浜松城に集めておけば、父上のお役に立てるな」
徳川元信がオレの説明に納得するようにうなずきながら答える。…あれ?この子まだ七歳だよね。事前に話を聞いていたのかな?まあいいや。
「しかし、一つ問題がございます」
「?」
笑顔のまま少し言葉を強くすると、キョトンとした顔でこちらを見る。
「約定により天竜川の対岸は今川家の領地。兵を集めて対岸に渡るのはその境を超える事になります」
同盟を結ぶにあたり、天竜川を今川領と徳川領の国境とした。そして、河川に沿って進むことが進軍しやすいとはいえ、それは天竜川の流れや水量に左右される。
一旦対岸に渡って進んだり、あるいは船などを使って移動する事もあり得るのだが、世間一般の常識からすれば、勝手に軍勢が他国の領土に入り込めばそれは立派な侵略行為である。
「そこで今川氏真様は、徳川家の軍勢が天竜川を使用し信濃に進軍する場合、秋葉城城代 鵜殿氏次様を軍監(監視役)として、派遣するよう命じられました」
まあ、要するに天竜川を使用して信濃に攻め入る場合の、今川家側の担当者を紹介しているのだ。
そもそも秋葉城は、浜松城より上流の天竜川を挟んだ対岸に位置しており、有事の際の国境防衛の要の一つである。そして、その城代である鵜殿氏次は今川家の一門衆であり今川氏真の甥にあたる。ちなみに城主であり兄である鵜殿氏長は現在三河だ。
「鵜殿…確か三河上ノ郷に入った鵜殿氏長殿の…」
「弟御でございます」
酒井忠次の言葉を肯定して補足する。
「兄である鵜殿氏長様の御正室は井伊家の縁者。井伊殿とも面識がありましょう」
兄である鵜殿氏長の妻は井伊家の姫。つまりは、現在徳川元信に仕える遠江徳川家の家臣井伊直親の縁者だ。
オレの言葉を認めるように、井伊直親がうなずく。
余談ではあるが、鵜殿氏次は遠江の豪族朝比奈家の息女を娶る事が内定している。遠江最大の今川家家臣と縁続きになる事で、鵜殿氏次の遠江での重要性が増し、遠江今川家名代として不足でなくなる。
実際は鵜殿氏次と懇意にしている今川家家臣庵原元政(一応オレの学友)が強固に抗議をしたので、苦肉の策として、庵原家の息女を朝比奈家に養女として入れた後に鵜殿家に嫁入りさせる事になったのだが、わざわざここで説明する必要もないどうでもいい話だ。
余計な方向へ思考がずれそうになっていると、平岩親吉が口を開く。
「月斎殿。それはあくまでも天竜川を上って信濃に入る場合の事。それ以外の方法であるなら、今川家に連絡する必要はないと受け取ってよろしいか」
「無論。このやり取りは、あくまでも徳川家と今川家の間での余計な問題を避けるためのもの。すべて徳川家の都合で問題ありません」
あくまでも、国境を超える事による諸問題を避けるためのやり取りだ。
逆に言えば、これらのやり取りをせずに問題を起こせば、起こした側の責任となる。当たり前だが、戦国時代において約束事はかなり曖昧だ。「決めていなかったから悪くない」がまかり通る事もある時代だ。
内容に問題はないのだろう。平岩親吉と酒井忠次がうなずき合い、徳川元信に目配せすると、上座に座る若様が口を開く。
「あい分かった」
これだけ見たら立派な傀儡城主であるが、七歳という年齢を考えると仕方のないことかもしれない。
というわけで、飴も差し出す。
これは、重臣側には話していない事だが、なにこんなこといつもの事だよな。
「また、元信様にお願いがあります」
「なんじゃ」
「瀬名の方様についてでございます」
「母上の?」
「はい。徳川元康様の許しを得てからという事になりますが、一時的にここ浜松城に滞在していただく事になるかもしれません」
「それはまことか!?」
これまでのとってつけたような言葉ではなく、感情のこもった徳川元信の声が聞こえる。まあ、まだ七歳だもんな。
そんなオレの言葉に、元信はもとより、他の家臣も驚きの表情を現す。
「はい。瀬名の方様の縁者である関口家は今川家譜代の家臣。徳川家と今川家が手を取り合う関係となれば、生家の家人と会う事に支障はありますまい。しかし、今川家の人間を、三河に向かわせるにはいささか問題がありましょう。ですがここ遠江であるならその問題は…」
「お待ちください月斎殿。いささか、事が性急にすぎませぬか」
オレの言葉を遮るように、酒井忠次が口を開く。見れば三河家臣たちの表情は苦いものだ。まあ当然ともいえる。同盟を結んだとはいえ隣国との最前線に当主の正室が来るというのは問題がある。
だが、そんな事は道理の前には意味を成さないのだ。
「何をおっしゃられる。そも、瀬名の方様は徳川様の居城の岡崎城に入る事を許されず、築山に別邸を構えて住まわれているとか。その無聊を慰める事にどんな問題がありましょう」
「いや、それは誤解にござる。岡崎城に迎える準備を進め…」
「拙僧が話しているのは、これまでの事にございます。確かに、両家との関係を思い、瀬名の方様も納得されているからこそ、その扱いに異論はございません。しかし、だからと言って城に迎え入れる予定があるから良しとするのは片手落ち。そもそも、それが正しいお姿であり、不慮を押し付けた事の償いにはなりませぬ。それとも、数年にわたり夫と引き離され別邸に押し込められる慰めに、ただ一時父母に会う事すら許されぬと申しますか」
まあ、話を聞くに夫の徳川元康は頻繁に築山の館で寝泊まりしているので、引き離されたわけではないのだが、そこを明言すれば「お前ら家臣の分際で主君の意思をないがしろにして、正室を別邸に閉じ込めているのかよ」と突っ込まれるわけである。
さらに、形だけのものとはいえ、現在の浜松城の最高責任者は元康と瀬名の方の子である徳川元信だ。母親の扱いをそれで良しとしているわけではない。
ましてや、強固に母親の招聘を拒否すれば、その最高責任者の不興を買う事になるのは明白だ。
そして同じ理屈は、三河岡崎城で徳川元康から許可を得る為にも使えるわけだ。
外交上の不意打ちとはいえ、あくまでも事前連絡。何せ、この件に関する決定権はそもそも遠江徳川家にはない。当然、本家である三河徳川家に報告する事になるだろう。
つまり、この後出向く三河の徳川家居城岡崎城での交渉の事前準備を、徳川家側が行う必要が出てくるのだ。
道理と正当性を訴えるだけで、後の対応は徳川家で行ってくれるだろう。
「月斎。よろしく頼むぞ」
「ははっ」
そして、オレが得る次代の徳川家当主の信頼。プライスレス。
今後、今川家と親しい徳川家になってもらうキーパーソンである人物と初の対面としては、悪くないかと思われる。




